>42
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



身体の中心が熱を帯び始めた頃、それを遮るかのようにつんざくような悲鳴が響き渡った。まるでたっぷりと注がれた珈琲の中に沈められた角砂糖のように、1度はぐずぐずに溶けきった理性が辛うじて自我を取り戻す。ハッとして目を見開く。断末魔のようなその悲鳴は、恐らく隣の部屋に住んでいる男性のものだ。直接の関わりはないが、幾度か廊下ですれ違う度に挨拶程度は交わした事がある。

つい数時間前の出来事が思い起こされる。まさか、そんな。しかしそれ以外考えられなかった。多分、いや絶対。この嫌な感じの正体は――彼女しかいない。



「す、ストップ!!」



手の平をシズちゃんの目の前に突き出し、行為の中断を緊急要請。しかし彼は動じる事なく暫し見つめ合った後、何事もなかったかのように唇を首筋へと寄せてくる。唇と肌が擦れる感覚がくすぐったくて心地よくて、それでも頑なに流されぬよう拒み続けた。



「ストップ!待て!」

「俺は犬じゃねえ」

「だったら尚更!犬でもこのくらいの日本語は理解出来るでしょ!」

「……」

「ねぇ、さっきの叫び声」

「どうせ転けそうにでもなっただけだろ」


どうやら良いところで邪魔された事が余程気に食わなかったらしい。ムスッとした表情でサラリとありもしない事を言う。転けそうになったくらいで、人はあれほどの叫び声を上げるだろうか。あの叫び声は間違いなく緊急を要するものだ。

隙をついてシズちゃんの腕からスルリと抜け、いち早く状況確認へと向かう。背中に掛けられた静止の声に振り返る事なく、私は急いで部屋を出た。しかし扉1枚の隔たりを越え目の前に広がる光景は、想像を遥かに絶するものだったのだ。



「ッ!」



鼻を掠める鉄の臭い。そして数時間前と同様、地面に平伏す男の姿。すぐ近くに立つエプロン姿の女性の右手には、やはり銀色に光る刃物が握られていた。刃物――本来調理に使われるべき包丁からは、恐らく男のものと思われるどす黒い血液が滴り落ちる。もしかしたら赤かったのかもしれないが、陽が落ち既に暗いのと、エプロン姿の女性の眼があまりにも赤く際立っていた為よく分からない。格好といい包丁といい、女性はどうやら夕飯の支度途中で犯行に及んだと見て取れる。声が出せずに立ち竦む私の方へゆっくりと目を向ける見知らぬ女性。その表情には余裕とも言える怪しげな笑みを浮かべながら。



「あら、"そっち"だったの」



首をカクンと曲げ、口だけで笑うその様は明らかに普通でない。感情の欠落した不自然な笑みに背筋が思わずゾッとした。

隣に住む男の部屋は『平和島』と記された表札を挟んですぐ左隣に位置する。現状況から察するに、この男はインターホンで呼び出され、玄関の扉を開いた直後に相手の顔を確認する間もなくばっさり――といったところか。もし彼女が訪ねる扉を間違えなければ、間髪入れず斬られていたのは私かそれとも――と、最悪な事態を想像する。彼女は間違いなくこの"私"を狙って来たのだ。おまけに手段はどうであれ『シズちゃん=平和島静雄』という事実を知られている以上、シズちゃんの身が危険に晒されているというのも確か。



「……なんだよ、これ」



呆気に取られた彼の声で我に帰る。様子を見に行ったまま帰って来ない私の身を案じて来たのだろう。しかし、これが後に最悪な事態を引き起こす事となる。

彼が此処にいては危険だ。私の"直感"がそう告げる。



「! 駄目、シズちゃん!来ないで!」

「あら、やっぱり。平和島静雄……貴方が彼女の愛する人……」

「!!」



しまった、と思った時にはもう遅かった。今の私の発言が相手に確信を与えてしまったのだ。自分で自分の首を絞めるというのは、正にこういう時に使うのだろう。咄嗟に両手で己の口を覆うも、もはや後の祭り。



――あぁ、私はなんて馬鹿なんだろう!

