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「……」

「みさき、ちゃん?」

「話し掛けないで下さい」

「……」



困ったように頬をポリポリと掻く。彼女を怒らせてしまったようだ。確かに悪乗りしてしまったという自覚はあるが、まさか敢えての無言の羅列を保ち続けようという、ある意味最も辛い仕打ちを受けることになるとは。最低なんて罵られるのならまだいいが、こうも無言になられるとどうしたらいいか分からなくなる。

みさきは俺のすぐ隣で丸まったまま、毛布を頭まですっぽりと被っていた。頭を撫でてやろうかと右手を伸ばすものの、すぐに思い止まって腕を引っ込める。さて……どうしようか。俺は寝転がりながら頬杖をつくと、その小さな背中をじっと眺めていた。心なしか震えているようにも見える。



「確かに俺も加減出来なかったところは悪いと思ってるよ?けどさぁ、実際みさきちゃんもかなーり気持ち良かったでしょ?」

「!? そういう意味じゃなくて!」

「あは、やっとこっち向いてくれたね」

「……ッ!」



途端に、直ぐ様毛布の中へと潜ろうとするみさき。俺はそんな彼女の手をすかさず取ると、逃げられないように両手を拘束した。いざお互いに顔を間近で合わせさぁどうしようかと思っていた矢先――みさきの大きな瞳からは、ふいにぼろりと大粒の涙が零れ落ちる。



「……臨也さんは、ずるい」

「?」

「今そんなに優しくされたら……私、現実から逃げてしまいそうになる」



始めから知っていた。人間は弱っている時ほど優しくされることに、とてつもなく臆病な生き物だということを。俺はそれを予め知っていて、だからこそ今回は以前と比べて限りなく優しくみさきに触れた。行為中に見せる、そんないつもと違う俺に戸惑いの表情を浮かべるみさきが堪らなく可愛らしくて。己の性欲のままに激しく犯してやりたいという強い衝動に駆られるものの、何とか持ち前の理性で平常心を保ち続けた。

今のみさきは心身共にボロボロだ。シズちゃんの件に関してのショックがあまりにも大きかったのだろう。



「逃げることって、そんなに悪いこと?ほんと、俺には不思議でならないんだよねえ、どうして君みたいな子がシズちゃんのことを好きなのかって」

「……」

「ねーえ、まだ無視を決め込むつもり?」

「……」



――うーん、困った。


俺は珍しくも本気で頭を悩ませ、しかしどうしようもないものだから、仰向けにごろんと寝転がった。本当はすぐにでも仕事に取り掛からねばならないのだが。

一方みさきはというと肝心の座薬が効いており、効果が解熱と記されていただけに熱は完全に下がったようだ。しかし咳や鼻まではまだ完治しておらず、時折小さな咳をしてはティッシュで鼻をかんだりしていた。



「セックス後なんだからさぁ……なんていうの?こう、甘い余韻なんてものはない訳?そんなにツンツンしちゃってさ。君のデレはいつ見られるんだろうね」

「……」

「本望じゃなかった、て顔してるね。でも、みさきちゃんもみさきちゃんだよ?なんで薬入れるだけに、あんなにアンアン喘ぐのさ」

「そ、そうさせたのは臨也さんじゃあないですか!だって臨也さんって妙に手慣れているというか、凄いやり慣れているというか!」

「あれ、なんだ。もう冷戦終わり?」

「……!」



顔を真っ赤にさせて、早口でまくし立てるみさき。しかし俺の言葉にハッと我に帰ると、再びいそいそと毛布の中へと顔を埋めた。

彼女がまだアイツを好きだってことは知っている。それは俺の力じゃあどうしようもないし、それこそ過去の記憶を操ったりしない限り変わることない事実だろう。シズちゃんに使った同じ忘れ薬を使うという強行手段もあるが、下手をすればシズちゃんのことだけでなく俺のことも忘れてしまうかもしれない。例えその可能性が限りなく少ないとしても、可能性が1%でも存在する限り、俺はその手段を躊躇し続けるだろう。



「ま、いいや。いい加減俺は仕事に戻らないと。みさきちゃんはまだ寝ていなよ。……ていうか、腰痛くて立てないでしょ」

「う」



図星なのだろう。みさきは1つ寝返りを打つと向こう側を向いてしまった。俺はその様子を見るなり苦笑すると、上半身裸の素肌の上からコートだけを羽織る。汗滲む肌にズボンの感触が堪らなく不愉快だ。まずは仕事場よりも先にシャワー室へと向かう必要がある。

ベッド横に立ち、みさきを見下ろす。視線こそ合わせてはくれないが、俺は1年前から彼女の歪んだ表情が大好きだった。たとえばそれは俺への困惑だったり恐怖だったり。心の内を占めているものを一言で表すとしたらまさしく加虐心だ。



