>03
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シズちゃんの事は早く忘れて、新たな1歩を踏み出すには丁度良い晴れ日和。カーテンの隙間から漏れる朝日の眩しさで目が覚める。
心機一転――のはずがシズちゃんの夢を見てしまうあたり、やはり私は諦めが悪いようだ。夢といっても特別なものではない。自分の中に残っている思い出が夢となって、脳内に再生される。夢の中で私は第三者立ち位置で、それを懐かしむように見る。ああ、なんて往生際の悪い性格だろう。
「(……早く起きよう)」
起き上がろうとして、何故か身体が動かない事に気付く。この感覚を、匂いを、私は覚えている。少し高めの体温。力強い腕。ゆっくりと瞼を開いてみると、そこには懐かしいシズちゃんの寝顔があった。どうしていつの間にベッドで寝てるんだろう、なんて事よりも一気に愛しさが溢れ出す。
最低。今日これっきりで2度と会わないって誓ったのに、こんなに可愛い寝顔を見せつけられるなんて。神様はなんて意地悪なんだろう。思わずシズちゃんの髪を撫でる。ピクリ、と反応する瞼。慌てて目を瞑る。
「んあ……」
どうやら起きてしまったらしい。私は引き続き狸寝入りを続ける。今この瞬間起きている事がバレてしまったら非常に気まずい。それにしても……なんて間抜けな声だろう。私の気持ちとは裏腹に。朝が弱いところ、今も変わらないんだね。
シズちゃんはしばらくモゾモゾと動いた後、私の頬にそっと触れる。針で刺すようにチクチクと、痛いくらいにシズちゃんの視線を感じる。なんだか無性に恥ずかしい。このまま寝惚けて寝返りを打つフリでもしてしまおうかと思った矢先。
「……?」
ふにゅ、と唇に柔らかい感触。驚きのあまりに、思わず声が出そうになったのをなんとか必死に堪えた。その後も触れるだけの感触が2、3度続き、シズちゃんは私を抱き締めたまま何事もなかったかのように、再び眠りに就いてしまった。
――? ……!?
――……なに、今の。
――もしかして、キス!?
それからしばらく起きるに起きられず、顔が熱いのを感じながら1時間が経過した。シズちゃんが完全に目を覚ましたのは8時頃。朝の第一声は「やべぇ、仕事遅れる!!」ガバリと上半身だけ起こした後、隣で狸寝入りを続けている私の身体を揺さぶり始めた。
シズちゃんの真意が分からない。シズちゃんって一体何考えてるの!?昨日の様子を見る限り、私の事を覚えていないのは明白だ。寝惚けていたにせよ、一瞬の気の迷いにせよ、私からしてみれば大事件に等しい。
「具合はどうだ?」
「……大丈夫」
「……無理すんなよ。なんだかやけに身体熱くね?」
原因はシズちゃんの行動にも一理あるのだが、本当に具合はよろしくないらしい。良くなってきているどころか、更に悪化している。
頭の中がぐらぐらして今にも倒れてしまいそう。そんな私を心配して、シズちゃんがコップ一杯に水を入れて持って来てくれた。キンキンに冷えた水が、熱で火照った身体に気持ち良い。
「とりあえずここを出て、薬買ってから帰るぞ」
「……どこに?」
「俺ん家」
「!!? い、いいって!いいです!私、大丈……」
「うっせぇ、病人は黙って看病されてろ」
「……」
――ああもう私の馬鹿!
