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必要最低限のものしか置いていない、相変わらず殺風景なシズちゃんの部屋。アパートに着くなりシズちゃんはまず初めに私をベッドに座らせると、そのままシャワー室へと足を向けた。

ようやく全てを話す決心がついたというのに、まだまだ話したいことがたくさんあるのに。浴室へと向かう彼の姿を名残惜しげに見つめていると、その視線に気が付いたのかシズちゃんが薄く微笑む。そして私の頭を軽く小突くと、柔らかな口調でこう言葉を紡いだ。



「話したいことがあるんだろ?なにも今すぐ話せとは言わねぇから、お互い落ち着いてから話そうや。俺はとりあえずシャワー浴びて来るからよ」

「……ありがとう」



頭の中を整理する時間を与えてくれたことに素直に感謝しつつ、私はシズちゃんの後ろ姿を見送るとベッドの上に横になった。それから仰向けに寝転がり、ぼんやりと意味もなく天井の一点を見つめる。枕に顔を埋めるとシズちゃんの匂いに混じって煙草の臭いがした。



♂♀



「……クソッ」



ザアザアと生暖かいシャワーの雨が降り注ぐ中、だんッと音を立てて左の拳を浴室の壁に叩き付ける。びしょびしょに濡れて水滴が滴る長い前髪が鬱陶しい。俺は無造作にそれを掻き上げると頭上から頬へ、頬から床へと滴り落ちる大粒の滴を無感情な瞳で見つめた。

落ち着こうと提案したのは確かに俺だ。しかし本当は今の自分がみさきを前に平常心を保っていられるか不安だったから、だからシャワーを浴びて来ることを名目にしてここまで逃げて来た。第一こんな状況で落ち着ける訳がない。浴室を出て、扉1枚という薄い隔たりの向こうには愛しいみさきがそこにいるのだから。



――本当は、今すぐにでもみさきと触れ合いたい。

――……つーか、1週間とか長過ぎるだろ普通に。



意識せずとも口から零れる溜め息が、俺を更に憂鬱にさせる。ぐるぐると、どす黒くて嫌な感情が頭の中を回り続けた。本当はみさきの都合なんてお構い無しに本能のままにしてしまいたい。ようやく思い出された記憶の中で何よりも1番鮮明なのは、あのゾクゾクと身体を這い上がるような支配欲だとか、そんなもん。

勿論みさきのことは何よりも好きだし、大切にしてやりたいとも思う。それがごく一般的な感性だ。しかし好きという感情が高まり過ぎればいつしかそれは大きく歪む。1年前の過ちを犯さないためにも、俺は変わらなくてはいけない。もっとも、今の俺にはそれ以前に1週間禁欲という過酷な試練が待ち受けているのだが。まるで蛇の生殺しだ。



「……」



ついこの間まで忘れ去っていたというのに、今はこんなにもみさきが愛しくて堪らない。1年間分のみさきへの想いが一気に押し寄せて来たかのようだ。みさきのことを考えると呼吸すらままならなくて、苦しい。

俺は蛇口を捻ってシャワーのお湯を止めると、水蒸気で満たされた空間に目を細めた。触れたいのに触れられない、すぐ近くにいるのに遠くに感じる。気持ちの問題ではない、これは互いの距離の問題だ。そもそもみさきは俺のことを本当に好きでいてくれているのだろうか?みさきが本当に好きなのは誰だ?そんな数々の不安を振り払うかのように、俺は小さく頭を振る。



あの感覚が、蘇る――…



自らの右手へと視線を落とす。この手で俺は、みさきをたくさん傷付けてしまった。怖い、もう傷付けたくなんかない。それでも身体は言うことを聞いてはくれない。全てが思い通りにいかないことに僅かな苛立ちを覚えつつ、俺は1年前の記憶を辿った。みさきを初めて抱いた日のことを思い出す。あれは、偶然にも2ヶ月ぶりの再会を果たしたあの日の夜のことだった。

結果的に俺の投げた自販機によってみさきを傷付けてしまい、同時にそれが再会のきっかけとなった。今思えば、あの日の出来事は奇跡だったと言っても過言ではないような気がする。しかしその後も暢気に思い出に浸れる訳でなく、あの男特有の違和感に気付き――



「……まじかよ」



なに興奮してんだ俺。この記憶は1年前のものであって、ただでさえ今まで忘れ去っていただけに覚束無い記憶だというのに。それを想像しただけで勃つ……とか。そんな自分が情けなく感じて、俺は頭を抱えた。

まだまだ身体は若いというか、馬鹿正直というか。自虐的に思いながら、俺は自身に指を絡める。そういえば俺はみさきと以来誰とも身体を交えていない。水商売の女に誘われたり、池袋以外の場所で女に声を掛けられることはあった。しかし不思議なことに何かを感じることもなく、当然性欲なんてものが沸き上がる訳もない。トムさんに話したら本気で心配されたけど。



