>47
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



思っていた以上に物事は深刻で、1度そうと決めて言ったからには途中で投げ出す訳にはいかなかった。信用性に欠けてしまうであろう事は勿論、自分の中のプライドが"逃げ"を一切許さない。誰よりもそんな自分を嫌うのは、自分自身だ。



「はぁ……」



そんな負の感情を煙草の煙と共に吐き出す。『溜め息を吐くと幸せが逃げる』という言い伝えがもし本当ならば、今の俺は間違いなく不幸だ。事実、不幸というのも間違いではないのかもしれない。今まで以上に気を引き締めていかなくてはならないというのに、俺の身体から醸し出されるのは覇気というよりもどんよりとした負のオーラだった。

世界は2つある。サングラスというある種の隔たりによって、己を客観視出来る世界。視界を遮るものが何もない、自分の目に直接入り込んでくる世界。仕事中はまさしく前者、そしてプライベートは後者の方。サングラスを装着する事によってやや紫色に色付けられた世界に愛しいみさきはいない。いるのは料金延滞者や喧嘩を吹っ掛けてくる不良その他云々――無論日頃から世話になっているトムさんや社長は別として、そんな望まぬ世界に長く身を置いている俺は早くも心が折れそうになっていた。



「(……みさき)」



思わずにはいられない彼女の事を考える。今頃何をしているのだろうだとか、考え出すとキリがない。

酷く憂鬱だった。しかしここで彼女の存在に甘えてはいけない。長い長い重労働に加え、極力公共物を破壊せぬよう神経を尖らせていなくては――そう気張れば気張る程、物事は大きく空回りしてしまうらしく。



がっしゃあああああああん



辺りを包み込む騒音。宙を舞う道路標識。頭を抱える上司の姿。そんな久方ぶりの光景が今や日常に戻りつつあった。如何にみさきという存在が俺のブレーキとなっていたかを痛感する。



――みさき。

――みさきみさきみさきみさきみさきみさきみさきみさきみさきみさきみさきみさきみさきみさき……



成る程、これぞまさしく禁断症状。そう気付く事が出来たのは、今から少し前の事。いや、もしかしたらもっと前に薄々と気付いていたのかもしれない。



「最近荒れてんなあ、静雄のやつ」



街中の人混みの中、誰かがボソリと呟いた。が、反応する気力すら起きず。一部では『例の彼女と破局したのでは』とかいう噂が囁かれているらしいが、正直名前も知らないような連中にどう思われようと関係ない。好き勝手に言われ放題なのもまぁ気に障るが。



「わ、分かりました分かりましたから!払います!今すぐ払いますから……!」



目の前でひたすら平謝りする若い男性、気弱そうな顔をしておいてやる事といったらえげつない。何十万もの借金を抱えているにも関わらず、俺がここへ取り立てに来た時には、荷物をまとめてまさに逃げ出そうとしている最中だった。当然みすみすと見逃す訳にはいかない。衝動的に手元の何かかしらを持ち上げる。目を疑うような光景に男はみるみるうちに顔を真っ青にさせていった。その様を見てようやく、俺はまたやっちまったと後悔するのだ。

こんなつもりじゃあないのに、と、心の中で弁解の言葉を探してみる。じゃあ、何が悪い?いや、何も悪くないのだ。ただ、敢えて言うならばそれは――



「浮かない顔してんのな」

「……うす」

「みさきちゃんと何かあったのか?」

「っす」

「そか。なら今日はもう上がるか」

「いや、それは出来ません」

「静雄ぉ、お前最近頑張り過ぎなんじゃねえ?真面目なのもいいけどな、もっと大切にすべきものが何なのかって事くらい、今のお前なら分かってんだろ」

「だからこそ、っすよ」

「? どういう意味だ?」

「とにかく今の俺がすべき事は、死に物狂いで働く事なんすよ。みさきは俺なんかよりも強い奴だから、まぁ大丈夫だとは思うんすけど……俺自身、正直かなりツラいっす」



1度弱音を吐いてしまうと絶え間なくボロボロと溢れてきて、耐えきれず俺はこれまでの経緯を簡単に説明した。溜まりに溜まった愚痴やら鬱憤、思うがままに全て吐き出した。トムさんは時折うんうんと相槌を打ちながら、黙って俺の話を聞いてくれた。彼は本当に聞き上手な人だ。つくづく良い上司を持ったと思う。

敢えて全ては明かさなかった。決してトムさんの人間性を疑っている訳ではない。ただ、もし自分のせいでトムさんに何かあったらと思うとなかなか口を割る事が出来なかった。だから罪歌とやらの事は一言も口にしなかったし、以前住んでいた部屋を出て行った理由も曖昧にしている。