――今まで必死になって守り続けてきたものが、こんなにも呆気なく……!



「おい、みさき!」



焦りを含んだ声、と同時にベキベキと歪な音がした。

辺りの音という音全てを掻き消してしまう程の、とてつもなく大きな音。まるで固定されたものを無理矢理剥がし取るかのような――そんな私の予感はあながち間違ってはいなかった。私へと向けられた刃先を妨げたのは、シズちゃんが咄嗟に引き剥がした玄関の扉だったのだ。普通ならあり得ないようなその光景に、流石の罪歌も豆鉄砲を食らわせられたように目を丸くする。しかしそれも一瞬で恍惚とした満面の笑みへと変わった。まるで、長年探し求めていたものをようやく見つけ出したかのように。



「見ぃつけた。強い人間」



この時罪歌が口にした言葉の意味を、当時の私は知る由もなく。めまぐるしく展開される事態に頭がついていけず、ただただ追い付こうと必死だった。一旦包丁を持った手を引き、1人納得したように首をカクカクとさせる罪歌。最初から分かりきっていた事ではあるが、話し合いで平和的に解決出来るような物分かりの良い相手ではないらしい。



「何ボケッとしてんだよ」

「ご、ごめん……」

「つーか、なんなんだ?アレ。薬でもやってんのかよ」

「……多分、罪歌」

「なっ……女!!?」



罪歌自体は女言葉で話すが、憑依する人間の性別は選ばない。そういえば杏里ちゃんを助けた時、罪歌に操られていたのは若い男だった。この女性じゃあない。

ここ最近切り裂き魔の被害が日を空けず立て続けに起きていたのは事実だが、1日のうちに何度も起きるのは異例の事態だ。それ程までに、罪歌も目的の為躍起になっているというのか。



「あんたがサイカか」

「あら、初めまして」

「みさきに付き纏ってるってのは本当か」

「直接会うのは初めてね」

「んな物騒なもん、持ち歩いてたら危ねえだろ」

「ずっと前から会ってみたかったの」

「……何が目的だ?」

「彼女の愛する人」



否定もせず肯定もせず、無論問いに答える事なく言葉だけを並べる罪歌。それでもシズちゃんは罪歌を敵だと認識したらしく、相手を見る目がすぅっと変わる。



「生憎、イイところ邪魔されてムシャクシャしてんだよ、俺は。女を殴る趣味はねえが……刃物を人に向けるって時点で、刃物へし折られる事くらいは覚悟出来てんだろうなぁ?」

「私をへし折る?貴方みたいな人間が?そんな事、出来る訳がない。私が愛する人間は、威勢の良い割に儚い生き物なの。柔らかいのに固くて……簡単に裂けちゃう筋張った筋肉!どこまでもしなやかなのに脆くて鋭くてザラついた硬骨!震えるように柔らかくてサラサラとグチャグチャと纏わり付いてくる軟骨!……そう、儚いの。弱いのよ。だからこそ、私は人間を愛しているわ。何よりも斬り裂いた肉の断面の美しさ……本当、惚れ惚れしちゃう」



恍惚とした表情で、虚空を見つめながら彼女は言葉を紡ぎ続ける。人間を斬った瞬間を脳裏に浮かべながら話しているのだろう。しかしその表情が突然悲しげに曇ったかと思うと、今にも泣き出しそうな声になりながら私を見つめてきた。その瞳はどこまでも赤く赤く染まっていて、焦点の定まらない不気味な一面を持ち合わせつつも純粋に綺麗だと思ってしまった。



「だけど、貴女だけは愛せなかった。いえ、愛する事が出来なかった。勿論私は貴女を愛したかったわ。心の底からね。かつての貴女は愛を知らなかったのよ」

「……」

「私ね、1年前の貴女を見て思ったの。今なら愛せるんじゃないかって。そこにいる『平和的静雄』を愛する貴女なら……私の愛を理解してくれると思うの」

「……やっぱり、あの時私は貴女に斬られていたんだね……」

「えぇ。ほんの少しね、私の意識を移させてもらったの。そしてこの時をずぅっと待ち焦がれてたわ。本当に本当に、長かった……」



今の言葉から、ほんの少し罪歌の苦悩が垣間見えた気がした。きっとこれまでにたくさんの人間を愛してきた罪歌にとって、『私』というたった1人を愛する為にかけた時間はとてつもなく長く感じたのだろう。

