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「そっちの男が3万なら、俺は5万でどう?」



そう言って冗談っぽく笑う彼の姿は、私の記憶の中の彼そのものだった。思いがけない場所で探し求めていた人物が偶然見つかるとは驚きだ。目を丸くして驚く私を見て、まるで幽霊でも見たかのような反応だと言って声に出して笑う臨也さん。開いた口が塞がらないという表現は、まさに今のような状況で使うに最も相応しいであろう。そんな私の代わりに真っ先に口を開いたのは、少し苛立った様子の見知らぬ男だった。何のつもりだお前は、何者だの口々に喚いている。対する臨也さんは極めて冷静そのものだ。



「そっちこそ、この子に何の用ですか」

「君には関係ないだろう。大人をからかうんじゃあない!」

「大人、ねぇ。いい歳した大人がナンパですか。どうせ金で釣ろうって魂胆でしょう」

「……何が言いたい」

「いえ、何も。ただ、もしこの事実が公になれば困るのは貴方の方じゃあないですか。大企業の若手社長サン?」

「な……ッ!」



まるで信じられないとでもいった表情で大きく目を見開く男。先程までの余裕な態度が嘘のよう。化けの皮を臨也さんに剥がされ、次第に明らかにされてゆく男の本性。終いにはだったらどうしたと開き直り、金に物を言わせんばかりに臨也さんへと食って掛かった。

思わず苦笑する。口先だけで臨也さんに勝てるはずがないというのに。彼をよく知る私だからこそ、男が挑もうとしている事があまりに滑稽に映ってしまう。職業柄、彼は言葉を巧みに操る事を得意とする。私も今までに何度その口車に乗せられ迷わされてきた事か。



「だったらどうした。有り余る金の力でお前を屈伏させてやる事も容易いぞ?」

「おぉ、怖い怖い。金は人間を駄目にするねえ。まあ俺から言わせてみれば、そんな金の力に堕落しきった人間の行く先なんていうものは実に興味深い。要するに、あんたみたいなヤツの事さ。そういう人間であればある程、これ以上に見ていて愉快なものはないよ」

「は……?」

「そんな事はさておき、いい加減その汚ならしい手をその子から離してくれないかなあ。今夜の相手を引っ掛けたいのなら、そこらへんにいる適当なのを口説けばいい。金さえあれば釣れるんじゃない?品の欠片もない、頭の悪い低脳な女でよければね」

「……言わせておけば」


男の肩がわなわなと怒りに震えているのが分かる。これだけ散々言われているのだ、顔を合わせたばかりの他人相手に。しかし挑発めいた臨也さんの言葉に男が取った行動は、胸ぐらを掴んで怒鳴り返す――ではなく、私の手を引いて逃げるようにその場から離れるという予想外の反応だった。

ぽかんと呆気に取られているうちに、俺はずんずんと先へ進んでゆく。悔しそうに舌打ちをし、それでも何も言い返さないまま。ここで怒鳴り散らしてはスマートでない、プライド高い男の美学に反するのだろう。



「なッ、待って下さい!」

「ああいう輩は実に面倒だ。君は黙ってついて来ればいい。なに、悪いようにはしないさ。さあ、いくら欲しい?なんなら5万に上げてやろうか」

「ッ!」

「金はいくらあってもいいだろう?君にとっても悪い話ではないはずだ」

「……」



私たちの生活が金銭面的に厳しいのは事実。確かにシズちゃんは以前よりも増して頑張ってくれているのだけれど、正直それだけでは足りないのだ。ただでさえ私とシズちゃん合わせて2人分の生活費が必要だというのに、彼1人の収入でやりくりするのは骨の折れる作業である。しかし理由はどうであれ、私は現にお金で気持ちが揺らいでしまっている事も事実。……最低だ、これでは身体を売るも同然の行為ではないか。そうと分かっていても尚首を横に振れないのは、金の額に目が眩んでしまっているから。そんな意地汚い人間の欲に嫌気が刺す。



「まずは食事でもどうだ?それからは……上質な部屋を取ってやろう。とっておきの店がある」

「で、でも……いえ、やっぱり私……」



言いたい事がはっきりしないうちに、促されるままにやって来た部屋の一室。白い壁、高級感溢れる装飾品の数々、1人で寝るには大き過ぎるベッド――1泊何十万もするであろう部屋を前に、そこでようやく目が覚める。こんなところで何をしているんだ、私。一瞬でも愚かな考えへと至ってしまった自分が情けない。

つい先程喧嘩して、一方的に飛び出して来た私。にも関わらずこんな時に思い浮かべるのはシズちゃんの顔……まだそう時間は経っていないのに、こんなにも会いたくて仕方がない。なんて自分勝手な性格だろう。



「……帰して下さい」

「それは出来ない相談だ。第一、ここへ来るまでに逃げる機会なんていくらでもあっただろう。君も金が欲しかったんじゃあないか」

「そ、そんなんじゃないです!ただ、あまりにも現実味が沸かなくて……だって、5万なんて大金……とてもじゃないけど、考えられないじゃないですか……」

「そうかい?私ほどの男となれば、5万なんぞ可愛いものさ。金ならいくらでもあるからね」



不敵な笑みを浮かべるこの男を、今はただ気味が悪いと思う。どうして私はあの時のこのことついて来てしまったのだろう。いや、それ以前にどうして何の考えもなしに家を飛び出して来てしまったのか。改めて冷静になってみると、こんな時間に新宿をフラついていれば、こういう可笑しな輩がいるであろう事は事前に想像出来ただろうに。こんな事になるのなら、いっそ臨也さんに助けを求めていれば――少なくとも、名前すら知らないこの男にホテルへ連れ込まれる事はなかった。迂闊だった。軽率だった。いくら自身を責める言葉を並べたって、この狭い個室には私を救ってくれる人などいない。あぁ、これはきっと罰なのだ。身勝手で軽率な自分への戒め。