「成る程な。つまりお前は新しい物件の為に少しでも早く金が必要って訳か。なんなら俺が貸してやろうか?なぁに、利子はいらねえよ」

「だ、駄目っすよ!んな万単位の金……!それに、今回ばかりはどうしても自分の力で何とかしねえと」



そう強く思ったのにも訳がある。俺はこれからの人生もみさきと共に歩んでいきたい。しかしその為に自分はもっと相応しい男にならなければならない。胸を張って堂々とみさきの彼氏だと公言出来るような、頼り甲斐のある男になりたいのだ。とにかく今は、金銭面だけでもどうにかしなくてはと今に至り、早くも心が挫けそうになっているのが現状だが。



「ほんと、情けないっす」

「おいおい、そう気ぃ落とすなって!お前は十分頑張ってるから、な?ただ無理ばっかしてっと元も子もねぇだろ。池袋最強がンな面してっと笑いモンだぞ」

「……そうっすよね。すんません」



ただただ申し訳なくて、謝った。いっそのこと怒りに任せて暴れている時の方が遥かにマシだと思えた。その方が何も考えずに済む。

取り立てを終え、仕事を全て片付けた頃にはやはり外は暗かった。無意識のうちに煙草の箱へと伸ばしかけた手を止め、なんとか思い止まる。この頃煙草の消費量が激しいのだ。それは日々のストレス故か、それとも口寂しいせいなのか。



――……最近、みさきとキスもしてねえからなあ……

――……。

――そうか、だから何処か口寂しいのか。



1度トムさんにこの事をつい口走ってしまった事がある。その時にトムさんが苦笑いと共に手渡してくれた棒付きキャンディの存在を思い出し、俺は胸ポケットからそれを取り出すと口の中へ放り込んだ。途端に鼻の奥へと広がる人工甘味料の香り、少し甘酸っぱい苺風味。だけどやはり物足りない。みさきとのキスはもっと甘くて、深く深く濃厚なのだ。こんなものじゃあ物足りない。代わりになんて、なるはずがない。



「……ん?」



ふいに、すぐ目の前の暗い夜道を小さな物体が通り過ぎる。不思議に思い目を凝らしてよく見ると、ゆらゆらと揺れる長い尻尾のようなものを確認する事が出来た。やがて彼方も此方の存在に気が付いたのか、闇夜に光る双方の眼を此方へと向ける。警戒しているのだろうか、その眼差しは俺の姿を捉えて離さない。そこで俺は、ようやくその物体の正体が小さな子猫だと気が付いたのだ。

猫といえば、幽の飼っている独尊丸を思い出す。犬か猫かと問われればまぁ犬派なのだが、当然猫も好きな訳で。動物は好きだ。ただその動物が小さくて愛くるしい程、直接触れてしまうのが怖い。俺が望まなくともこの手が、小さくて愛くるしいその身体を粉々に破壊してしまいそうで。



「にゃあ」

「……俺、何もやれるモン持ってねえんだけどな」



その場にしゃがみ込み、子猫と同じ高さの目線になってみる。人間慣れしているのだろうか、それともただ単に俺からの餌を期待しているのだろうか、大きくてつぶらなその丸い瞳には確かに俺が映っていた。子猫はその場に座り込み、長い尻尾を揺らしている。早々と家へ帰るつもりが、退くに退けなくなってしまった。俺が悩ましげに頭をわしゃわしゃと掻くと、子猫は不思議そうに頭を傾げた。



――……どうすっかな。

――猫にペロキャンやる訳にもいかねえし、近くにコンビニも見当たらねえし。

――……。

――それにしても、この猫



「お前、みさきに似てんのな」



大の大人が道の端でしゃがみ込み、子猫に話し掛けている様は酷く滑稽であろう。ハッと我に帰って辺りを見渡し、再度周りに人がいない事を確認する。幸い今の件を見ていた者は誰1人としていなかった。今の時間帯を考えれば、それもそうなのかもしれないが。

子猫は相変わらず俺を見ている。じっと座り込み、動き出す素振りを一向に見せない。試しに恐る恐る人差し指で耳を突っついてみると、子猫は気持ち良さそうに両目を細めた。慎重に慎重に腕を伸ばし、その小さな身体を抱えてみる。ほんの少し地から足が離れた途端、やはり怖くなってすぐに手を離した。触れる事がこんなに恐ろしい事だったなんて、こんなにも自覚したのは久方ぶりの感覚だ。



――……帰るか。



何をしているんだ俺は。どうしようもない気持ちのまま、みさきの眠るアパートへと向かう。風呂は会社のシャワー室で済ませた。あとは部屋で眠るだけ――

給料日まであと少し。日々の苦労が報われる事を信じ、今はただその時が来るのを待つ。今夜の星空は格別に綺麗。またもや煙草へと伸ばしかけた手を止め、寒空い空を静かに仰いだ。

「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -