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「ここまで来れば大丈夫だろ」



私に向かって言う訳でもなく、シズちゃんが独り言のように呟く。私は終始無言のまま状況に追い付こうと必死に頭の中を整理していた。ベランダからの決死のダイブ、近くの工事現場の落下防止用ネットが張り巡らされていたお陰で、私は固いコンクリートの道路で頭をかち割ることなく現に生きている。果たしてシズちゃんは落下防止用ネットのことまで計算済みだったのだろうかという素朴な疑問はさておき、私は抱き抱えられた状態のままキョロキョロと辺りを見回した。

季節と季節の狭間の時期は日が沈む時間が曖昧だ。そこは人通りのない、灯りすらない路地裏だった。人のごった返しているこの東京には、まるで人々に忘れ去られたかのように人の気配が感じられない場所が点々と存在する。例えばこの路地裏のように、常に人通りの絶えないサンシャイン通りなんかとは雲泥の差だ。



「お、降ろして」

「嫌だ。お前、今自由にしたら絶対逃げるだろ」

「……」



ひたすらこのやり取りの繰り返し。私が逃げないからと言っても、シズちゃんは頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。ふぅ、と1つ溜め息を溢す。どうしたものかと頭を悩ませている矢先シズちゃんが前方を見つめながらこう問い掛けた。



「お前、臨也のことが好きなのか?」

「えッ」

「いいから答えろよ」

「す、好きだけど……恋愛感情の好きとは多分違う」

「そうか」



それだけ訊くと、シズちゃんはやっとのことで私を自由にしてくれた。覚束無い足取りで地面の感触を踏みしめる。しかし足取りが安定するよりも先にシズちゃんに抱き締められ、よろめいた身体は彼の胸元へと引き寄せられた。シズちゃんが私の頭を撫でながら、途端に安心したかのように大きな大きな溜め息を吐く。



「俺が知らないうちに臨也とデキてんのかと思った」

「……シズちゃん?」

「これでも結構焦ってたんだよなあ。こんなことまでしておいて、ここでアイツが好きだって言われたらどうしようって」

「……思い、出したの?」



恐る恐るそう訊ねるとシズちゃんは小さく微笑んだ。



「髪あげて」



耳元で小さくそう囁き、ゆっくりと離れてゆくシズちゃん。一体何なのだろうと疑問に思いながらも言われた通りにすると、シズちゃんはポケットから箱を取り出すなりその中身を私に見せた。一瞬、それこそ幻だと思った。何故ならそれは私がずっと以前になくしてしまったものなのだから。

シズちゃんはそれを両手で持ち、私の首へと回す。金具をとめたのを確認すると目線を己の胸元へと下ろした。キラリと小さな輝きを放つ水色の光がとてつもなく愛しい。こんなに小さなものどうやって見つけたのだろう。そう訊ねる代わりに見上げてみると、シズちゃんはその水色に輝くダイヤにそっと指先で触れた。



「もう手放すんじゃねぇぞ?」

「う、うん……」



クリスマスの日、シズちゃんが初めて私にくれたプレゼント。とても大切にしていたのに、ある日突然なくしてしまったものだ。もう見つからないだろうと諦めていただけあって、久々に目にしたそれはかなりの衝撃を私に与えた。どういう経路でこれを見付けたのかは定かではないが、今目の前にいるシズちゃんが本当に私の知っているシズちゃんなのかが確かめたかった。

チラリと顔を盗み見る。変わらぬ金髪、変わらぬ瞳。



「どうした?」

「!! べッ、別に!」



ふいに互いの視線が見事に重なってしまい、私は慌ててあらぬ方向へと目を向けた。しかしシズちゃんは申し訳なさそうな表情を浮かべたかと思うと、困ったように頭をわしわしと掻く。



「ごめんな」

「……どうしてシズちゃんが謝るの?」

「いくら臨也の野郎が絡んでいたと言えど、みさきのことを1年も放っておいてた訳だろ?俺」

「……あのね、シズちゃん。元はと言えば私が……」

「分かってる。けど、もういいんだよそんなことは」



そして私の言葉をやんわりと遮ると、シズちゃんは何の前触れもなく私の唇へ己のそれを重ね合わせた。まるで犬がじゃれるように赤い舌でペロリと舐め、首筋や鎖骨のあたりへと唇を這わせる。その触れるか触れないかの感触がくすぐったくて、思わず身震いした。

耐えきれずに身体が後ろへ倒れてしまうも、背中にひんやりと冷たい感覚を覚える。いつの間にかコンクリートの壁へと追いやられていたことに気付き、私は慌ててシズちゃんを制した。



「ま、待ってシズちゃん」

「いや、待てない」

「ッ、こ、ここ外!外だから……!」



咄嗟に場所のことを言い訳にするとシズちゃんは急にピタリと止まり、そしてゆっくりと唇を離したかと思うと、再び私を抱き上げる。

再びスタスタと大股で歩き出すシズちゃんに、私は恐る恐る問い掛けた。肩に担ぎ上げられていた為表情こそは見えなかったのだが。



「……どこ向かってるの」

「カラオケボックス」

「?」



まさか一緒に歌を歌う訳でもないだろうし、本気で考え込む私を見やりシズちゃんはニヤリと怪しい笑みを浮かべた。そして若干シワの寄ったクーポン券を胸ポケットから取り出す。中央に大きく『半額』という文字が書かれており、その下に『夜間オールコース限定』と小さい文字で書かれているのがチラリと見える。