――どうして風邪なんてひくかなぁ……
いつもは風邪なんて滅多にひかないのに、こういう時に限っていつもそう。半日寝れば治るところ、今回は最近の疲労からか、病状がかなり悪いようだ。白シャツを羽織い、ボタンを閉めながらシズちゃんが問う。
「とりあえず歩けるか?」
「ま、まぁ……」
「そっか。今の時間帯ならあまり人通りもないだろうし、すぐに出るからな」
「……ていうか、ここ、シズ……貴方の部屋じゃないんですよね?」
「……」
「どこ、なんですか?」
「……いや、ほら、あそこからじゃあ俺ん家まで結構距離あったし、他に泊まれる場所もなかったし、時間も時間だったから……」
シズちゃんの目が泳いで見えるのは、私の目の錯覚だろうか。答えは否。そして私たちが一晩過ごしたこの場所がラブホだったと知ったのは、それから数十分も経たないうちである。
そのままお互い妙に気まずいまま、近くの薬局で薬を買う。私の持ち金が少なかったので、シズちゃんがお金を貸してくれた。また会わなくてはならない口実を自分でつくってしまった。それから向かうは、シズちゃん宅。場所が1年前と変わっていない事に、ほんの少し安堵する。家に着くなりシズちゃんは、真っ先に私をベッドに寝かしてくれた。
「なんか……色々ありがとう」
「お、おう」
久しぶりの空気。久しぶりの匂い。前はここで暮らしていただけあって、この部屋の雰囲気はやけに落ち着く。とりあえず今は風邪を治す事が先決だと判断した私は、大人しくベッドに横になった。しばらくしてからシズちゃんが部屋着に着替えて戻って来た。Tシャツにズボンのラフな格好。
シズちゃんのバーテン服以外の服装は、一緒に暮らしていた経験のある私からしてみても貴重である。ちなみに仕事は休んだらしい。
「ええ、そんな仕事休む事までする必要ないですよ」
「問題ねぇって」
「だ、駄目だって!トムさんに迷惑掛けちゃ……」
「……?あんた、トムさんの事知ってんのか……?」
「……(やば)」
ついつい口が滑ってしまった。とりあえずこの場は笑って誤魔化し、風邪をいい事に咳をする。熱が極端に高いだけで、実際喉やら鼻に異常はないんだけれど。
沈黙に耐えきれず、それを埋めるようにわざと咳を繰り返していると、シズちゃんがのど飴を持って来てくれた。ほんのちょっぴり罪悪感。袋を破って口に含むと、何故か梅味だった。
「腹、減ってねぇか?」
「うん、大丈夫」
「なんかあったらすぐ言えよ」
「……ありがとう」
優しくされると苦しくなる。好きだって気持ちが抑えられなくなる。今この心臓が高鳴っているのは、きっと熱があるせいなんだ。口内に広がる梅の味を舌の上で堪能しながら、私は枕に顔を埋めた。……ほんのりシズちゃんの匂いがする。
私はこれからどうしたらいいんだろう。熱が下がったら……さよなら?もう終わり?今も悩み続けている。
「なぁ」
「……」
「……寝た、か?」
シズちゃんの呼び掛けには敢えて応えずに、顔を埋めたまま動かない。するとシズちゃんは、私が寝てしまったのだと思ったのだろう。フゥ、と小さくため息を吐くと、昨日してくれたみたいに頭を優しく撫でてくれた。そして何度か動きを往復させた後、ふいに動きがピタリと止まる。
肩を力強くぐいっと引かれ、突然仰向けにされる。シズちゃんが両手を私の顔の真横につく。寝ているフリをしていた事もすっかり忘れ、私はこの状況に戸惑っていた。目と鼻のすぐ先にまで迫るシズちゃんの顔。
「なっ、なに?」
「……」
視線がぶつかる。それでもシズちゃんは全く動じる事なく、真っ直ぐにじっと私を見つめる。心臓がうるさいくらいに高鳴る。今朝も妙に緊張したけど、今のは比べ物にならないくらい。
――目と目を合わせるのって、こんなにも緊張するものだったっけ……
