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PM1:04 某ファミレス店内


「えッ、……まじ!?」



余程驚いたらしい、右手に持っていたスプーンからポロリと角砂糖が落ちる。その落ちた先が運の良いことにティーカップの中で、小さくちゃぽんと水音を立ててコーヒーの湖へとダイブした角砂糖はみるみるうちに溶けていった。その過程を目の前で見送りつつ、私は手元の紅茶を意味もなくくるくると混ぜ続ける。角砂糖が完全に溶けきったところで、私は再び視線をろっちーの元へと戻した。しかし彼の表情は優れない。



「? どうかした?」

「あ、いや……よ、良かったじゃん!ずっと待ちわびてたんだろ?記憶が戻るのをさ」

「う、うん……?」



すぐに表情が和らいだはものの、もしかしたら気を悪くさせてしまったのではないかと不安になる。あの一瞬の彼の表情は慌てているかのようにも見えた。しかし、いかにも平穏を装おうとしているのがバレバレな態度、私と同じで彼も何か隠し事をする時視線が泳いでしまう癖があるらしい。

暫くソワソワと落ち着きない行動を取っていたろっちーだったが、やがてばつの悪そうに頬を掻く。どうしたのかと訊ねてみると、彼の口から出てきたものはとんでもない事実だった。



「あ、身に覚え無かったら聞き流してくれな?ただの噂なんだし、ダチから聞いた話なんだけどよー……数日前みさきにすげー似た女の子が怪しげなスーツの男達に囲まれてたって。そんで……なんつーの?あのダックスフンドみてぇな、黒くて細長い高級車……」

「……リムジン?」

「そう、それそれ!……に、乗ってた?つー話なんだけど……」



私みたいな凡人が今までの人生上リムジンなんてものに乗った経験はたった1度しかない。あれは四木さんに臨也さんの事務所まで送って貰った時の話だ、それ以外は到底考えられない。

それにしても、何処でそんな噂話耳にしたのだろう?



「そんでさ、もしかしてみさきのいう彼って、ぶっちゃけ暴力団とかカラーギャングとか、そういう筋の奴なんじゃ……」

「! 違う違う!あの人達は私の知り合いの知り合い?で、特に直接的な関係はなくて……シズちゃんは関係な……、……あ」

「へぇ、しずちゃん、て呼んでんの?彼氏のこと」

「と、とにかく!あの人達がどんな人かは知らないけれど、シズちゃんは悪い人じゃないよ」

「ふぅん?」



向かい側で頬杖をつき、ニヤニヤと笑うろっちー。



「ほ、本当だってば……」

「分かった分かった。でもさ、正直安心したわ。俺もみさきの大切な人は傷付けたくねーし」

「……え?」

「悪ぃ、今のは忘れて」

「?」



結局ろっちーの言っていた大半のことが明らかになることなく、納得出来ずにはいたものの私は仕方なく程よく冷めた紅茶を啜った。

そういえば、ろっちーがコーヒーを注文するなんて珍しい。埼玉にいる時はいつもコーラだったから。それでも特に気にすることもなく、その後私とろっちーは軽食を摂ると別れた。ろっちーはこれからちょっとした用事があるらしい。急いで駆けて行く彼の後ろ姿を見送りながら、それでも私は彼の纏う違和感に気付くことが出来ずにいた。



♂♀



PM6:36 静雄のアパート


久々に出た池袋はあまりにも華やかで。あれから知り合いと再会を果たすことは無かったけれど、私は自分なりに買い物を満喫することが出来た。結果、アパートに着く頃にはもうじき6時を迎えようとしていた。

収穫は大半が自分の着替えと食材、今夜は鍋だ。私達は過去に「今夜は鍋にしよう」と約束を交わしたことがある。しかしその小さな約束は未だ果たされることなく昔に置き去りにされたまま。そんな限りなく需要の薄い子どもみたいな約束事を、シズちゃんが覚えてはいないだろう。だから私は別に思い出話に浸りたい訳ではない、これは過去の自分との決別を意味するのだ。弱い自分を捨て、これからは地に足をつけて歩んで行かなくてはいけない。



「ただい…… ?」



シズちゃんは今頃仕事の真っ最中なのだろうし、私以外の誰かがそこにいる訳ではない。ただつい癖で口をついてしまっただけで、このただいまは独り言のようなものだ。誰もいない――そう思ってた、今までは。

それじゃあ綺麗に玄関に揃えられているこの靴は……一体誰の物?



「お帰りなさいませ、苗字みさき様」

「! 誰!?」

「失礼しました。本来ならば何も言わずに退室すべきでしたが、貴女からは私と同じ気配を感じたもので」



知らない、女の人の声。急激に心拍数が上がったのが嫌でも分かる。部屋の電気は点けられていない、その真っ暗で何も見えない空間が更に恐怖を植え付けた。

仮に彼女が泥棒ならば靴を綺麗に揃えることもないだろうし、何より私の名前を知っている。もしかしたら知り合いかもしれないと思い、靴へと注いでいた視線を徐々に目の高さまで上げていくが、そこに音もなく現れたのは見知らぬ女性。



「あなたは?」

「誠に勝手ながら、そのような質問に関しての返答は拒否させて頂きます」



鳥肌が立つ、胸のあたりがザワザワする。私は確かに目の前の女性に会ったこともなければ、当然こうして会話を交わしたこともない。だけど彼女の言う『同じ気配』という意味が何となく分かるような気がした。

