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あれから何時間経っただろう。ただでさえ暗かった月夜の空が、まるで底無しの闇であるかのよう。つい先程までサンサンとしたデスクランプに照らされていたせいか、その明暗の差は歴然としていた。私たちが別々に通された小部屋はドラマでよく観る取調室(カツ丼が置かれているような質素な机に、警察官と向かい合って座る構造の部屋)のイメージとは大きく駆け離れており、当然私たちは加害者ではなく被害者なので丁重に迎え入れられた。

その時の状況などを簡単に説明した後、すぐに帰してもらえる事になった私。ただ話せる事は限られていたし、ほとんど曖昧にしか返せていない。被害者である杏里ちゃんの事が多少気掛かりではあったものの、結果私は彼女よりも早く署を後にする事を許された。



「……さむ」



無意識のうちに口をついた言葉は、白い靄となって目に見えるものとなり姿を現した。季節故に外は暗くて寒い。しかし空気がひんやり冷たいと、夜空の星々がより一層際立って輝いているように見えるのは何故だろう。肌を刺すような寒気に身体を震わせながら、私は急ぎ足で帰路についた。

静けさの中に響き渡る私の足音。気付いたら足が痛かった。どうしてヒールなんて履いてきてしまったんだろう。事前に罪歌と遭遇する事を予知出来たなら、私は気合い十分に運動用スニーカーを履いていくだろうに。そんなくだらない事を考えながら、じわじわと痛み出す足を引き摺り歩く。



流石に消えているかと思われた部屋の明かりは点いていた。シズちゃんはまだ寝ていないのだろうか。何処か落ち着かない心臓を胸に階段を登る。ざわざわと嫌な予感がした。どうか今だけは外れてくれますようにと祈る気持ちで玄関前に立つ。扉に手を掛け、引くよりも先に自ずと開いた扉から長い手がにゅっと出て私の腕を掴んだ。強い力で引き込まれ、気付いたら背後で物凄い音を立てて玄関の扉は閉まっていた。あまりに強く抱き締められ、一瞬呼吸が出来なくなる。一体何が起きているのか理解するのに暫し時間を要した。



「し……シズちゃん?」

「んで、」

「?」

「なんでお前は、俺の気も知らねぇで……また何かあったんじゃないかって、不安になるだろうが……」



消え入るような声。

様子が可笑しい事を悟る。



「……何もなかったよ?ほら、私は何ともないから」



この時、私は自分を自分で殴ってしまいたい衝動に駆られた。咄嗟に口をついた嘘。こうも無意識のうちに嘘を吐ける程、私は『嘘吐き』になってしまった。本当の事を伝えたらシズちゃんはきっと心配する。彼に心配を掛けてはいけない――そんな私の潜在意識が行動と気持ちの矛盾を生む。

次第に、私の身体が小さく悲鳴を上げる。痛い。痛い痛い痛い。シズちゃんに抱き締められた脆い身体はミシミシと骨を軋ませた。それでも突き放せる訳がなかった。何も力関係故の理由ではない。こんなにも追い詰められた彼の表情を目にする事が久方ぶりだった。



「痛いよシズちゃん」

「……」



離れる気配は皆無。彼なりに何かを察しているのだろう。シズちゃんの動物的勘は鋭い。全身に走る痛みに顔を歪ませながら、私は何とか言葉を紡いだ。



「ごめん。私、嘘吐いた。話したい事があるから……とりあえず移動しよう?玄関じゃあ寒いし……ね?」



お願いだから。それでもシズちゃんはピクリとも動こうとはしなかった。頭の中は次第に困惑でいっぱいになる。とにかく何とか弁解せねばと、私は敢えて切り裂き魔と遭遇した経路を話し始めた。シズちゃんは何も言わずにただ耳を傾けていただけだったけれど、時折反応するのが分かった。



「コンビニから帰って来る途中、偶然切り裂き魔に狙われてる女の子に会ってね。幸いその子に怪我はなかったんだけど、3人被害者が……」

「知ってる」

「え?」

「さっき、テレビで知ったんだよ。切り裂き魔の被害がここ周辺で起きたって」

「……」



察知する。そうか――だからシズちゃんはこんなにも血相を変えて、姿のない私の身を案じてくれていたんだ。つい先程の事件を早くもニュースとして放映するマスコミの対応の早さにも感心したが、結果として心配を掛けてしまった事を心の底から謝罪した。

しん、と静まり返る肌寒い玄関。どのくらい時間が経っただろう。意識を扉の外へと向けてみれば、何やら慌ただしい様子。アパートから事故現場への距離が近いだけあって、警察やらマスコミが忙しなく騒ぎ立てている様が目に浮かぶ。遠くからざわめきが聞こえる中、2人の沈黙を先に破ったのはシズちゃんだった。



「だから、嫌だったんだ」



ため息混じりの、何処か諦めをも含んだ静かな声。



「流石に閉じ込めておくのは悪ぃなって、やっぱり俺は自分でも甘かったんだと思う。けど、今回はみさきを独占したいだとか、そればかりとは違う」



あまりにも直球過ぎる言葉に、いつもの私ならば迷わず赤面していただろう。独占したい、だなんて。普段のシズちゃんなら絶対言わない。違う。身に纏う空気がいつもと違う。この違和感を、私は知っている――



「家に帰って、みさきがいねぇと不安になる。……なぁ、頼むから。もう、誰にも渡したくねぇ」

「……どういう意味?」

「俺の事だけ見てろよ。他の事なんざ忘れちまえ」

「……」



――……忘れる?

――そんな事、許される?



考えた事もなかった。よくよく考えれば私に切り裂き魔をどうこうしろという義務などない。私が真実から逃げたって誰に咎められる事もない。ただ、私の中で良心が叫ぶ。私が何とかしなくては、と。別に正義のヒーローになりたい訳じゃあない、讃えられたい訳でもない。ひたすらに彼との平穏な日常を願うだけ。その彼――シズちゃんが「忘れてしまえ」と私に選択肢を与えたのだ。私はそれを言い訳に罪歌から逃げる事が可能なのかもしれない。

切り裂き魔なんて物騒な存在のいる外の世界なんて忘れ去って、遮断された2人だけの空間で生きてゆくのも悪くない。私にはシズちゃんさえいればいいのだから。だからもし彼がそれ程までに私を必要としてくれるのなら、私は喜んで残りの人生を彼に捧げる事が出来るだろう。そう考えてしまうあたり、やはり私の思考は歪んでいる。



――だけど、後悔は死ぬまでするだろうなあ。



私は切り裂き魔の正体をよく知る唯一の証言者。他に考えられる人物として臨也さんの顔が頭に浮かぶが、彼が貴重な情報を安売りする事はないだろう。例えその情報を公表する事が結果として、幾人もの人の命を救う事になろうとも。



「ごめんね。やっぱり、無理」

「……そうか」



ゆっくりと離れてゆく身体。私の気持ちを理解してくれたのだと、そう思いたかった。シズちゃんなら分かってくれると信じていた。

ホッとしたのも束の間、今度は壁に押しやられる。一体何が起きたのか、理解するよりも先に背中へと走る激痛。そこで私はようやく彼が本気なのだと悟った。



「俺は……今まで後悔ばかりして生きてきた。何度も悔やんでは『あぁ、またやっちまったな』って。けどよぉ……俺だって譲れねぇ時くらいある。もう、嫌なんだよ。後悔するのは」



何か言おうとして言葉に詰まる。こんな時に何を言えばいいというのだ。

彼の手がするりと私の腰を撫でる。それが性行為への誘いの合図。ボディラインを伝って上へと移動する指先。肌に触れた途端、ひんやりとした感覚に思わず身震いした。この時期に――その上暖房も何もついていない玄関では寒くてたまらない。



「さ、寒いから……!」

「あー、だろうな。鳥肌すげーし」



寒さを理由にしても尚離れてくれようとはしないシズちゃん。挙句の果てに服の中へずぼりと頭ごと突っ込んでくるものだから、驚きのあまり声が出ずも何とかやめさせようと試みた。「だから、寒いってば!」そう言ってぐいぐいと両肩を押し返すも、断固として聞く耳を持ってはくれない。



「なんなら、今から汗かくか?」

「……?」



初めは言っている意味が分からず首を傾げるものの、ようやく理解したところで赤面するとシズちゃんはニヤリと口端を歪ませた。



「俺、明日休みなんだよ」

「!!? わ、私、用事ある!明日、街中に出掛けようと……」

「だーかーら、言ってんだろ?もう外には出さねぇ」



――……本気なの?



私の行動の自由を縛る身勝手な言動に、怒りよりも先に恐怖を覚えた。いつもと変わらないその顔で言われても、何処か現実味に欠けてしまう。もしここでシズちゃんが異常な程に逆上したとして、そんな勝手な事言わないでと言い返す事も出来たかもしれない。それをこうもさらっと、まるで何でもないような顔をして――完全に反論するタイミングを逃してしまったではないか。ただひたすらに「寒いから」と繰り返す。他にやめさせる上手い言い訳が見つからなかった。



「ひゃあッ!?ちょ、シズちゃん!だからここ、玄関……!!」



もぞもぞと動くシズちゃんの頭。蜂蜜色の髪が肌を撫でる。器用にも口で下着をズラされ、寒さと刺激で既に起立した胸の突起を突然甘噛みされた。シズちゃんの柔らかな唇はとても温かくて、薄い皮膚越しに彼の体温が伝わってくる。それ故の体感温度差が更に私を敏感にさせた。

微かに頭の中に残っていた理性すらぐずぐずに溶けてゆく。シズちゃんは生暖かい口内にぷっくりと膨らんだ突起を迎え入れると、まるで乳を強請る赤ん坊のようにじゅうっと音を立てて強く吸う。両目を瞑り嫌々と頭を振りながら抵抗しても、愛撫は更に深みを増すだけだった。そしてたまに歯を立てられては、痛みを感じる前に優しく乳輪に沿って舐め回される――そんな事の繰り返し。彼自身それを本能でやってのけるのだろうが、その舌使いはかなり巧みなものだった。



「ん、ぅー……!」

「おら、我慢すんなって」

「やだっ、お願いだから……もう二度と遅くはならないから……!」



視界が滲み、気付いたら涙が溢れ出てた。ボロボロと落ちてゆく塩辛い雫。拭う事も忘れ、ただひたすら彼に謝り続けた。まるで親に外へと放り出され、必死に泣き喚きながら扉を叩き許しを請う子どものように。

涙の理由なんて自分でもよく分からない。誰が悪くて何が悪いかなんて、この際どうだっていい。今自分はどうするべきなのか――何を第一に優先すべきか。考える事が多すぎて、優柔不断な自分に泣けてきた。

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