「……くッ……!」



考えれば考えるほど性欲は一点へと集中し、次第に膨張してゆく。こういう時男は本当に面倒だと思う。情けないと思いつつも、俺は更なる刺激を求めて上下に自身を扱き始めた。気持ち良い、もっと気持ち良くなりたい。そんな淫らな感情が己の性欲を呼び覚ます。

イくのはあっという間だった。ドロリとした精液が吐き出され、白濁にまみれた右の手の平をだらしなくブラリと下ろす。火照った身体を冷たいタイルの壁に預け、そのままズルズルと座り込んだ。息が荒い、前髪を左手でくしゃりと掴む。



――……なんで俺、1人でこんなことしてるんだ?



みさきがすぐ近くにいるってのに。あぁ、やっぱり無理矢理にでもヤッちまえばよかったかな、なんて。そんなこと考えちゃいけないのに。この先長いであろう禁欲生活に不安を滲ませつつ、俺は汗ばんでしまった身体に再度シャワーを浴びさせると、簡単な部屋着に身を包んで脱衣室を出た。

みさきは寝ていた。またかよ、と思わず心の中でツッコミを入れる。カラオケボックスでも暢気に眠っていたというのに、俺の気も知らないで。1年前にも似たようなことがあった気がする。結局は人生なんて、同じことの繰り返しだ。それはお互い何1つ変わっちゃいないということを暗に証明付けていた。みさきのすぐ傍に腰掛け、そっと頭を撫でてやる。みさきの寝顔を見ていたら、さっきまでの嫌な感情は吹き飛んだ。



「ん……シズ、ちゃん?」



そのうちみさきがうっすらと瞼を開く。



「あれ、もしかして私……寝てた?」

「ああ、ぐっすりな」

「!? ご、ごめん!」

「あーいいっていいって。病み上がりなんだから、まだ身体が疲れてるんだろ」



とりあえず寝とけ、そう言ってベッドに無理矢理寝かせた。みさきは眠くないからと言って暫くごねていたけれど、そのうち仕方がないといった様子で静かにその瞳を閉じた。スウ、と小さく寝息が聞こえてきたのはそれからほんの少し後のこと。ほら、やっぱり眠かったんじゃねぇか。みさきはいつも無理をするんだ。

俺はみさきの隣にゴロンと横になると、その寝顔を見ていた。確かに禁欲は辛いけれど……今はこうして一緒にいられるだけでいい。みさきを忘れていた、この空白の1年間に比べたら。



それから1、2時間軽く睡眠を摂った後、みさきが久方ぶりに朝食を作ってくれた。バターを塗ったトーストにベーコンエッグ、そして温かいカフェオレ。俺達が始めて出会った翌朝の朝食と全く同じものだった。

みさきはある程度朝食を食べ終えると、急に真剣な表情を浮かべてこう言った。



「あのね、シズちゃん。私話したいことがあるんだけど……どんなに嘘っぽい事実でも、笑わずに受け止めてくれる?」



初めは一体どんなことを話すつもりなのだろうかと思っていたが、みさきの話は聞けば聞くほど真剣味を増す話だった。みさきの話を要約してしまえば、池袋には今、日本刀を持つ切り裂き魔が潜んでいるらしい。

確かに最近切り裂き魔の話をぼちぼち耳にすることもあったが、被害者はいつだって夜の街を出歩くチンピラばかりで、未だに死人が出ていないこともあって大袈裟には取り上げられていない。それこそサラリーマンみたいな一般人が被害に遭うようだったら、世間も黙っちゃいないだろうが。



「日本刀って……そんなん街中で持ち歩いてたら、切り裂き魔どうこう以前に捕まってるだろ」

「で、でも本当なんだってば!とにかくシズちゃんには気を付けて欲しいの。刃物を持った、赤い眼の切り裂き魔に」

「……赤い眼?」

「うん、充血したみたいに真っ赤なの」

「……」

「……ごめん、いきなりこんなこと言ったって、信じられないよね……」

「いや、信じる」

「え?」

「みさきが冗談半分にこんな嘘吐けるような奴とは思えないしな。それに……」

「……それに?」

「知ってたか?お前って嘘吐く時、目、泳ぐんだよ」

「! そ、そんなところばかり見てなくていいから!」



果たしてみさきの言いたいことというのは、これのことだったのだろうか。それは定かではないけれど、きっと全てではないと直感で思う。だけど無理に聞き出そうとはしない、それが今1番正しいと思ったから。

俺は、みさきと共に毎日を平凡に過ごせればそれでいい。だけどもし、そんなささやかな幸せを脅かすようなことがあれば――俺はそれを絶対に許さない。例え敵がどんなに得体の知れないものだろうと、いくら危険な相手だろうと。

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