埼玉での切り裂き魔事件はもはや人々の記憶の中から風化しつつある。なんせもう何年も前になるのだ。あの時高校生だった私も、今はそれなりに歳を加え大人になった。それでも罪歌の愛の定理に共感する事はきっとない。何も知らなかった無知の頃とは違う。シズちゃんと出会ってたくさん悩んで、様々な経験を経た今なら胸を張って言える。



「私は、貴女に共感出来ない」

「……」



私たちを纏う時の流れが止まる。今この瞬間、初めて罪歌の意識がこちらへ向いたような気がした。



「貴女が人をどう愛そうと勝手だけど、私の愛し方とは違う。私に好きな人を斬る事は出来ないよ」

「あら、それじゃあ貴女はどうやってそこにいる彼を愛する事が出来るというの?」

「! ぇ……」



突然の問いに面食らう。彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、尚も言葉を一方的に続ける。



「愛の表現なんてたくさんあるけれど、貴女は1番あやふやね。今だに悩み続けているんでしょう?人の愛し方だとか、愛され方だとか」

「な、なんで……そんな事……」

「知っていて当然よ。私は貴女を愛しているんだから。愛する者の事はなんだって知りたいと思うわ」



的を射るような言葉が次々と私に降り注ぐ。1番言われたくなかった言葉をズバッと言われてしまったような気がした。まるで不安定な計りのように、グラグラと心がアンバランスに揺れる。右に傾いたり左に傾いたり、けれど結果的にはどちらに傾く事なく倒れてしまう。或いはフラフラと揺れ続けているだけなのかもしれない。きっと私の優柔不断な原因が"これ"だ。

何か――何でもいいから言い返さなくては。焦る気持ちばかりが募りに募り、状況に苦しんでいた時。アパートの真下が何やら騒がしくなったかと思いきや、たくさんの足音が急ぎ足で階段を駆けのぼって来るのが分かった。反射的に足音のする方向を振り返る。手すりに身を乗り出し真下を覗き込めば、2台のパトカーが無造作に停めてあるのが確認出来た。咄嗟にまずいと思った理由はいくつかあるが、いち早く最初に思ったのは今すぐここから逃げた方が懸命だという事。



「残念、邪魔が入ったようね」



それだけを言い残し、気付いたら罪歌は姿を消していた。「近々また会いましょう」と耳元で囁かれたような気がして、思わず両耳を塞いでしまった。惑わされる言葉なんて何も聞きたくない。もう2度と惑わされたくない。ぐちゃぐちゃと胸の中を掻き回されるような不快感に吐き気がする。



「顔、青いぞ」

「……シズちゃん」

「今は無理に話さなくていいから。それどころじゃあねえんだろ?」

「……」

「とにかく今はここを離れようぜ。見るからに今の状況はちょっと……まずい」



倒れる男。引き剥がされた玄関の扉。そこに立ち尽くす2人の男女――おまけに私は数時間前に起きたばかりの切り裂き魔事件の目撃者であるが故に、疑惑の眼差しを向けられる事だけは確かだろう。

逃げずに無実を証明する事は出来ないだろうかと考えるが、足音はもうすぐそこまで迫って来ている。考える余地のない瀬戸際で、私はひとまず逃げる事を選んだ。被害者の男の事は警察に託し、反対側の階段から早足で駆け降りる。



「どこに向かうの!?」

「とにかく今は、出来るだけ離れた方がいいだろ!」



私の手を引き、少し前方を走るシズちゃんの背中が頼もしい。この先どうなるかなんて私には分からないけれど、何がなんでも彼だけは絶対に守ってみせる。改めて自身の胸にそう誓いながら、今はただ前だけを見て走る。

「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -