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いつの間にか窓の外は夕焼け色に染まっていて、部屋の中も薄暗い。薬の副作用や疲労の蓄積された身体のせいあって、随分と長い間眠っていたようだ。睡眠を摂り過ぎたのが逆に頭痛を引き起こす、しかしそれが現実だと改めて認識するのに丁度良かった。そうでもしなければ、私はきっと現実と夢の境目を自分で判断出来なかっただろうから。

爆音のようなもので目を覚ます。寝たままの姿勢で周りを見渡すが特に異常はない。しかし次の瞬間視界に映るのは勢いよく開け放たれた部屋の扉。



「  !!?」



驚きのあまりに思わず上半身を起こす。部屋に入ってくるなり、彼――シズちゃんは私の身体を抱き締めた。ああ、私はいつかの夢の続きを見ているのだろう。だってこんなこと現実じゃああり得ない。未だに夢心地の私は特に反応もせず成り行きにその身を委ねた。だってどうせ夢だから、幸せな夢から覚めた後に待ち受ける現実は虚しいだけ。

だけどこんな夢は初めてだった。いつも見る夢は昔実際に起こった出来事だったり、そういうものを客観的に眺めているだけだったから、その場に本物の私という存在はいなかった。今は違う、こんなにも鮮明にシズちゃんの温もりを肌で感じている。その感覚が堪らなく懐かしく感じられた。



「一緒に帰るぞ」

「……?」



きっと昔の後悔やら願望がごちゃごちゃに入り交じった脳が、こんな夢を見せているのだろう。なんて滑稽で幸福な夢。なんて長い夢だろうとぼんやり思いつつも、今はまだ目覚めないでいて欲しいと願ってしまう自分がいた。しかしようやく脳が目覚めた頃、何処と無く異変に気付き始める。

ドアの隙間から覗き見えた光景――つまり玄関が酷く破壊されている様子を視界に捉え、ようやく現実味を帯びてきた脳が現実を目の前に突き付けた。違う、これは夢なんかじゃあない。



「ど、うやって入って来たのシズちゃん……!」

「どうって、普通に入ろうとしたらビービー鳴りやがったから無理矢理抉じ開けて入った」



しれっと言い放つシズちゃんに軽く目眩がしたのは言うまでもない。あの扉を難なく潜れるのは私と臨也さんだけであって、波江さんでさえこの部屋には入れない。だからシズちゃんが入れないのも必然的なことなのだけれど、彼の力に敵うものなんてないのだろう。



「まだ喉、辛そうだな」

「……」

「大丈夫か?」



シズちゃんが不安げに私の顔を覗き込みながら喉に手を当ててくる。本気で私の身を案じてくれているのだということが痛い程に伝わり、思わず涙が零れてきそうになった。しかしこれが現実だと悟ったからこそ、私は次の瞬間シズちゃんの身体を思い切り突き飛ばした。実際私なんかの力では多少よろめかせる程度でしかなかったけれど。シズちゃんは一瞬驚いたような表情を浮かべると、すぐに私の左肩を思い切り掴んだ。



「なにす……」

「離して」

「……は?」

「もう、会いたくなんかない」

「……なに言ってんだお前」



嘘、私は真っ赤な嘘を吐いている。本音は真逆、口から出るのは嘘ばかり。本当は素直に甘えてしまいたかった、だけど同情の優しさならいらない。なんてわがままで面倒臭いのだろう。

シズちゃんに今の自分を見られたくないのだ。約束を破ってしまったことへの罪悪感がチクチクと胸を刺す。どうせシズちゃんは覚えていないだろうけれど、何故か彼の目を真っ正面から見ることが出来なかった。



「お願い。……帰って」

「嫌だ」

「ッ、だから!シズちゃんの顔なんて見たくな……」

「じゃあ、なんでそんな泣きそうなツラしてんだ?」

「……ッ!」



そんなこと言える訳がない。下唇を力強くきゅっと噛み締め、込み上げてくる衝動に耐える。きっと心の優しい彼のことだから、例え私のことを思い出していないにせよ、目の前で涙を流す人を放ってなんかおけないだろうから。もう少しの辛抱だから、だから私は彼の目の前で絶対に泣いてはいけないのだ。だけど実際は自分の過ちに気付いて欲しくないだけで、こんな汚れた自分をシズちゃんに知られたくないだけで……

シズちゃんはしばらく私の目をじっと見つめていたけれど、やがて小さなため息を吐くと腕の力を徐々に弱めていった。そう、これでいい。これでいいのだ。気まずそうに顔を背けシズちゃんから視線を外す。あとはシズちゃんがこの部屋から出て行ってくれさえすればいい。しかしシズちゃんが向かった先は玄関ではなくベランダの窓際。ガラガラと音を立てて窓が開く。



「? なにして……」

「くせぇ」

「?」

「アイツが帰って来やがった」

「……」



――……あいつ?



「人んちの玄関の扉破壊して入るのやめてくれない?修理代出す俺の身にもなって欲しいんだけど」



ぞくり、嫌な感覚が背筋を走る。透き通るような清々しい声、しかしその声音にはただならぬ殺気を感じた。シズちゃんが私の背後を睨み付ける、その瞳には既に私の姿を映してはいない。怒りの対象への殺意を剥き出しにしつつも、妙に落ち着いた声音であの馴染みある人物の名を口にした。



「……臨也」



以前にもこれと似たようなことがあった。あの時と状況が少しばかり違くはあるのだが。恐る恐る背後を振り向くと、思っていたよりも至近距離に臨也さんは立っていた。それでも尚臨也さんはにっこりと笑顔を浮かべたまま私の両肩それぞれに片手ずつ置くと、互いの身体が完全に密着するくらいに身体を引き寄せる。

両肩を掴まれてしまった私は動くことも勿論、この場から逃げ出すことすら出来ない。最高に居心地の悪い雰囲気の最中、シズちゃんが不機嫌そうに小さく舌打ちをしたような気がした。



「まさかこんなに早く来るなんて、想定外だよシズちゃん。君の行動は計算出来ないから実に不便でならない」

「そりゃあ1人で算数なんてご苦労なこった。……全部、手前の仕業なんだろ」

「そこを数学じゃなくて算数って言うところが君らしいよね。それに、なんの根拠もなしに何を言ってんのさ。ま、化け物相手に理屈が通用するとは初めから思っちゃいないけど。だから単細胞のシズちゃんでも分かりやすいように言ってあげる」



そこまで言うと、臨也さんはまるでシズちゃんに見せつけるかのように私の腰に手を回す。突然の行動にびっくりし、思わず硬直してしまった私の耳元に臨也さんが唇を寄せて言った。いつもの透き通るような声じゃない、まるで誘惑するかのような、ちょっぴり低くて甘い声が鼓膜を震わす。

君はアイツを拒絶したいんだろう?なら俺の言う通りにすればいい、そう小さく囁くなり臨也さんは更に私の身体を抱き寄せた。



「シズちゃんもその目で見たと思うんだけどさぁ、俺たち"そういう仲"だから」

「!? 臨也さん!?」

「君も否定出来ないだろう?昨日だって……」

「臨也さん!!」



自分でもびっくりするくらいの大きな声。しかし喉が痛むにも関わらず無理して声を出してしまった為、反動で更に喉を痛めてしまった。ゲホゲホと咳を続ける私の背中を臨也さんが優しく撫でてくれる。シズちゃんの顔が見たくなくて、ようやく咳が治まってからも口元を覆ったままひたすら足元を見つめていた。じわりと目尻から涙が零れる。

この涙は噎せ返ってしまったせい?それとも……?



「ま、そういう訳だから。勘違いしないでよねシズちゃん。君がみさきちゃんに会いたくても、みさきちゃんが君に会いたいとは限らない」



臨也さんの言葉にシズちゃんは何も答えなかった。途端に重々しい沈黙がこの部屋を支配する。しかし長い長い沈黙の末、その沈黙を破ったのはシズちゃんの突拍子な笑い声だった。あまりにも予想外な反応に思わず顔を上げると、シズちゃんは自然とその顔に確かな笑みを浮かべているのだ。

己の感情を誤魔化すようなものでもない、本当に心の底から自然と込み上げてくるような――いかにも楽しげな表情。暫し笑い終えた後、シズちゃんは可笑しくて堪らないといった様子で挑発的に言葉を紡いだ。



