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そろそろ罪歌――いや、その持ち主である贄川春奈が俺からのサプライズに歓喜している頃だろうか。そんな想像に浸っては、1人クスリと笑みを溢す。右手に下げた買い物カゴの中には2人分の鍋の材料。どうして鍋なのかと問われれば別に大した意味もないが、手軽且つ簡単に作れる料理を考えた結果、自ずと『鍋』に行き着いた。そもそも俺は料理なんてものをあまりしないし、大抵出前や外食で済ませてしまう。手軽ではあるがインスタントは嫌いだ。今は秘書である波江に任せてしまう事が多い。
鍋なんて、思い返せばいつぶりであっただろう。まだ俺が子どもだった頃、家族で囲んで食べた記憶が僅かながらに残っている。あまり家族との思い出は記憶にない。家族との折り合いが特別悪いという訳ではないが、純粋にあまり興味が無いというのが正直なところであり、ただ、鍋がそこそこ好きだったという事は何となく記憶していた。
『鍋……ですか?』
「そ、鍋。コンビニで適当に材料買ってくからさ」
それじゃあ、とだけ残し一方的に通話を切る。こうして適当に口実を押し付けてしまえば、約束事に律義なみさきはむやみに動けないだろう。みさきの身の安全を確保する為には、今、彼女を外に出す訳にはいかない。みさきを守りたいという潜在意識がそうさせているのか、裏で上手い具合に立ち回る今の俺は柄になく必死だった。
――クールになれ、俺。
ぐしゃぐしゃと前髪を乱暴に掻き乱し、1つ溜め息を漏らす。先程のみさきの言葉を思い出す度に、胸の奥がギュッと締め付けられるような気がした。どうやら彼女は思っていた以上にアイツの事が好きらしい。分かってはいた。いたのだけれど――実際にいざ彼女の口からそれを聞いてしまうと、その事実はあまりにも苦々しいものだった。俺はいつから彼女を好きになってしまったのだろう。俺はどこから間違えた?思い返せば、みさきがアイツと接点を持ってしまったその瞬間から――もう手に入らないのだと悟った時には既に俺は恋してた。手に入らないと分かっているからこそ、無性に欲しくて堪らなくなる。隣の芝はいつだって青いし、食べてはいけない林檎はいつだって美味しそう。つまりは簡単に手に入ってしまうものにも、それを手に入れる手段にも興味はない。自分の思い通りにならないからこそ俺は彼女に執着しているのだろう。
野菜たっぷりのビニール袋を手に下げ、コンビニから出てきた俺の姿は、他人の目から見たら実にシュール。なんたってコンビニでの買い物は明らかに高上がりなのだから。わざわざコンビニで野菜を定価で買う輩なんて、そうそういない。
――…もうこんな時間か。どうりで暗いと思った。
――さて、今頃池袋はどうなっている事やら。
他人事のようにそう思いながら、それを確かめるべく一旦マンションへ再び足を向けると、そこには長身のバーテンダーが今、まさに扉を蹴り飛ばそうとしている最中だった。彼の正体は言わずもがな。デュラハンの首を隠している事もあった手前、部屋に入って暴れられては非常に困る。俺はポケットの中に小型ナイフを忍ばせている事を感触だけで確認すると、いかにもわざとらしく大きな声でこう言ってやった。その声音には相手に対する不満を包み隠さず滲ませ、苦々しいという表現が似合う笑みを表情全面に出しながら。
「なーんで、シズちゃんが俺のマンションの前にいるのかな?」
――あぁもう、さっさと死んでくれよシズちゃん。
――俺の幸せの為にもさ!
♂♀
1時間前 新宿高級ホテル
臨也さんに一方的に電話を切られ、携帯を手にしたまま考える。すっかり暗い漆黒の夜空に星の輝きは見当たらない。まるで何か良からぬ事が起こる前触れのようだと不吉な事ばかりが頭を過った。罪歌の情報を聞き出す為に秘書に戻る事を決断したはずが、大した収穫もなくはぐらかされてしまったような――あわよくば早く臨也さんが帰って来ますようにと願いつつ、開かない扉の前で立ち尽くす。やはり押しても引いても開かない扉は外から施錠されているようで、こればかりはどうしようもない。
――……なんだろう。このざわざわとした気持ち。
――気のせい……じゃないよね?
