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日常に生じる異変はいつだって唐突だ。ただ私は部屋の大掃除を始め、簡単に済ませて買い出しに行くつもりが予定よりも時間を費やしてしまって。今から買い出しに街へ出るにはシズちゃんの帰りに間に合わないし、かといって現時点でのままでは食材のストックは限りなく0に近い。品の値が若干張るものの仕方なく近所のコンビニへと向かい、ついでに2人分のプリンも購入。あとはシズちゃんの帰りを待って、今日1日は終わりを告げる――そんな何てことない日常が幕を閉じるはずだったのだが。

軽い足取りで暗い夜道を1人歩く。気分は上々。袋の中のプリンを見る度に、シズちゃん喜んでくれるかなぁなんて暢気な事ばかり考えてた。しかし角を曲がろうとした次の瞬間、耳をつんざくような女の悲鳴が辺り一面に木霊した。悪寒に吐き気、そして――気配。



この道を曲がってすぐ、そこにきっと"彼女"はいる。



確信はあった。この嫌な感覚を忘れる訳がない、忘れられる訳がない。意を決し早足で角を曲がる。すぐに視界に飛び込んできたのは地面に平伏す女子高校生3人、そして壁に背を預け1人呆然と立ち竦む眼鏡を掛けた少女の姿。見覚えのある制服に思わず声をあげそうになるが今はそれどころではない。せめてこの子だけでも助けなくてはと視線を巡らせ、ナイフを持った不審な人物を視界の端に捉えた。しかし予期せぬ事実に一瞬頭が回らなくなる。



――……えッ?

――贄川春奈……じゃない!?



街灯の光の中、ゆらりと揺れる黒い人影。右手に握られた小型ナイフがぎらりと光る。顔も服装もよく分からなかったが、ただ男だという事だけは理解出来た。

油断したのがいけなかった。男はすぐにまた右手を振り上げると、そのまま私たち目掛けて降り下ろす。ハッと我に返った私は間一髪でそれを避け、動揺しつつもまずは眼鏡の少女の安全を第一優先的に考えた。しかし運悪くもこの時間帯に夜道での人通りは期待出来ない。何とか最善策を見出だせねばと必死に思考を働かせるが、構わず男は体勢を整え赤い眼をギョロつかせ――狙いを私に定めてきたかと思えば、男は突然眼を大きく見開き、女口調でこんな事を口にしたのだ。



「あぁ、あなた!あなたなのね!母の愛する人!」

「!?」



彼――いや、罪歌は何を言っているのだろう。意味が理解出来ぬまま、ただ相手の様子を伺い続ける。もしかしたら私を油断させたいのかもしれない。眼鏡の少女を庇うように立ち、じりじりと距離を置く。しかし男は敵意がない事を示すかのようにナイフを持つ右手をぶらんと下げ、首を傾げてケタケタと笑った。双方の眼を赤く光らせながら。



「安心して、私はあなたを斬らない。……いいえ、斬りたくても斬れないの。私じゃあ全然役不足。母に言われているんですもの。あなただけには手を出すなってね」

「……あなた、罪歌だよね……?」

「あら、嬉しい。私の名前、覚えててくれたの。あなたの事は私の姉妹たち全員がよぉく知ってるわよ。母が色々と教えてくれたわ。かつて母が愛し、唯一その愛を拒絶された相手だと」

「!」

「いいわ、後ろの子はあなたに免じて今回"は"特別に見逃してあげる。急いで母に知らせなくちゃ、あなたの事……うふふ」



罪歌は言った。母(恐らくその存在こそが贄川春奈を指すのだろう)が、私を斬るなと命じたのだと。彼女が何を考えているのかは見当も付かないが、もしそれが本当ならば明らかに目的が矛盾している。1年という時を経て、彼女はただの切り裂き魔へと変貌してしまったというのか。同時に那須島という名の思い出したくもない教師の顔が頭に浮かぶが、私はそれを振り払うように小さく頭を振った。しかし、もし贄川春奈が未だに那須島へ好意を寄せているのだとしたら、彼女の真の目的は一体……?

音もなく男が目の前から立ち去った今、思い返すと長いようであっという間の出来事だった。心臓がばくばくと音を立てて脈打っているのが分かる。しんと静まり返った路地裏で、後に残ったのは意識のない3人の少女たち。暫し見つめた後すぐにハッとし、いち早く救急車を呼ばなくてはと慌てて携帯を取り出した。次いで、警察。電話越しに事情を簡単に説明しているうちに、早くも救急車が到着した。一旦携帯を耳から離し、固まったまま動かない眼鏡の少女を気遣うように声を掛ける。何せ目の前で同級生が斬られたのだ。普通の感性を持った人間――しかも高校生の女の子が平常心でいられる訳がない。



「大丈夫?」

「ぇっ……あ、はい」

「とりあえず、もう大丈夫だよ。あとは警察の人たちが来てくれるから、もしかしたら色々と聞かれるかもしれないけど……」

「あ、あの、助けてくれてありがとう御座いました」

「あぁ、気にしないで!たまたま通りがかっただけだし、私も無関係ではないというか……」

「?」



その先の説明に困り、曖昧に笑って誤魔化す。きっと聞いたところで到底理解出来ないだろうし、説明したところで信じてもらえないだろうという確信があったからだ。しかし眼鏡の少女は想像していたよりもずっと落ち着いており、遠慮がちに私を見つめている。肩のあたりで綺麗に切り揃えられた黒髪に、かつて私も袖を通した来良学園のお馴染みの制服。何処か浮世離れした、見るからに真面目そうな印象を受ける子だ。