簡単にシャワーを浴び、いつもの仕事場で作業に取り掛かっていると、着替えを済ませたみさきが気まずそうに入室してきた。しかし気を取り直したように、やがて本棚に並ぶ情報やらファイルの整理整頓を手際よく始める。俺は1度作業中のパソコンを閉めると1つ伸びをし、静かにその席を立つ。そしてみさきのすぐ後ろまで近付くと、耳元で小さく囁いた。それは俺の冗談であり決心であり、そして彼女への警告であり。



「無駄なことはさ、しない方がいいよ。みさきちゃん」

「無駄な、こと?」

「そう。無駄なこと」



だって馬鹿みたいだろう?顔を寄せ、そう言って笑うとみさきは少し怯えたような表情をした。そしてそろそろと後退りを始めたけれど、俺はただ口元に笑みを浮かべたまま彼女の歪んだ表情を見ていた。途端に身体中を駆け巡る感覚、まるで全身に鳥肌が立つ様な。

ああ、ぞくぞくするねえ。



「……い、臨也さん」

「どうしたんだい」

「私、ちょっとこのファイル、あっちの本棚に移動させて来ますね」

「手伝おうか?」

「だ、大丈夫です!それでは失礼します!」



それだけ言うと、みさきは俺から逃げるように走り去ってしまった。いずれ分かる時が来るだろう、逃げても逃げてもどうせ無意味なのだということを。だって彼女は、既に広げられた盤の手駒なのだから。そして早く堕ちてしまえ。俺はみさきを目で追うだけで追い掛けようとはしなかった。少なくとも――"今"、は。

ねぇ、みさき。真っ白で純粋な君だから、こんなこと言ってもどうせ無意味だろうね。逃げたいのなら好きなだけ逃げればいい。でもね、俺は忠告したつもり。



無 駄 な こ と は す る な っ て ね



閉ざされたドアには目もくれず俺は再び席へと戻る。上から2番目の引き出しを引くと、そこには細長い長方形の水色の箱1つ。中は開けず、俺はその箱を手に取ると忌々しげにまじまじと見つめた。しかしすぐに表情を和らげると、誰もいないこの部屋で1人笑う。

ねえシズちゃん、一種の賭けをしようか。どうせゲームをするのなら、刺激がなくちゃあつまらない。



♂♀



臨也さんから逃げるように事務所を離れ、早々と作業を終わらせた私は自分の部屋へと戻って来た。ドアを勢いよく閉める。そのドアに背中を預け、私はずるずるとその場に座り込んでしまった。途端に込み上げてくるものを両手で抑え込もうと口元を覆うが、その反動に瞳からは涙が幾筋か頬を伝って落ちた。どうしようどうしようどうしよう。



「……私……」



また同じ過ちを犯してしまった、心の中の罪悪感がどんどんと膨れ上がる。勿論自分から求めた訳ではないけれど、それでも結果としては同様だ。夢だと思いたかった、しかし身体の気だるさが無情にもこれが現実なのだと私を責め立てる。

最後にシズちゃんと身体を交わして以来、身体関係が目的で近付いてくる男はいたものの、そういう関係を拒み続けた私は自分のことを守ってきた。しかし久々にあの快楽を嫌というほど身体で感じ、意思とは裏腹に相手の身体を求めてしまった。もう2度とシズちゃん以外とはしないって決めたのに、シズちゃんと約束したのに。それなのに私は彼との最後の約束をあっさりと破ってしまったのだ。



「どうしよう……」



こんな中途半端な気持ちのままシズちゃんの顔なんて見られないし、見られたくない。そう思ってしまうあたり、やはり私は心の底からシズちゃんのことを諦めきれていないのだ。だけど今この瞬間、その希望は絶たれた。他の男と身体を交える行為がどれほど重い罪になるのかを、私は1年前身をもって経験している。

それでも臨也さんのことを嫌いになれないのは先程の行為中、彼があまりにも優しかったから。1度目は取引の条件としてやむを得ず身体の関係を持つことを了承したのだが、まるで玩具のように扱われたのを今でも記憶している。それなのに……何故?急に優しくされるとどうしたらいいのか分からなくなってしまう。



「(……身体、まだ痛い)」



私は思いついたように立ち上がると、覚束無い足取りでベッドへと向かう。そしてまるで糸の切れた操り人形のように、ベッドの上に倒れ込んだ。何かをする意欲も食欲も湧かない、とにかく今は寝てしまいたかった。次起きた時には全てを忘れ去っていますようにと叶わぬ願いを込めながら。

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