胸騒ぎがする。まるで木々が嵐の風に揺られ音を立てるかのように。しかし窓の外から聞こえてくるのは車のクラクションや街中の騒音。恐ろしい程に自然の風なんてものは少しも吹いてはいなかった。これが嵐の前の静けさ、とでもいうのだろうか。ネオン色に輝く新宿の街並みを高い位置から見下ろしながら、私は星の見えない今宵の夜空にどうしようもない違和感を覚えていた。
そんな時――トントンと扉をノックする音。突然の来訪者に驚くも、用心深く様子を伺う。しかしその正体はホテルの従業員だったようで、その証拠に覗き穴から見えた女性の胸にはホテルの紋章が誇らしげに光っていた。ホテルの従業員という事は、この部屋の合鍵を持っているはず。もしかしたら外に出られるかもしれないという僅かな可能性を見出だし、ひとまず女性の用件を聞く事にする。
「みさき様の部屋でお間違いないでしょうか」
「は、はい!ええと、一体どんなご用件で……?」
「実は先程、貴女に会いたいというお客様がいらっしゃいまして……お通ししてもよろしいでしょうか」
「客……?その人、どんな人ですか?」
「ええと、確か金色の髪をしたバーテンダーだと上の者から伺っておりますが」
「!」
お知り合いで?従業員からの問い掛けに、私はすぐに肯定する。間違いない。シズちゃんが私を探しに来たのだ!そればかりが頭の中を先行し、どうしてこのホテルにいる事を知ったのかという疑心的な考えは思い浮かびもしない。訳あって連れが鍵を閉めたまま出掛けてしまったのだと話すと、従業員の女性は快く鍵を開けてくれた。ようやく部屋の外に出る事が叶い、改めてお礼を告げようとするが――瞬間、ぞくりと悪寒が走る。さっきまで何ともなかった彼女の目が、まるで充血したかのように真っ赤に染まっていたのだから。
「ッ、罪歌!?」
「あぁやっぱり。貴女、平和島静雄には過剰に反応するのね」
打って変わり、罪歌特有のねちっこい女性口調になっている事に気付く。という事は、この女性も罪歌に斬られた犠牲者のうちの1人という事に他ならない。身の危険を感じ距離を置くが、対して罪歌は微塵も動じない。両手をパーにしてこちらへ差し出し、何も持っていない事を証明する。
「安心して。生憎、今は刃物を持ち合わせていないの。この女の職業柄、仕方のないことね」
「じゃあ、一体何の用……?」
「貴女に、選ぶ権利を」
迷いのない、やけにはっきりとした声。差し出した両手を戻しながら、彼女は怪しげににんまりと笑う。不自然に歪んだ口端はまるで三日月を彷彿させる。
「私たちは今夜、平和島静雄と愛し合うわ」
「!」
「だけど、貴女も平和島静雄が好きなんでしょう?もし、貴女が本気で平和島静雄を愛しているのなら……どちらの愛が勝っているのか勝負しましょう」
「勝負?」
「初めは平和島静雄という男も、貴女を愛する為の踏み台でしかなかった。だけど……気付いてしまったのよ。彼はただ者じゃないわ。あの力こそが、私たちの求めていた力……!」
頬を染め、うっとりとしたその表情はまさに淡い恋心を抱いた女性そのもの。その対象がシズちゃんだというのだから、当然いい気のするものではない。成る程、これがもしかすると臨也さんの言っていた『今夜池麩で起こる"何か"』なのかもしれない。そしてどういう訳か、罪歌は私がその場に居合わせる事を望んでいるらしい。このまま相手の思うがままになってしまうのも気に食わないが、何もせずにただシズちゃんだけが危険に晒されてしまうのはもっと嫌だ。正面から向かったって敵わない相手かもしれない。けど、敵わなくたっていい。もう指をくわえて見ているだけの弱い自分はいないのだ。
「……場所は?」
「そうね、出来るだけ広い場所がいいわ。南池袋公園なんてどうかしら」
「どうして池袋にこだわるの?」
「分からない?私は池袋という、人間の営みを愛したいの。母も今頃池袋にいるでしょうし……ね」
贄川春奈。
恐らく、彼女のいう母とは贄川さんのことだ。今頃那須島先生を斬ろうとしているのか、それとも。少なくとも罪歌と贄川さんの根本的な狙いは合致していない。しかし罪歌の狙いは『全人類を愛する(斬る)こと』であり、当然那須島先生みたいな人でも『全人類』のうちに含まれているのであって、罪歌の目的には然程差し支えないのだろう。
「サインは他の姉妹たちに送らせたわ。平和島静雄も気付いてくれるかしら……?ネットって本当に便利よね。色々なところに書き込ませてもらったわ」
色々なところ、というのはチャットルームや掲示板の事だろうが、シズちゃんはあまりネットを利用したりしない。せいぜい美味しいスイーツのお店を検索するか、その程度だ。だからシズちゃんが南池袋公園に来る事はない。そもそも罪歌からの呼び掛けに気付く事もないはず――そうは思っても、度重なる不安要素は拭いきれない。仮に気付く事があったとして、ならばそれよりも先に私が彼女との決着をつければいい。何としてでも食い止めて、罪歌を近付かせなければいいだけの話だ。それがどんなに大変な事か頭では分かっているのだけれど、そうする事が今の私に出来る精一杯の抵抗だった。
♂♀
某報道番組。
『ただ今入ったニュースです』
『池袋で、辻斬りによる推定54人もの犠牲者が、各所で同時に発見される事件が発生しました』
『尚、被害者らはいずれも軽傷を負っており、その犯行手口が似ていることから同一犯の仕業ではないかと調査が進められています』
『しかし、犯行時刻がほぼ同時であることもあり、警察当局は複数による犯行グループが存在する可能性についても言及し――』
♂♀
チャットルーム
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
{現れて}
{私の前にもう1度現れて、静雄}
{私と私の姉妹達の前にもう1度現れて、静雄}
{今度は、もっともっと愛するから}
{姉妹は、私と同じ存在だから}
{みんなで、一斉に愛してあげるから}
{現れて}
{平和島静雄}
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――
――罪歌さんが入室されました――