きっと久しぶりの感覚過ぎて、忘れてしまっていたのだろう。本気で拒絶しようと思えば出来るのに、今それをしないのは、きっと嫌じゃないから。自分に素直になれないのは私の方だ。
ちゅ、と音を立てて、シズちゃんの唇が目尻に触れる。くすぐったいような、不思議な感じ。次は項に口づけるかと思いきや、かぷりと耳に噛みついた。そのまま舌を滑らせ、耳元でぴちゃぴちゃと音を立てる。水音が鼓膜を細かく震わす。
「し、シズちゃ……」
その巧妙で、丹念な舌使いに思わず身体が反応する。それどころかむしろ気持ち良い。シズちゃんはしばらく舐め回した後、やっとの事で唇を離すと、何も言わずに唇を重ね合わせた。
触れるだけの優しいキス。
――この感覚……朝の、
「どうして思い出せないんだろうな、俺」
シズちゃんが眉をひそめながら言う。
「でも、こうしていると思い出せるような気がする」
「……シズちゃん」
ギュッと身体を抱き締められる。「もう1回」それだけ言うと、シズちゃんは再び唇を寄せた。
「ぁ……」
「もう1回」
「……ん、」
何度も何度も触れるだけのキスを繰り返し、次第に深みを増してゆく。「もう1回」「もう1回」お互い無我夢中に貪るように口づけを交わし、やっとの事で解放された時には呼吸すらままならない程だった。シズちゃんの唾液で濡れた唇が色っぽい。クラクラする。
シズちゃんが何かを言いかけて、すぐに止める。私も何か言おうと口を開いたけれど、今更話す内容も何も思いつかなかった。再び沈黙がこの部屋を支配する。
「ッ、 わ、悪ぃ……なんか、あんたの顔見てたら止まんなくなっちまって」
「う、ううん」
「……」
顔を真っ赤にしながら、視線をそらすシズちゃん。そんな彼が愛しくて愛しくて、何故だか涙が溢れてきた。「!?そ、そんなに嫌だったか!?」シズちゃんが慌ててそれを拭う。私はすぐに首を振って否定した。
「違うの……なんか、止まらなくなっちゃって」
蓋をして、ずっと封印してきた『好き』の気持ち。シズちゃんと離れてから、私が他の男の人と恋に落ちる事は一切なかった。多分私は、自分が思っている以上にしつこい子なんだ。シズちゃん以外の男の人なんて、考えられなかったんだ。
薬が効いてきたのか、身体のダルさは感じられなかった。私はゆっくりと上半身を起こすと、ベッドの上から降りようとする。……駄目だ。これ以上ここにいたら、私はまたシズちゃんの事を好きになってしまう。
「どこ行くんだよ」
「もう、そろそろ帰らなくちゃ。具合も良くなってきたし……」
「!? いや、待てって!今は薬で誤魔化しちゃいるが、まだ完璧に治った訳じゃあ……!」
――やっぱりシズちゃんは優しいね。
――"初対面"の人間に、こんなによくしてくれるのだから。
「ありがとう。……シズちゃん」
「……ッ!!」
もしかしたらひきつっていたかもしれない。笑えていなかったかもしれない。だけど私は私なりの精一杯の笑顔を演じて見せた。シズちゃんは顔を一瞬ひきつらせたものの、そのまま何も言わずに俯いてしまった。
家を出て、涙が溢れ出てしまわないようにやや上を向いて歩く。一瞬だけ足元に視線を向けると同時に涙が零れ、それからは下を向いて歩いた。しばらく歩いて行った先で、視界の端に誰かの足元がチラリと映る。
視線を上げると、そこにいたのは――
「おかえり。随分と遅かったねぇ」
「……臨也さん」
臨也さんは全体重を預けていたコンクリートの壁から背中を離すと、両手をポケットに入れたままゆっくりと歩み寄って来た。頭にすっぽりとフードを被って。
もしかしたら、臨也さんは始めから私のいた場所を知っていたのかもしれない。
「久々に会うアイツはどうだった?」
やっぱり臨也さんに隠し事は出来ませんね。何食わぬ顔で笑って言った。涙で濡れた顔を悟られぬように。