「ははッ、勘違いしてんのはそっちだろ?臨也くんよぉ。俺は確かにみさきに言ったはずだぜ?一緒に帰るって。つまり、だ」

「俺は別にみさきの意思を尊重しに来た訳でもねぇ」

「無理矢理にでも連れて帰るっつーことだ」



それからが電光石火の如くあっという間の出来事だった。シズちゃんが私の片腕を強引に引き、肩に背負うような形で抱き上げる。驚きの声を上げる暇すら与えてもらえず、あろうことかシズちゃんは私を抱き抱えたまま予め開けておいたベランダの手すりに手と足を掛けた。ちゃんと俺に掴まってろよ、なんて私の顔を見て言うもんだから、そんな彼の次の行動を想像することなど誰にでも容易い。

外の風に触れ、最高に見晴らしの良いビルだらけの新宿の風景を目にし、あれここ何階だっけなんてことを考えてみる。正確には記憶していないがこれだけは確かに断言出来る、ここから落ちたら人は死ぬ。今まで培ってきた一般的な常識が私の中で警報を鳴らした。



「ま、さか……」

「よっと」

「!!!!!!!?」



手すり部分を勢いよく蹴り上げ、シズちゃんは何の躊躇いもなくベランダの外側へと向かって大きく跳躍した。例えるのならエレベーターが階を降りる瞬間に生じるふわりと身体が浮くような、あの嫌な感覚。私たちの身体は重力に従い、下へ下へと落ちていった――




 落ちて

   堕ちて

     墜ちて――…





声にならない叫びを上げながら、下から上へ流れてゆく景色に反射的に両目を瞑る。しかしベランダから飛び降りる直前に見た臨也さんの表情は、今の状況を楽しんでいるかのようにも見えた。私に向かって手を振っているように見えたのはただの目の錯覚だろうか?



♂♀



「いやぁ、善人ぶるのも楽じゃないねえ」

「あれのどこが善人な訳?私にはただのウザい皮肉屋にしか見えなかったけど」

「相変わらず冷たいんだから、波江さんは」



冷ややかな彼女の言葉に振り向くことなく答え、俺はヤツが飛び越えて行った手すりに両肘をつくとゆっくり下を覗き込む。どうせヤツは無事だろう、いっそのこと足を複雑骨折してしまえばいいのにと物騒なことを考えるが、同時にみさきの身の安全を案じる。これでもし彼女の身体に怪我を1つでもつけていたらそれ相当のことはしてやろう。



「やっと諦められたのかしら、あの子のこと」

「まさか!これは一種の賭けだよ。もしこの時点でシズちゃんが何も思い出せないような単細胞馬鹿だったら、俺は問答無用にあの子を自分のものにしていただろうさ。それに……そのうち嫌と言うほど忙しくなるだろうからね。みさきちゃんも、シズちゃんも」

「どうせ貴方の撒いた火種でしょう?」

「さぁ、どうだろう」

「……しつこい男は嫌われるわよ」

「はは!あんたに言われるとは思ってもみなかったなぁ!……弟くん、結局あの女と付き合ってるんだって?それが結果的に首への愛の為だとしても」



ぐしゃ、と紙を握り潰す音が言葉の続きを強制的に遮る。今の言葉が余程彼女の癇に障ったのだろう。チラリとだけ視線を背後へと向けると、波江さんの両手に抱え持っていたファイル資料がヨレヨレに皺を寄せているのが視界端に映った。

それでも俺は特に動じることなく冗談半分に言葉を紡いだ。なぜなら彼女の行動は既に想定内だったから。



「ウチの大事な資料を粗末に扱わないでくれるかな」

「心配ならご無用よ、この資料内容なら全てパソコン内に転送済みだから。ただのゴミをどうしようと私の勝手でしょう?」



確かに彼女は仕事も早いし仕事をする上で効率が良い。だけど一点において譲れないところが俺にはある。



「紅茶、煎れてくれる?とびっきり美味しいのをさ」



きっとあの子の煎れる紅茶以上に美味しい紅茶はないだろうってこと。皮肉をも込めたその言葉に、波江さんは苦々しい表情を浮かべつつも何も言わなかった。

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