気付いたら辺りにはたくさんの野次馬たちが集まっていた。恐らく救急車やパトカーに引き寄せられて来たのだろう。しかし今や切り裂き魔の被害者が出るのはそう珍しい事ではない。また切り裂き魔かと口々にざわめき、ある者は携帯で写真を撮ったり動画を回したりしていた。今この状況が某動画サイトにアップされるのも時間の問題だろう。



「1つ、聞いてもいいですか」



血まみれの少女たちが忙しなく担架で運ばれてゆくのを見守りつつ、少女の問いに耳を傾ける。少女はまず自らを『園原杏里』だと名乗ると、事件の核心へと迫る質問を投げ掛けてきた。



「あの……苗字さんは罪歌の事、どこまでご存知なんですか……?」

「? どこまでって?」

「あっ。えっと、すみません。突然変な事聞いてしまって……すみません」

「いやいや、そう何度も謝らなくていいよ?ただ、その……杏里ちゃんは、あまり怖がったりしないんだね。通り魔のこと」

「……それは、」



一瞬、少女の表情が僅かに曇る。何か不味い事を聞いてしまっただろうかと慌てて訂正しようとするが、それよりも早くとある警察官に声を掛けられる。優しげな顔をした警察官(葛原さんというらしい)に色々と聞きたい事があるからと言われ、その後私たちは署まで同行する事となった。葛原さん曰く、切り裂き魔に襲われたにも関わらず無傷で済んだケースは異例だという。ただこれまでの被害者に話を聞くと、皆日本刀のようなもので斬られたと口を揃えて証言するが、肝心の犯人像が分からず終いで警察も頭を悩ませているのだと葛原さんはぼやく。

こうして私と杏里ちゃんはたくさんの野次馬たちに見守られながら、警察と共にパトカーで署まで連行されるという、ある意味貴重な体験をするのであった。パトカーに乗って揺られながら人通りの少ない道路を走行中、手に持ったまま存在を忘れていたコンビニ袋の中をハッとして見る。恐らく切り裂き魔からの攻撃を避ける際に大きく揺らしてしまったのが原因だろう。



「うわぁ……」



パックの中で無残にもぐちゃぐちゃになった2つのプリン。皿の上で『プッチン』をする楽しみを奪われた私は、切り裂き魔への憎しみを静かに募らせていた。



♂♀



チャットルーム


《聞きましたー?今夜、とうとう来良学園の生徒が切り裂き魔にやられたって!》



♂♀



数十分後
新宿 高級マンション


「なんだかなぁ」



荒れたチャットルームに目をやりつつ、とある動画を携帯画面で再生する。その動画は某動画サイトにほんの数十分前『神出鬼没!切り裂き魔事件の現場』という題名を付けられアップされたものだった。その他にも様々な角度から撮られた動画やら写真はたくさんあったが、俺にとっていかに現場の雰囲気が伝わってくるかは正直どうでもよかった。たくさんの愛すべき人間たちが映る中、たった1人異質の感情を抱く少女の姿を確認する。俺が彼女を見間違えるはずがない。彼女は正真正銘、みさきだ。

罪歌の件も何もかも全てひっくるめ、物事をややこしい方向へと誘導しているのは確かに自分だ。操り糸を切るも切らぬも、そして人形もろとも放り投げてしまうも自分次第。ここから更に物語は急展開を迎え、より楽しい見物になる――はずだった。しかしとうとうみさきが罪歌と接触してしまった今、そう楽しんで見てはいられない。



――出来るだけみさきと罪歌の接触は避けておきたかったんだけど……

――何事もそう上手くはいかないか。



意思を持ったもの程扱いにくく厄介なものはない。況してやそれが刀だというのだから尚更。恐らく罪歌はみさきの事を愛したくて仕方がないだろう。それは人間だからという罪歌本来の目的ではなく、贄川春奈本人が特別な感情を抱いているから。どんな人間をも愛したいという罪歌の本能とはまた別に、彼女が那須島を愛したいと思うように。

このまま何も手を加えず時だけが過ぎれば、物語は俺のシナリオ通りに進む。ただ1つ、結果としてそれはみさきを失う事にもなり得るだろう。今回の計画の最中、あわよくばシズちゃんが死んでくれればと思ってた。正直難しい話ではあるけれど。だから初めから期待などしていないが――もし彼女の身に何か起きてしまったら。そんな事態を想像してみる。みさきは正真正銘『人間』だ。斬られれば当然洗脳されてしまう。



「……」



――それはいけない。

――それは、まずい。



俺の中で俺が叫ぶ。何せ彼女はシズちゃんの唯一の弱点なのだから。だけど、それ以上に俺自身がみさきの身の危険を望んではいなかった。それは自分が思っていた以上にピュアな感情故であったのだけれど、無理矢理別の理由をこじつけた。この先上手い具合にシズちゃんを利用する為に、貴重な駒となる彼女を罪歌なんかに渡して堪るか、と。

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