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臨也さんがマンションから忽然と姿を消している事に気付いたのは、小鳥たちが囀ずる清々しい朝を迎えた後だった。昨夜シズちゃんが唐突に連れ出し、その際に見た後ろ姿が彼を見た最後だった。私が意識的に避けていた事もあり、臨也さんとは一切言葉を交わしていない。色々と気掛かりではあったが話したところで気まずいだけだろうし、きっとこうする事が1番の最善策であったはずだ。
それにしてもシズちゃんは臨也さんと何を話したのだろう。何度も確認するが2人が昔からの犬猿の仲である事は私も知っている。そんな関係にある2人だからこそ、余計に奇妙なのだ。
「あ?昨夜?」
本人に聞くのが1番手っ取り早いと判断した私は、寝起き早々思い切って率直に疑問をぶつけてみた。頭が上手く回らないのか暫し首を傾げるシズちゃんであったが、やがて嫌な事でも思い出したのか徐々に表情を曇らせてゆく。やはり旧友同士思い出話に花を咲かせていた訳ではなさそうだ。
新羅さんは「大丈夫。さすがに今まで死人が出た事はないから」なんて笑いながら言ってたけれど、笑顔であっただけに冗談なのか本気なのかは今だに定かではない。『そんな言い方して余計に不安にさせてどうする!』セルティがツッコんでくれて本当に良かった。
「臨也さんと何話してたの?」
「……」
「ちょっとシズちゃん。眉間にシワ寄ってる」
「お前が嫌な事思い出させるからじゃねぇか」
「でも、臨也さん連れ出したのはシズちゃんだよね」
「その言い方やめろ」
シズちゃんを怒らせるという行為は、大した備えもなく爆弾の導火線に火を点けるというある種の自殺行為に等しい。額にピキリと血管が浮き出る様を間近で見ていて、この話題にはもう触れまいと心の中で決心した。彼の沸点は限りなく低い。下手をすればすぐに怒りボルテージを超え簡単に爆発してしまう。彼との付き合いが長い私やトムさんはその絶妙なタイミングを心得ているが、ほとんどの輩がそれを知らず怒らせてしまうケースが多い。その証拠に街中のあらゆる公共物が日々破壊され続けている訳で、今やそれが池袋の日常へと変化しつつある。
シズちゃんはとてもイライラした様子で部屋の中をウロウロしていたが、この部屋の所有者の登場と同時にその歩みを止めた。
「おはよ……て、何してんの静雄。一瞬発情期の番犬かと思っ……うん。ごめん。俺が悪かったから、とりあえずその手に持っているソファを降ろしてくれ。それ、結構高かったんだ」
『おはよう、2人共』
「! セルティさん!」
『昨夜はよく眠れた?本当は敷布団も用意しようと思ったんだけど、新羅がソファの方がシチュエーション的にいいからと言って』
「え」
「……手前、絶対楽しんでやってるだろ」
「まさか!僕は静雄の恋を純粋に応援したいだけさ」
「その割には顔がニヤついてるけどな」
シズちゃんが横目で睨み付けながら言う。新羅さんの言う通りその様はまるで番犬のようだと思ったが、それをまさか口に出来る訳がない。しかしその場に漂う空気は決して居心地の悪いものではなく、きっとこうしたやり取りが彼らの日常会話なのだと悟った。
「で、君たちはどこまで進んでいるんだい?もうキスくらいはしているんだろう?」
「「……」」
さすがにこの時ばかりは周りの空気が一瞬にして凍り付いたのだが――
「俺がいない間、新羅に何か変な事吹き込まれてないだろうな」
「う……うん」
「なんだよ、今の間は」
「変な事……なのかなあ」
「とりあえず話してみろって」
「うーん」
新羅さんが口にした事といえば大半がのろけ話。その度にセルティに影でつつかれたり頬を引っ張られたりして、痛い痛いと言いつつも満面の笑みを浮かべていたっけ。これはSMプレイに入るのだろうかと内心疑問に思ったが、セルティは別に楽しそうでも嬉しそうでもなく、彼の変態癖を本気で心配しているようなので正直安心した。仮に彼女たちにそのような特殊な趣味があったとしても、私には受け入られるくらいの心構えは出来ているが。そもそも闇医者と首無しのカップルというだけで既に普通ではないのかもしれない。
それから――話の全体を10に換算したとして、8はのろけで2はその他。それは臨也さんに関する事だったりシズちゃんに関する事だったり。昔からの長い付き合いだからこそ私の知らない2人の一面を彼は当たり前のように知っていた。
「僕はね、正直みさきちゃんに驚いてるんだ。今まで臨也と長くやっていけた人間なんて僕やセルティ、それから……まぁ、静雄もある意味そうだとして、後は何処か欠落した信者の女の子たちくらいだからね。ぶっちゃけた話、1年前までは君の事も臨也の奴に上手く利用されている女の子たちの1人なのかと思っていたくらいだし」
『そ、そうだったのか!?どうしてそれを私に言ってくれなかったんだ!』
「ごめんよセルティ!決して君を信用していなかった訳じゃない!むしろ俺は君に命を常時預けていてもいいと思えるくらいに君を心底信用しているさ!みさきちゃんもごめんね?気を悪くさせたのなら謝るよ」