女は無言のままその場に屈み込むと、己の靴を鞄へとしまう。その動きには一切の無駄がなく、まるで舞いを見ているかのよう。



「またいずれ会う時が来るでしょう。主はそれを大いに期待しています」

「あ、あの……それってどういう意味……」



女の言っている意味が全く理解出来ず、必死に頭の中を整理しようと試みている矢先――カツンカツンと誰かが階段を登る音が耳に入り、私の意識は我に返る。

もしかしたらシズちゃんかもしれない、しかし目の前の女のことをどう説明すべきだろうか……?私が内心焦っている反面、女は相変わらず無表情で特に慌てた様子も見せず、くるりと音もなく身を翻すとスタスタと部屋の奥へと消えてしまった。やがて彼女の姿は闇へと紛れて見えなくなる。



「え ……えーと、」

「みさき?」

「!!!!!」



突然背後から名前を呼ばれ、驚きのあまり背筋が伸びる。反射的に素早く振り返ると、そこにはキョトンと不思議そうな表情で私を見つめるシズちゃんがいた。



「どうしたんだよ、玄関なんかに1人で突っ立って」

「し、シズちゃん……」

「ん?」

「おばけ……見た……」

「……」





とりあえず中に入れとシズちゃんに連れられ、私は椅子に縮こまって座ると先程の恐怖体験を手短に話す。

あの長いようで短い時間での体験は、私の心臓を嫌という程に打ち鳴らした。しかしシズちゃんは怯えるどころか、寧ろ呆れたように溜め息を吐き、涙目状態の私のすぐ隣に腰を下ろす。



「涙目で何を言うかと思いきや。なんだよ、おばけって」

「だ、だから……私が帰って来たら玄関に靴が置いてあって……そしたら知らない女の人が私に……!」

「ちょっと待て、お前勝手に外に出たな?……いや、今はいい。で、そもそもおばけは靴を履くもんなのか?幽霊ってのは足が無いんじゃなかったのか?」

「……」



確かに。一旦思考回路を削除し、再び冷静に考え直してみる。それでもあの時の記憶は鮮明で、どう考えても私の目の錯覚には思えなかった。もしあの女が生身の人間だったとしたら、それはあの女が今もこの部屋の何処かに隠れ潜んでいるということを示す。しかしこの狭いアパート部屋で隠れられる場所など高が知れているし、きっと直ぐに見つけられてしまうだろう。

次第に心臓の鼓動も元の落ち着きを取り戻し、頭が冷静になってきた頃。結果的に私は「あれは私の生み出した幻覚だ」と無理矢理解釈することにした。これ以上考えてもラチが明かないし、なにより小心者の私にとって怖い思いは極限控えたい。最近の若者は恐怖体験が足りないとこの間テレビで聞いたが、それはきっと私みたいな人間を言うんだろうなと客観的に思う。



「そうだ、今夜は鍋にしようと思って」

「鍋?」

「シズちゃんは何鍋がいい?何鍋でもいいように、たくさん食材買って来たの。あ、でもキムチ鍋だけは辛くて苦手だから他の……」

「寄せ鍋決定だな」

「……え」



「鍋か、いいなそれ」

「冬って言ったら、やっぱり鍋だよねぇ」

「何鍋?」

「んー、適当?」

「寄せ鍋決定だな」




それは、いつしか2人で交わした約束。あの時と全く同じ台詞をシズちゃんは今口にした。きっと本人は無意識だろうけど、私は思わず固まってしまったのだ。

しかしシズちゃんはやや不機嫌そうに、そんな私の額を指で軽く小突く。正直なところかなり痛い。ヒリヒリと痛む額を両手で覆いシズちゃんの顔を覗き込む。



「だから、ちゃんと思い出したって言ってるだろ?鍋食べるって約束、俺だって覚えてるんだからな」

「そ、そりゃあ思い出したのかもしれないけど……あんな約束、覚えてたの?」

「? 当たり前だろ」



さも当たり前であるかのように話すシズちゃん。だけど私にとってはかなり衝撃的で、それと同時に嬉しくもあり。思わず涙が滲み出てきたのを隠すように、私はその場を立ち上がるとキッチンへと足を向けた。しかしそれよりも早くシズちゃんの手に腕を掴まれ、私の身体は引き寄せられる。



「泣いてんのか?」

「……ッ、これは、さっきのおばけのせいで……」

「またおばけかよ。怖い怖いって思ってるから、見えないもんまで見えちまうんだよ。なんだっけな、昔新羅がそれっぽい諺口走ってたんだよな……幽霊の正体見たり……造花?枯れた尾花?ま、なんでもいいや」



引き寄せた私の身体を膝に乗せて、後ろからギュッと抱き締めた。背中から感じるシズちゃんのぬくもりに身体の芯から温まる。



「とにかく、もしこの部屋に幽霊がいたとしても、俺がぶっ飛ばしてやるよ」

「……幽霊って、殴れるの?」

「ま、どうにかなるだろ」



説得力の欠片もないような台詞でも、シズちゃんの言うことは信じられる。シズちゃんがすぐ傍にいてくれるから、もう怖いなんて感情は何処かに吹き飛んでしまった。あの女が口にしていた言葉の意味が気になるけれど、私の平穏な日常を壊すようなことがない限り、今日以降深刻に思い悩むようなこともないだろう。

だから、例えあの女を見た瞬間から続く嫌な寒気が治まらないとしても、私は気付かないフリをするんだ。

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