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あれは、1年前。
「もう……愛するだけじゃ足りないわ。最ッッ高に愛してあげる!アナタの事も、"アナタの大切な人"も!私の……この『罪歌』の力で!まとめてみーんな愛してあげる!!」
高く振り上げられた包丁は鈍い光を纏いながら、私の頭上に勢いよく振り下ろされ――ギリギリのところで壁に突き刺さった。何とか避けきれたものの、その衝動で塞ぎかけていた腹部の傷は開いてしまったのだが。右手で服ごと腹部を抑え目の前にいる彼女を睨む。
血のように赤く染まった眼が、私を嘲笑うように笑った気がした。今目の前にいるのはもはや贄川さんじゃない。確信した。彼女は正真正銘――妖刀『罪歌』。
「……へぇ、案外やるんですね。苗字先輩。……でも、次は外しませんよ?」
フラフラと覚束ない足取りで更に間合いを詰めてくる罪歌。このまま逃げてしまおうにも、こんな身体ではきっとすぐに追い付かれてしまうだろう。背後から刺されてしまえば終わりだ。
傷の痛みに思わずフラつく。しかし、本当に痛むのは腹部の傷じゃない。あの時の、古傷。罪歌が目の前に姿を現してから、火傷のようにヒリヒリと痛むのだ。
「ねぇ、苗字先輩。先輩が以前、罪歌に愛されなかった理由……自分で分かってます?」
「?」
「罪歌が……私に話してくれたんです。罪歌は苗字先輩を愛したいのに、先輩が罪歌を愛してくれないんですって。それは当時の先輩が"愛"を知らなかったから。……くす、先輩って可愛いのに恋愛した事なかったんですね。でも、今の苗字先輩は違う。誰かの事を愛している。その証拠に……ほら、以前罪歌に刺された古傷が痛みません?」
「……!」
――……やっぱり
――気のせいなんかじゃなかったんだ……
当時――埼玉県で起きた斬り裂き魔事件の際にできた傷。いつできたのかは記憶になかったのだが、この傷が今まで完全に癒える事は決してなかった。その理由を、今ようやく理解した。
私は過去に1度罪歌に斬られていた。しかし、当時恋愛感情を知らなかった私には罪歌の愛を受け入れる事すら、理解する事が出来なかったのだ。だからこそ私は助かった。身体の内に僅かな罪歌の意識を残して。
「あの時の声……貴女だったんだね」
私は、贄川さんの赤い眼の奥に潜む罪歌に向けてそう言った。何度も聞いた、脳に直接語りかけてくるかのような彼女の声。贄川さんの口端が、より一層歪む。
「罪歌は、先輩に愛を知って欲しかったんです。そうしたら、きっと先輩は罪歌の事も愛してくれるかもしれないからって」
「……え?」
――どういう……こと?
――それじゃあ、私がシズちゃんを好きになったのは罪歌の策略の内ってこと?
――シズちゃんを好きだって気持ちは、初めから仕組まれていたって訳……!?
「貴女の身体は痛みすらも快感に変わるの。だから例えどんなに歪んだ愛情でも、貴女になら受け止められるわ」
罪歌は確かにそう言った。
確かにシズちゃんの考え方は、時に歪んでいたかもしれない。それでも私はシズちゃんの事が大好きで……寧ろ心地よさすら感じた程なのだから。しかしそれさえも、初めから罪歌の狙い通りだったのだとしたら、
「どうしてか、分かる?それは貴女が彼を深く愛しているからよ。愛してるんでしょ?そうなんでしょ?それ以外考えられないわ!」
「貴女は何を学んだの?人の愛し方を、その目でちゃんと見ていたでしょう?節穴だなんて言わせないで!何をすべきかは言わずとも分かっているはずよ」
「だったら彼を――」
「……シズちゃんを斬れと。そう言いたいの?」
「そう、斬るのよ。愛する者をこの手で。そして、その身体に証を残すの。私のものだという証拠をね」
そういえばシズちゃんも似たような事を言っていたっけ。「自分のものには、他の奴が見ても分かるように目印付けとくのが普通だろ」と。やはり私は罪歌に憑かれているのだろうか。それすらもよく分からなくなってきた。だけど、いくらなんでも斬るなんて……
「なんなら、私が代わりにそのシズちゃんとやらを斬りましょうか?……安心して。さっきも言ったでしょう?アナタの事も、アナタの大切な人も、まとめてみーんな愛してあげるって」
「! そんな事……!」
私にシズちゃんを斬るなんて、そんな酷い事……出来る訳がないじゃないか。
「……私は近々隆志を斬るわ。その時まで時間をあげます。先輩は2番目に愛してあげる。そして次は……先輩が1番愛する人。だから、安心してください」
何を安心しろと言うのだろう。私はそれを必死に止めさせようとしたが、既に彼女の耳に私の声は届かなかった。私だけなら、まだいい。だけど、関係のないシズちゃんを巻き込むなんてもう嫌だ。どうすればシズちゃんを救えるのか。考えて考えて考えて、私はたった1つの方法を思いつく。
彼女は私を斬ってから、シズちゃんを斬ると言った。つまり裏を返せば、私よりも先にシズちゃんを斬る事はないという事だ。そもそも罪歌が『シズちゃん』という呼び名だけで特定の人間を探し当てるという事は考えにくい。この呼び方をするのは、唯二私と臨也さんの2人だけなのだから。
――私が罪歌に斬られない為には……私が東京を出るしかない。
――いくら日頃から細心の注意を払っていても、私みたいな普通の人間が罪歌に敵うはずがない……
もしかしたら罪歌が私を諦め、シズちゃんを先に狙うなんて事もあるかもしれない。だからこそ私はシズちゃんの傍にはいられない。
私がシズちゃんの傍にいれば、感の鋭い罪歌はきっと気付いてしまうだろう。シズちゃんの本当の名前……そして、その『平和島静雄』という人間が、私の大好きな人なのだという事に。
「……」
頼れる人は恐らく臨也さんしかいない。贄川さんがその場を去った後も、私はしばらくその場に佇んでいた。シズちゃんにはもう会えない。触れられない。一緒にいられない。そのくらいの覚悟が自分にはあるの?