「さっき道端でティッシュ配りの奴に貰ったんだけどよ……丁度今からの時間なら夜間オール出来るよな」

「???」



状況がうまく察せないでいると、シズちゃんが補足するかのように言った。



「場所、変えた方がいいんだろ?」



♂♀



連れて来られた場所は、過去に何度か来た経験があるお馴染みの某カラオケ店だった。2、3人用の小さな個室は適度に薄暗く狭い。

予め注文しておいたドリンクが来るのは早かった。2人分のミルクティーとガムシロップをテーブルの隅に置くなり、慌てた様子で早々と部屋を出て行く若い男性店員。あのクーポン券の効果だろうか、今日は夜間の客がいつもに増して多いらしい。男性店員が出て行くのを見送ると、シズちゃんは私の方に向き直った。



「あの、……本当に思い出したの?」

「あぁ」



そう短く返すなり、隣でこじんまりと座る私の身体をソファの上に押し倒す。幸いドアのこの角度から中の様子が見えることはないだろうが、本来歌うことが目的であるこの場所でこの体制に抵抗と羞恥を感じた。

シズちゃんが淡々と話す。



「この1年間、ずっと空っぽだった。何が欠けているのかも分からなくて、その度にイライラして、喧嘩して……」

「……」

「今まで思い出せなかったのにさ、これ見たら思い出せたんだよなあ、みさきのこと。それからはあっという間だよな、どこ歩いてもみさきの思い出がすげー溢れてきて……やっと本来の俺に戻れた気がする」



そう話すシズちゃんの目はとても穏やかな色をしていた。久々に再会したあの時も昔と変わらず優しかったけれど、今のシズちゃんは私の記憶の中に残るシズちゃんそのものだ。嬉しいような悲しいような、複雑な気持ちが私の心を支配した。途端に込み上げてきた何かが涙となって溢れ、私の頬を僅かに濡らす。その涙を舐め取るようにシズちゃんの舌が目尻に触れ、そのまま涙の跡に沿って滑る。

シズちゃんの為に良かれと思ってしたことが、結局裏目に出てしまった。この1年間辛い思いをしていたのは私だけだと思ってた。しかしいくら記憶を失おうと彼も同時に辛かったのだ。



「……私、勝手だったね」

「……」

「否定してくれないんだ」

「当たり前だろ、その通りなんだし」



無意識のうちに私の腕はシズちゃんの首へと回り、それが何だか照れ臭くて思わず顔を背けてしまった。今この瞬間が夢みたいに嬉しくて、だからこそ壊れてしまうのが怖い。幸せな日常は脆く儚く、いつか終わりが来てしまうことを私は嫌というほど知っていた。あんなに悲しい思いはもう2度と味わいたくないのだ。

1年という長い月日を経てようやく自分の過ちに気付けたような気がする。打ち明ければいい、シズちゃんに全てを話そう。ようやくそう決心がつき、いざ口を開くものの、次の瞬間シズちゃんの左手が服の隙間から入ってくるのを感じる。


「ッ!?シズちゃん!?」

「なんだよ」

「な、にすん……」



言葉を最後まで口にすることは叶わず、私の口はシズちゃんのそれによって塞がれてしまった。いつもそうだった、シズちゃんは私を黙らせようとする度にこの方法を使う。当然話すことは出来ないし、力で彼に敵うはずもない。本当ならこのまま身を委ねてしまうのも良かったかもしれない。

しかし――ズキリと下腹部が傷んだのを機に、自分が今生理中なのだということを改めて思い知らされた。



「……はぁッ、ま、待って!シズちゃん」

「あ?」

「あの、その……今はちょっと……アレで」

「あれ?」

「察してよ」

「……あれ」



分かっているのか分かっていないのか、よく分からない微妙な態度を見せるシズちゃん。やがて考えることを諦めると、一時的に停止していた手の動きを再び再開させた。唇を下へ下へと這わせ、両手も次第に早くも下半身へと伸びてゆく。

恐らくアレの意味が伝わっていないのだろう、そう確信した私は仕方なくオブラートに包まず訳を話した。



「……〜ッ!だから!今、生理中なの!!」



思わず声のトーンが上がってしまい、それから暫くきょとんとしていたシズちゃんだったけれど、ほんの少し頬を赤く染めると名残惜しげに私から離れる。



「チッ」

「(舌打ち!?)」

「そのー……なんだ、生理とやらはいつまで続くもんなんだ?」

「えと、今日始まったばかりだから……今月分が終わるのは1週間後かな」

「!!?」



そして有無を得ずに禁欲生活1週間を強いられてしまった彼は、その突き付けられた事実に落胆し肩を落とした。まるで餌を目の前にして「待て」と告げられたお預け状態の犬のように。

結局それからの残り時間はお互いの身を寄せ合って寝た。そして次に目を覚ましたのは、終了時間を知らせる店側からの電話が鳴り響いた時だった。時刻は朝の4時、早朝。慣れない場所であるにも関わらずぐっすり眠れた私とは反して、シズちゃんは全く眠れなかったよう。その後私達は池袋――シズちゃんのアパートへと向かうことになった。

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