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不思議とそれからの足取りは速かった。未だに見慣れない古いアパートの階段を登り、やや迷いながら扉の鍵を開ける。すぐさま視界に映る畳みの部屋、此方に背中を向けるようにしてみさきはそこに座っていた。



「……みさき?」

「あ、お帰り」

「なんだよ、まだ寝てなかったのか」

「だって、明日はお休みでしょう?だから今日は待ってたの」

「待ってた、……って」



壁に掛けられた時計をチラリと見る。――25時、いつの間に日付すら変わっていたようだ。どちらかと言えば朝型であるみさきがこの時間帯まで起きているとは珍しい。以前、夜中に映画を観ていたみさきが観賞後に重い瞼を擦りながら風呂へと向かい、1時間過ぎても戻って来なかった事がある。不思議に思いつつも待つ事2時間、脱水症状を起こしフラフラとした足取りで戻って来た。話を聞くと本人曰く、お湯に浸かったまま眠っていただとか。

案の定、みさきは眠たそうに両手で口を覆い欠伸を1つ。いつもと変わらぬ彼女の姿にホッと胸を撫で下ろし、ただただ何事もなかった事に心から安心した。



「明日の朝は俺が作ってやるから。安心してゆっくり寝ろ」

「……」

「みさき?」

「やだ。寝たくない……」

「……」



――……えーと。

――これは俺の都合の良いように解釈していいのか?



対応に困り、頬をポリポリと掻く。とりあえず買ってきたプリンを小さな冷蔵庫へとしまい、敷布団の上に座り込んだみさきの隣に腰を下ろした。みさきは目を伏せたまま此方へ身を委ねてくる。寄り掛かられている割に彼女の身体はあまりにも軽く、出会った時に比べ明らかに痩せてゆくみさきの身体が心配になった。

薄々とは感じていた。ただ女性相手に体重を訊くのは如何なものかと俺なりに気を使っていた。しかし改めてそれを実感した今、そんな事も言っていられない。



「お前、痩せただろ」

「さぁどうでしょう」

「誤魔化すなって。嫌なんだよ。俺と付き合って、苦労して痩せたみたいで」



みさきは考え過ぎだと言って笑うけど、やはりあまりにも華奢過ぎた。俺でなくても簡単に折ってしまえそうな細い手首がやけに目につく。ちゃんと食べているのかと問えば、みさきは食べているの一点張り。この不安が拭えないのも、普段からみさきのすぐ傍にいてやれない俺の負い目だ。

しん、と静まり返った部屋の中。寝顔じゃないみさきの横顔をじっと見つめる。



「なぁ、みさきは気付いてるか?」



敢えて核心には触れず、まずは遠回しに訊ねてみた。



「俺ら、ここ最近めっきりキスしてねえの」

「へ……?」

「なーんか口寂しいと思ってたんだよなあ。とりあえず久々に1回、な?」



懐から取り出した煙草の空箱を片手でくしゃりと握り潰し、案の定きょとんとした表情のみさきへと詰め寄った。「え?え?」と繰り返しながら暫し動揺し後退るみさきの身体を敷布団の上で押し倒し、両手首を拘束すると勝ち誇ったように笑ってみせる。ぐいと顔を近付けるとみさきは咄嗟に両目を瞑り、小さな身体を縮込ませた。そんな態度とは裏腹に拒絶の言葉を一切口にしない彼女。本心で嫌がっている訳ではないという事か、そう解釈しては1人ほくそ笑みを浮かべる。

白く滑らかな首筋へ吸い付くようにキスをして、小さくリップ音を響かせながらゆっくりと唇を離す。名残惜しげに舌先を何度も滑らせると、次第に赤く火照ってきたみさきの身体がびくびくと小さく痙攣した。耳まで赤くし、涙を両目に溜めたその様に酷くそそられる。カチリ、と自分の中の何かが音をした。今回はキス1つで済ませようとしていたはずなのに、己の中の眠れる性がすっかりと目を覚ましてしまったようだ。



「あー……クソッ、もう我慢出来ねえ」

「な、ッ!?」



むんずと掴んだ服の裾をキャミソールごとガバリとひん剥き、露になった突起へと夢中になってむしゃぶりついた。口の中でコロコロと転がし、吸っては時折押し潰す。こうして快感に弱いみさきが何も言えなくなってしまえば、後はもうこちらのもの。雪崩れ込むように質素な敷布団へと身を投じ、本能のままにたくさんたくさんキスをした。溢れんばかりの愛情と共に。

俺は十分幸せだった。こうして好きな女と1つになる事が出来る――これ以上の幸せはそうそうない。しかしそれを逆にして言い換えると『これ以上の幸せを得るには何かが足りない』という事だ。その『何か』が一体何なのかを俺は知っている。それ故に俺はこれ以上の幸せを願ってはいけない。矛盾にも近いその考えを抑え込むように、その他一切の思考を自閉した。



それから事後、ぐったりとしたみさきを残し1人ベランダに出る。とうとう手を出してしまった煙草の箱から1本だけ取り出し、即席の貰い物ライターで火を点ける。冬の星空は他のどの季節に比べ特別透き通って見えた。きっと肌へ刺すように冷たいひんやりとした空気が、見る者にそういった印象を与えているのかもしれない。そんな事を以前みさきが言っていたっけ。



「また煙草」

「!! みさきッ、つかお前、その格好じゃあ風邪引くだろーが!」

「シズちゃんってたまに保護者みたいな事言うよね」



分厚いジャケットこそは羽織っているものの、その下には何も着ていない。俺はどさくさに紛れみさきから見えぬよう煙草を吸殻ケースへ放り込むと、何食わぬ顔で彼女の身体を引き寄せた。真冬にも関わらずほんの少し汗臭いのは、先程までの行為の激しさを言わずとも物語っている。妙に匂いを嗅ぎたがる俺を見てすぐに察したのか、みさきは慌ててシャワーを浴びたがったが今更逃がす筈もなかった。そもそもこの部屋に浴室は存在しない。

自分の事だというのに匂いフェチなのか何なのか定かではないが、彼女の汗の匂いは結構好きだったりもする。背後からみさきを丸ごと抱き締め、首元に顔を埋めては目を閉じた。みさきの呼吸、心臓の音、全てを身近に感じる事が出来、何処か安心感を覚える。鼻の先を押し付け、甘えるように擦り寄ればみさきはくすぐったいと言って笑った。



「シズちゃん、犬みたいなのか猫みたいなのか分かんない」

「みさきはいかにも猫っぽいけどな」

「そうかなあ」



実際よく似た子猫を俺は知っている。が、口にはせずに秘密にしておいた。たまたま見掛けた子猫に名前を付けて愛でている、なんて口にしたら笑われてしまうような気がして。そんな自分を客観視してみると何だか無性に恥ずかしかった。



「ねぇ、シズちゃんは近くの銭湯に行った事ある?」

「いや、大抵風呂は会社のシャワーで済ませちまうし……」

「じゃあ今度一緒に行こうよ。結構広いんだよ?私いつもお世話になってて、銭湯のおばちゃんとも仲良くなっちゃった。シズちゃんの好きなフルーツ牛乳もあるよ」



銭湯、と言われ頭に過るのは小さい頃の思い出。家族と行った温泉旅行、旅先で幽と一緒に飲んだフルーツ牛乳の味は今でも鮮明に覚えている。そういえば俺とみさきは旅行に行った事がない。みさきを危険に晒したくないが故に連れ出したいとは思わないが、池袋や新宿でなければたまには旅行もいいかもしれない。いっそのこと東北地方の津軽海峡あたりにでも遠出してみようか。そんな事を考えては声に出さずに笑った。

この一時がいつまでも続いて欲しいと願う。みさきさえいれば、他には何も要らないとさえ思った。それでも現実は残酷で、世界の裏側では願わぬ事態が着々と迫っているのだ。テレビを点ければきっとニュースは切り裂き魔の話題で持ちきりで、また一方では首無しライダーを持ち上げたオカルト番組なんかもやっていて。それでもまだ他人事のように思えるのは、事実討論が行われているのはテレビ画面を通した向こう側だから。認めたくない非現実からは目を背け、都合の悪い事に関しては自ら自閉する。つくづく都合の良い身勝手な野郎だ、俺も。



♂♀



同時刻 新宿某マンション


今夜も被害者が出た。被害者の名前は贄川周二。三流雑誌の記者であり、それと同時に切り裂き魔の主犯である贄川春奈の実の父親でもある。これは一体どういう事か。まさか贄川春奈は自分の父だと知っての上で彼を刺した?何故実の父親を?そこまで考えて、全て愚問だと片付けた。第一血の繋がった者に対する容赦だとか情けだとか、それらを考慮するつもりなどない。肉親同士で殺し殺される事件などいくらでもある。

さて、準備は万全。歯車は既に回り始めた。もはや誰にも止められないだろう。



「それにしても、まさか罪歌がねえ」



頬杖をつき、ぼんやりと目の前の画面を眺める。

不気味な程までにチャット内で何度も紡がれた、憎き仇敵の名。彼女は『平和島静雄』を愛すべき人間とし次のターゲットにしたようだ。まさかあんな化物でも人間というカテゴリーに分類されてしまうとは。予想外の展開に胸の躍動が止まらない。もし、あの平和島静雄が罪歌に乗っ取られてしまったら――と、いくつもの仮説を構造してみる。



――さて、笑い話はここまでにして。

――そろそろ俺も動くとするかな。



もう何時間もの間座っていたであろう椅子からようやく立ち上がる。すっかり食生活も乱れてしまい、そんな時ふと口にしたくなるのがみさきの手料理。かつて彼女が住み込みで働いていた当時を思い起こすと同時に、作り立てで温かなあの手料理が食べたくなるのだった。

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