たくさんたくさん考えて、そして私は決意した。シズちゃんを巻き込まない為にも、今すぐにでもここを出なくてはならない、と――
♂♀
東京都内 某大学
あれから早くも約1年の月日が経った。結局あのまま池袋にいる訳にもいかなかったので、エスカレーター式に逆って来良大学には進学せず、東京都内ではあるものの別の大学に入学した。もう彼らと関わる事もない。今までそう思ってた。
再会というものは意外と早かったりもする。キッカケなんてものも、探せば結構ゴロゴロと転がっているのだから。ただ、それに目を向ける勇気がないだけで。
「お迎えに参りましたよ?みさきちゃん」
大学の帰り道で、周りの注目の的であるにも関わらずそんな大袈裟な態度をとってみせるこの男は、過去へと追いやったはずだった。
しかし、何故か彼はこうして目の前に存在する。思わずどさりとバッグを落とす。周りはただただ唖然とする男子生徒や、彼を見て黄色い声をあげる女子生徒と様々。私は出来るだけ感情を込めずに言い放つ。
「何か私に用ですか?」
彼はくすり、と意味深な笑みを浮かべると、私の右手を優しく手に取った。
「帰ろう、池袋に」
――……池袋。
――ここ1年間、無意識に避け続けてきた場所。
「……離してください」
――帰りたくない。
――いや、正確にはまだ帰れない。
「会いたくはないのかい?あいつに」
「……」
会いたい。本当は今すぐにでも会いたい。今までに何度会いたいと願った事か。
それでも今日まで耐え続けた。今はまだ会うには早過ぎるのだ。自分の力で解決する時まで――その為に私は全てを犠牲にしてまででも池袋を去ったのだから。
「……ねぇ、この俺が何も知らないとでも思ってた?今でも君が、罪歌について色々と嗅ぎ回っている事」
「……」
「俺は君の事なら何だって知っているよ。1年前、君が池袋を離れた理由も」
彼をシズちゃんと呼ぶのはきっと世界中捜しても私と彼だけ。他の多数の人間は彼を恐れてこう呼んだ。『池袋最強』と。だけど私は知っている。彼がどんなに優しくて、温かな人かを。
「みさきちゃん。俺はこの1年間も、ずっと君の事を見てきた。だから君の今までの苦労を労えるし、頭を撫でてやる事もできる」
頭の上に、ポンと臨也さんの右手が置かれる。それだけで何故か涙が出そうになった。臨也さんの今の言葉が、1番私が欲しかった言葉だったような気がして。
「罪歌は少しずつ動き始めている。君が話してくれた贄川って女……色々と問題を起こしたらしい」
「! もしかして……那須島って先生が斬られたりしていませんか!?」
「よく知ってるね。まぁ未遂ではあったらしいけど」
「……やっぱり、」
――贄川さん、本気なんだ……
「その様子じゃあ、何だか色々と知っているようだね。どう?ここはお馴染みの取引といかないかい?」
「で、でも……」
「巻き込またくない、だろ?君のその言葉は聞き飽きた」
そう言って彼は悪戯っぽく笑うけど、それでもなかなか軽々しくは口にする事ができない。だけど、その躊躇を揺らがすくらいの言葉を彼は次に口にした。
「それに……そんな悠長な事は言ってられないんだ」
「どういう意味ですか?」
「今はまだ小規模ではあるけれど、今度は池袋で通り魔事件が発生したんだ。それも埼玉や新宿であったような無差別通り魔事件が」
「!!」
……私は、大きな間違いを犯していた。私は自分さえいなくなれば、罪歌が他の標的を狙う事はないだろうと思っていた。だけど実際そんな事はなかった。現に贄川春菜は、こうして切り裂き魔事件を再び池袋で引き起こしているのだから。
そして「池袋」と耳にした途端、何故だか無性に嫌な予感がした。池袋に住んでいなくても、シズちゃんの『池袋最強伝説』は時折耳にしていた。その度に微笑ましい気持ちにもなれたのだが、同時にそれは今現在もシズちゃんが池袋にいるという事実。罪歌に狙われる危険性の高い籠の中に。
「どちらにせよ池袋にいる以上、誰が巻き込まれたって可笑しな話じゃあない」
「……そう、ですね」
「話は事務所でゆっくり聞こう。もし君にその気があるのなら……おいで」
「……」
まさか、こんな形で再び池袋に戻ろうとしているなんて。少し前の自分だったら、絶対にあり得ない話。だけど、人生なにがあるかなんて分かったもんじゃない。それを、私はあの池袋で、たくさん経験したじゃないか。普通じゃあ絶対にあり得ないような、そんな"非日常"を。例えば、上京して早2日目に血だらけの男を拾うとか。
落としたバッグを拾い上げ、肩に背負う。あの古傷がズキリと傷んだ気がした。