「い、いえいえ!私はそんな、別に……」
「まぁ、1番驚きなのが静雄かな。あいつに関してはほんと、激変だよ。あの女気なかった静雄がねえ」
『確かに、大分丸くなったよな……静雄の奴』
「そう、ですか?シズちゃん、出会った時からすごく優しい人で……むしろ私の方が助けられてばかりで」
気を使って嘘を吐いている訳ではない。ありのまま思った事を口にしただけだ。
しかしセルティと新羅さんは口を揃えてこう言った。
「みさきちゃんが静雄を変えたんだ」
「それと、臨也の事もね」
新羅さん曰く、臨也さんからは以前に比べ狂気的な人間愛を感じなくなったと言う。彼が全人類を深く愛している事は私も知っていたが、具体的にどういった事をしているのかという類いの詳細は一切知らされていない。ただ私の見る限り臨也さんの印象はとても良いもので、新羅さんやセルティがここまで驚く理由が私にはよく分からなかった。
2人の人間を変えた――それはとても大それた事に聞こえるけれど、私は特別な事を何もしていない。寧ろ与えられたものの方が大きいと感じた。ただ1つ願うは、私の与えた影響が2人にとってプラスであればそれでいい。少なくとも私が2人から与えられた数多くのそれは人生においてプラスになっている事だろう。
「おい」
「! ご、ごめん!……で、何処まで話したっけ?」
「違ぇよ。車、危ないから内側歩けって」
マンションからシズちゃん宅への道のりは交通量が多い。時間帯によっては車の数が絶えない事も珍しい話ではない。それ故に歩行者との衝突事故や車同士のトラブルが発生しやすく、道路脇には安全運転を促すスローガンが大きく掲げられていた。そこをまさしく今私たちは並んで歩いている訳で。シズちゃんにぐいと手を引かれ、私は反対側へと位置を変えた。こうした紳士的な態度も私のお陰だと2人は言うのだろうか?
「(私、本当に何もしてないけどなぁ)」
「で、さっきの話だけどよぉ……」
「あの……その、別に大した話じゃないよ?ただ軽ーく世間話をしただけで!」
どう説明したらいいのか分からず結局は誤魔化し、シズちゃんもシズちゃんで特に気にするような素振りを見せず、ただふうんと小さく頷いただけだった。その手には雑誌を入れる丁度良いサイズの書店の紙袋を抱えていて、何を買ったのだろうと気にはなったが特に探ろうとは思わなかった。
♂♀
同時刻 新羅のマンション
『新羅。1つ聞きたい事がある』
「なんだい?セルティ」
『お前、静雄がこの部屋にいるタイミングでわざと臨也を呼んだだろう』
「うん。そうだけど?」
『はぁ……やっぱり。お前はどうしてそんな事を』
「だって、いたのは静雄だけじゃないだろう?上手く言えないけれど、確信があったんだよね。みさきちゃんがいれば2人が喧嘩する事はないだろうって」
『それじゃあ新羅は、臨也がみさきちゃんの事を好きなんじゃないかと前から思っていたんだな?』
「さっきもみさきちゃんに話したけどね、あいつは本当に最低なゲス野郎だ。簡単に人の好意さえもうまい具合に利用してしまう。僕は中学時代からのそれなりに長い付き合いだからね。あいつに好意を寄せボロボロになっていった女の子たちを何人も見てきたんだ」
『ひ、酷い話だな……そんなに女たらしだったのか?臨也の奴』
「そもそもあいつに興味があったのは『自分に好意を寄せる女の子』そのものじゃない。『自分に好意を寄せる女の子たちが取る行動や反応』に興味があったんだ。だからわざと相手を持ち上げて、高い場所から平気で突き落としたり」
『そんなんでよく女の子たちに刺されずに済んだな』
「うまく立ち回っていたんじゃないかな。最終的に女の子たちの怒りが臨也本人にではなく、自分自身に向かうように。いつだって女の子たちは自分自身を責め続けていたからね」
『そ、そうだったのか……私はそんな奴と友達でいられた新羅が凄いと思うけどな』
「外面は過剰評価じゃないかってくらい評判良かったからねぇ、あいつ。ま、それも中学時代までの話さ」
『あぁ、高校は静雄も一緒だったんだっけ』
「そ。だから毎日トラブルの連続さ。静雄は問題児扱い。勿論、臨也も。相変わらず女の子にはモテてたけど、なかなか告白まで出来る子は少なかったなぁ」
『と、とにかく!臨也と限りなく近い関係にあるみさきちゃんが何ともないのは、臨也が恋心を抱いているからだと言いたいんだよな?』
「あぁ、話が大分逸れてしまったね。ま、そういう事さ。誰も愛する人を不幸のどん底に突き落とそうなんて考える人はいないんじゃあないかな」
『確かに……臨也に関してはやけに納得がいく』
「セルティは見たかい?この部屋で鍋をつついていた時の臨也の顔」
『いや……私はみさきちゃんと話していたから、臨也の方まではあまり……』
「あいつ、"笑ってた"んだ。みさきちゃんを見て」
『……』
「あいつの純粋な笑顔をセルティは見た事があるかい?それで確信したんだ。あぁ、やっぱりなって」
『で、でも、みさきちゃんは静雄の事を』
「あいつだって馬鹿じゃない。気付いてるさ、そんな事。だから俺は臨也と静雄どちらかだけを応援する事が出来ない――なんて、それは都合が良すぎるかな」