男に手を引かれ、無理矢理ベッドへ押し倒される。しかし、何せ高級ホテルのベッドであるが故、弾力性には優れているようで。それが幸いしてなのか皮肉な事に、衝撃は然程感じられなかった。反動で身体が1度跳ね、ふわふわなベッドに包み込まれる。肌触りだけは無駄に良い。さすがは高級ホテルの一級品。状況を客観的にしか捉えられずにいる私を見て、男は心底楽しげに口の端を歪ませた。



「……冷静だな」

「まだ、現実だと実感出来なくて」

「今の状況を、か?すぐに快感で思い知らせてやる」



そんなクサイ台詞も、私の心には響かない。ただそこにあるのは無だけ。何も感じない、感じられない。こんな男に感じる心など、ある訳がないのに――「馬鹿みたい、私」気付いたら勝手に口が動いていた。涙が溢れそうになって、堪えようと瞼を閉じる。今の私に助けを請う資格などない。



「そうだね。君は本当に馬鹿だ」

「……」

「否定しないの?つまらないなあ。だけど頭の良い君の事だから、今の状況を作り出した自分が何よりも軽率だった事を、誰よりも1番よく知っている。そんなに追い込まれていたのかい?彼女――罪歌に」



――……えっ?

――今、『罪歌』って……



再び目を見開く。聞き覚えのある声に、気配に。彼がいたのは部屋の扉付近だった。壁に身体を預け、まるで存在するのが当たり前であるかのように悠然とした態度でそこにいる。不思議と驚きはしなかった。あまりにも彼――臨也さんがその場の雰囲気と見事にマッチしており、妙な安定感を覚える。違和感は微塵も感じられなかった。対してあからさまに動揺する男の姿に臨也さんは苦笑し、「どうしてお前がこの部屋にいる!?」という男の疑問への答えを提示する。臨也さんの右手に握られているのは、若干厚みのある1枚のカード。数字の羅列とバーコードのようなものが記載されており、一目見てすぐに部屋のキーカードである事を悟った。恐らく使用人とホテル所持者だけが使う事を許された、全部屋共通のキーカードだ。どうして臨也さんがそんなものを?未だに覚束無い頭で考える。無論私が知る由もない。

ただ者ではない、そう直感で感じたのか、すっかり頭の低くなった男。臨也さんの冷たい声で退けと命令され、あの威勢の良さが嘘のようにあっさりと私から身を引いてくれた。恐怖。恐れ。男の今の心情を言葉にして表すのなら、最もシンプルなこれらに限る。傲慢な社長すら恐れる臨也さんの正体とは一体……?



「このホテルが粟楠会の支配下である事くらい、ホテル経営の社長サンである貴方なら、重々理解していますよね?」

「な、なぜお前……いや、貴方様が……まさか粟楠会の方だとは露知らず……」

「んー、正確には粟楠会の内部者ではないんだけどねえ。俺」

「しかし、そのカードは粟楠会の方にしか使えない特別なキーカードであるはずだが……」

「ご名答!さすがは若社長サマだ。その通り、このカードは正真正銘ホンモノです。ていうか、粟楠会指揮下のホテルで偽物が通用するはずがないもんね。それに偽物だってバレちゃったら、入口に立ってたコワーイ風貌の男たちに取り囲まれちゃうよねえ」

「……ッ」



粟楠会。以前、耳にした記憶がある。あれは確か臨也さんの元で秘書として働いていた頃だ。大量の資料を片付ける際に何度も目にした取引相手の名――それが粟楠会だった。当時は珍しい名前だ程度にしか思わなかったが、今なら粟楠会という名に集う者たちがいかに凄い人物であるかが容易に理解出来る。



「まぁどうでもいいんだって俺の事は。頭の悪い若社長サマに、もう1度だけ分かりやすく言ってあげる」

「……離してくれない?その汚ならしい手、をさ」



♂♀

男がいなくなった今、この部屋には私と臨也さんだけになった。気まずい、と感じているのは恐らく私だけだろう。臨也さんは鼻唄なんか歌いながら、部屋の隅々を観察しては「凝ってるねえ」などと言っている。

まず、何から話せばいいのだろう。口を開いては躊躇して閉じる――その繰り返し。ただただ口ごもる私を横目に、臨也さんはやがて部屋の散策をやめ、私の顔をひょいと覗き込んだ。突然迫り寄った端正な顔立ちに、心拍数が跳ね上がる。



「わわ……ッ!び、びっくりさせないで下さいよ……!」

「あはは、そんなつもりはなかったんだけどなあ。驚かせちゃったみたいでごめんね?」

「……いえ」

「それにしても、本当に驚いたよ。金で人を買うだなんて、そんな手口、君みたいな人間は最も嫌うタイプだろう?本当に金に困っていたのかい?」

「ご、誤解しないで下さい!そんな事、考える訳がないじゃあないですか!ただ……お金がないのは事実、で……金額聞いて、唖然としちゃっただけです」

「ふうん。確かにあいつの収入じゃあみさきまで養うのは苦しいかもね。自分1人ならともかく、ペットを飼うとは訳が違う」

「……少しでも力になりたいのに、シズちゃんがバイトを許してくれないんです。頼りっぱなしの自分が許せなくて、……ただでさえ迷惑掛けてばかりいるのに……ほんと、私って、」



自虐的な言葉ばかりが口をつく。この絶妙なタイミングで臨也さんと居合わせた事への疑心、不信感などは感じられなかった。きっと始めからこうなる運命だったのだ。そう考えるしか他ない。だって、偶然にしてはあまりにもタイミングが良すぎではないだろう。

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