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数時間前 池袋
某アパートの一室
みさきには頑固たる目的がある。彼女は罪歌に関する事件の終焉を強く願っていて、それら一連の責任は少なからず自分にあると思っている。過ぎ去った過去のトラウマはそう簡単に切り離せない。俺にだってそういったものはたくさんあるし、1年前みさきに本当の自分を晒け出せなかった部分はそこにある。大切な人をもう2度と傷付けたくないが故に、俺は本当の事を話せなかったのだ。だからみさきが罪歌に執着する気持ちは痛い程分かるし、協力してやりたいとも思う。
だがしかし、それがみさきに危害を加える恐れがあると分かれば話は別だ。どんな理由があるにせよ、俺はみさきの身の安全をまず第一に考えたい。その為に俺が成そうとしている事は果たして間違っているのだろうか。それを認めてしまったら、今まで良かれと思ってしてきた事全てを否定してしまうようで怖い。モヤモヤとした気持ちのまま時間は刻々と過ぎてゆく。数分前みさきが出て行った扉をただ呆然と眺めているうちに、窓の外に広がる青空は次第に色を失いつつあった。電気も点けず、頭を壁に預け空虚な空間をぼんやりと眺める。窮屈に感じられた小さな部屋も、1人では広く感じられた。
「……また、やっちまった」
みさきの事になると、ついムキになってしまう俺の悪い癖。これでは鬱陶しく思われても仕方がない。暗くなっても尚帰る気配のないみさきの行方が気にはなったが、携帯に伸ばしかけた手を止め、連絡を入れる事に躊躇してしまった。しつこ過ぎては嫌われるのではないか、と、中学生並みの幼稚な不安が頭を過る。そんな自分を馬鹿らしいと内心嘲笑いながら、実際とてもじゃないが笑える状況ではなかったので、ちっとも笑う事など出来やしない。
いっそのこと、この手で彼女の自由を奪えてしまえればいいのに。俺から逃げる足など、俺を拒否する腕など、みさきには必要ないのだから。それならば骨をへし折ってでも、あの時彼女を止めるべきだったか。それをしなかった自分を酷く憎たらしく思うあたり、やはり俺のみさきに対する恋慕の感情は何処かで歪んでしまっているのだろう。今更この気持ちを抑える事など出来ないし、変えるつもりも毛頭ない。もう戻れないと分かっているから、あとは貫き通すまで。
【今から時間あるか?】
【会って、話がしたい】
セルティからのメールが届いていたのは、みさきが部屋を出て行った丁度17時頃だった。それにようやく気付いたのが、遅番の仕事に向かう通りの途中。こんな中途半端な気持ちのまま仕事に勤しめるとは思えなかったが、トムさんや社長にこれ以上迷惑を掛ける訳にはいかない。しかしセルティからのメールの文面からは何処か焦りのようなものを感じ取り、予め会社と電話で交渉し、休憩時間を削る代わりに出勤時間を遅らせてもらう事にした。セルティと話をすれば少しは気が紛れ、その後の仕事にも勤しめるかもしれない。
18時。都会のくせに夕暮れの田舎臭い空の下で、俺はセルティに初めて昔の話をした。延々と語り続ける俺の隣に腰掛け、セルティは何も言わずに話を聞いてくれた。話せない、というのが正しいのかもしれないが、話せるか話せないかの違いなど今はどうだっていいのだ。ただ話を聞いてくれる事が嬉しかった。
1度話し出したらなかなか止まらず、今まで誰にも打ち明けた事のなかった願望までもが口をつく。強くなりたい。単純に喧嘩が強いだとか、そういうんじゃなくて。もっと人として、本当の意味で強くなれたらどんなに報われるだろう。そうしたら俺はきっとみさきを傷付けずに済む。この歪んだ愛情を抑えられるだけの自制心を、負の感情に負けないくらいの強い心を持つ事が出来たなら――そう願わずにはいられない。
「強くなりたいんだよ」
自分の正直な気持ちをこうして口にするのも初めてだった。しかし、いざ言葉にしてみると案外胡散臭く聞こえてしまうものだと苦笑する。こんな風に話せるのも、セルティとの長年に渡る付き合いの間柄、心から信頼しているからだろう。
「悪いね、また愚痴っちゃって。……で、今日は俺に何の用だい?わざわざそっちから来てくれたってことは、何か俺に用があるんだろう?」
十分愚痴った、弱音も吐いた。今度は俺が聞き手になる番だ。わざわざ呼び出しのメールを送って来たのだし、もしかすると余程重要な用件なのかもしれない。
セルティはやはり無言のまま、しかしはっきりと頷いてみせると、PDA画面に素早く文字を打ち込んでゆく。ひょいと隣から覗き込んでみれば、そこにはなんと極限触れたくない話題が綴られているではないか。必要最低限の言葉で提示された情報は次の通りだ。街で起こっている切り裂き魔事件の事、最近ネットで俺の名前を頻繁に出す怪しげな人物の存在、そして以前俺がぶん殴った雑誌記者が切り裂き魔の被害に遭ったのだという事。まるで疑われているかのような文面に片眉を眉間に寄せ、ストレートに疑っているのかと訊ねると、セルティは面食らった様子もなくヘルメットを横に振って否定した。
『ダラーズのメンバーも、やられたらしい』
「ああ、知ってるよ。俺にもメールが来た。正直、協力はしてやりたいが……」
ふと、みさきに口止めされている事を思い出して口を紡ぐ。それは出来るだけ被害を拡大させたくないが故の彼女の切実な願いだ。一旦間を置き、疑われない程度のそれらしい理由を口にする。「俺はサイモンに誘われて入っただけで、そこまでダラーズの連中とは深い付き合いがある訳じゃない」、と。そしてそんな浅い付き合いだからこそ、自分なんかが仲間でいられるのだという自虐的な台詞を付け足した。今言った事は嘘ではない。事実サイモンに促されるがままダラーズに入り、生活に何か変化があったかと問われればそんな事もない。ただ何処かのグループに所属していたいという潜在意識がそうさせたのか、たった1度だけ開かれたダラーズの集会にも俺は足を向けていた。
とにもかくにも、この流れは非常にまずい。出来るだけこの話題からセルティを遠ざけようと試みるが、そんな彼女の口(?)から発された言葉を聞くや否や、そんな試みは頭の中から掻き消されてしまった。
『私もこないだ通り魔に斬られてね。首を横一線にやられたよ。私が首無しじゃなかったら死んでたところだ』
♂♀
30分後 新宿高級ホテル
1人で寝るにはあまりにも広い大きなベッドに身体を横たわらせ、シミ1つない真白な天井を見詰める。臨也さんはたった数分前、突如鳴り響いた携帯の呼び出しに応じるなり、すぐに戻るからと言って部屋を後にしてしまった。どうやら取引先からのようだった。顔をニヤつかせてメールを返信していたところを見る限り、余程親しい相手か、或いは顔馴染みか。これからの事に思いを馳せ、場所を移そうにも部屋の扉にはいつの間にか鍵が掛けられており、密室に閉じ込められた私に成す術はない。
寝転がったままリモコンへと手を伸ばし、テレビを点ける。今の私にとって唯一の情報源だ。しかしどの局もこの時間帯はバラエティー番組やドラマばかり。とあるチャンネルで羽島幽平のアップがテレビ画面にパッと映り、そういえば彼主演の刑事ものドラマが今週の視聴率ランキングで見事トップに輝いていた事をふと思い出した。何となく見ているうちに世界観に引き込まれてしまい、約60分間という長いようで短いドラマ放映時間があっという間に経過してしまう。次回予告でハッと我に帰った私は、忙しなくベッドから飛び起きると頭を冷やそうとベランダに出た。冷たい夜風に身を晒せば、少しは現実味のある考え方が出来るんじゃないかと思った。そんな矢先、携帯が鳴る。シズちゃんからだ。予想通りではあったが、出にくい。
「……はい」
『俺だけど』
「……」
『色々と面倒な事になる前に、これだけは言っとこうと思ってさ』
「面倒な事……?何それどういう……」
『いいから。お前はただ隠れてりゃいいんだよ。いいか?今どこにいるかは知らねえが、絶対にその場を動くんじゃねえぞ。何が起きても、だ』
「ま、待って!言ってる意味がわかんない!」
『分からなくていいから。分かったな?』
「だから分からないって!」
何かとてつもなく大きな事が起きようとしている、そんな予感。怖い。シズちゃんは一体何をしようとしているの?訊ねても彼ははぐらかすばかりで、答えらしい答えを返してくれない。
「ねえ、シズちゃん!約束、守ってくれるよね!?」
『……悪ぃ。やっぱ無理だわ。俺、隠し事とか元々向いてねえし、平然と嘘吐けるほど器用でもない』
「今どこ!?私、今から行くから!」
『……』
「シズちゃ……」
『言えねえ。言ったらお前、来るだろ』
「ッ!!!」
どうしてこんな事になってしまったのだろう。シズちゃんは確実に罪歌の中心へとその足を向けている。私が何の考えもなしに1人飛び出したりしなければ、今も彼の近くに付いてさえいれば、彼1人危険な目に晒される事はなかったはずだ。私は1人のうのうと『施錠された密室』という名のある意味最も安全な地帯に身を置いている。この一般常識が罪歌に通用するかはさておき、少なくとも彼よりは間違いなく安全だ。
「やだ!お願い、待って!」
『お前だって人の話聞かずに飛び出したじゃねえか』
「そ、そうかもしれないけど……お願い!一生のお願いだから!せめてもう1日だけは……」
『決めたんだよ』「?」
凛とした、それでいて静かな声。
『やっぱり俺、みさきの事がどうしようもなく好きみてぇだ』
「っな、にを、突然……」
『他がどうなろうと構わねえ。例え結果としてみさきの意思に反する事になったとしても、それでみさきを守れるってんなら俺は何だってしてやれる。そうでもしねえと、俺なんかがみさきと一緒にいられる訳がねえ。……だろ?』
「いらない!守らなくていい!何もいらないから、私はシズちゃんが無事でいてくれればいいの!」
『ははッ。彼女に守ってもらう男とか、格好悪過ぎだろーが』
そう言うと僅かに笑い、
『今更やめる気はさらさらねぇんで』
『……約束、守れなくてごめんな』
耳鳴りがやまない。通話の切れた携帯を尚耳に押し当てたまま、その場から動けず立ち竦む。どれくらいの間そうして無駄な時間を過ごしていただろう。繰り返される無機質な音、回らない思考回路。目の前に突き付けられた現実が重圧となり、重く肩にのし掛かる。
「……分かんないよ……」
やっぱり、ズルイ。どうして謝るの?そんなに弱々しい声で謝らないで。何も言い返せなくなってしまう。
シズちゃんの名で埋め尽くされたチャットルームを思い出す。背中を何か冷たいものが流れ落ち、背筋が凍る思いだった。早く何とかしなければ。このままではシズちゃんが危ない。焦る気持ちとは裏腹に、非力な自分に何が出来るだろうと必死に思考を巡らせた。しかし良い案は一向に浮かばず。それならいっそ、考えるより先に行動に移してしまうのも悪くない。