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私は改めて思い知らされる。彼女がどんなに紀田君を好きで、そして大切に想っているのかを。臨也さんだけは信じて疑いもしなかったあの沙樹からは想像もつかない台詞だ。呆気に取られ、開いた口が塞がらない私に沙樹はクスリと小さく笑う。



「大丈夫。みさきに迷惑は掛けないよ。私なりに……考えてみる。だけど私は非力だから、出来る限りのことを尽くすよ」

「出来る限りのことって……そんな。だって、沙樹はまだ足が」

「そのことなんだけど、実は私……もうとっくに治ってるんだ」

「!?」

「リハビリ次第ですぐにでも歩ける。だけど私は怪我人を演じ続けたの。正臣が、私から離れられないように……」

「……」



驚きの連続に頭がついていけず、私は軽く混乱状態に陥る。何を言ったらいいのか、また、今この状況でどんな言葉を掛けてやったらいいのか上手く言葉にして表すことができない。ただ騙されていたことに失望したり裏切られたと思うことはなく、不思議とすんなり現状を受け入れられているのは、心の何処かでそれをなんとなく察していたからなのかもしれない。その後、彼女がそれ以上を語ることはなかった。遠回しに何をしようとしているのか聞き出そうとしても、沙樹は頑なにそれを喋ろうとはしない。不安は拭えず、拭うどころか、もはや私が介入する隙のない程までに事態は更にややこしくなってきている。



「もうっ、そんなに不安そうな顔しないでよ。本当に大丈夫だから」

「……本当に?無理しないって約束できる?」

「うん、約束。だからみさきも自分のことを第一に考えてあげて」



そう言って笑う彼女の言葉を信じたい気持ちはあるのだが、「大丈夫」と言う人ほど大丈夫そうには思えない。そんな漠然とした不安を口にできる訳もなく、私は胸の内を秘めたまま静かに病室を後にする。



「聞かないでくれてありがとう」



退室する際、背に掛けられた言葉がやけに耳に残っている。そっと扉を閉めた後、私は暫しその場を離れることができなかった。彼女が今にも歩くことができると知った以上、もしかしたら無断で病室を抜け出してしまう可能性もあるのではないかという不安もあったし、何より、これから自分がどうすべきなのかを見失ってしまった。沙樹と会って話をすれば何かが見出せると思っていたが実際はそうも上手くいかず、ただ募るばかりの負の感情を押し殺すことしかできない。

このままでいいのか、内なる自分が自身に問う。やはり私は無力だったと後悔して追い詰めて、そうしてまた自分を嫌いになっていくのか、と。何も捨てることのできない私と違い、沙樹は大事な人を助けるために大切なものを1つ切り捨てた。それはとてもすごいことだと思う。



「沙樹。やっぱり私たち、似てないよ」



扉越しの言葉が届くはずもなく、ただそう言わずにはいられなかった。

私は彼のために全てを捨てることができるだろうか。いくら考えても所詮想像に過ぎない。もしかしたら私は試されているのかもしれない。この先自分がどうすべきか、何を信じて進むべきかーー今、その決断の時を迎える。



♂♀



ふわふわとした感覚に包まれ、朦朧とした意識の中、俺はただ身を委ねている。今自分がどこにいるのか、何をしているのか、それを考えるのも面倒だ。この何もない真っ白な世界は妙に心地良い。そうさ、このまま何もせずにいればいい。だって、この世界には嫌なものが何1つないではないか。俺を苛立たせるものも、俺そのものを嫌う者も。

ただ平和に暮らすことを誰よりも望んでいたはずだった。できることならこんな物騒な都会より、自然豊かな田舎での暮らしに憧れていた。それなのにどうして俺はいつまでも池袋に留まり続けるのだろう。この地に生まれ育ち、これまでの人生の大半を過ごしたが、特にこれといって池袋という場所自体に強い思い入れがある訳ではない。ならば尚更、何故自分はここにいる?



ーー……みさき……

ーーそうだ、みさき。あいつ今どこで何してるんだ?



周りを見渡すも、そこにあるのは無限に広がる空虚な空間。ぽっかり心に穴が開く。この感情の名を模索し、そして気付く。



ーー……寂しい、のか俺は。

ーー他人を傷付けたくなくて、自分から距離置いたってのによぉ。いい歳して幼稚なもんだ。

ーー……みさき。

ーー今すぐみさきに会いたい。



虚ろな頭にまず浮かんだ人物は産みの親でも友人でもなく、みさきというかけがえのない存在だった。家族の仲は悪くもないし、寧ろ仲が良い方だったと自負している。友人といえる者は指折り数える程度の少数であるが、皆こんな俺を受け入れてくれる良い奴らだ。不満などない。どちらが大切か天秤に掛けるのも気が引けるが、結局のところ行き着く心の拠り所はいつだってみさきなのだ。

必死に朧げな記憶を手繰り合わせ、ようやく今置かれている現状を認識し始める。霧が晴れるように鮮明になってゆく視界の中、感覚だけを頼りに手探りで出口を探す。これは夢の中なのだ。夢とは現実が辛くあればあるほど、見る者をその真底へと誘う。確かにここは居心地が良い。ムカつく奴もいなければ、暴力など皆無の平和そのものだ。しかし、ここにみさきはいない。どこにもいない。



ーーあぁ、なんて嫌な夢だ。



みさきの存在しない夢だと認知した今、どんなに居心地が良くともこの夢は俺にとっての悪夢でしかない。俺の望む世界には必ずみさきがいなくてはならないのだから。





「……ん……」



ゆっくりと重い瞼を開くと、まず軽い鈍痛が頭を襲う。目眩で目の前がチカチカするもどうにか上半身を無理矢理起こし、現状把握を試みた。そこでここが新羅のマンションなのだと思い出すと同時に、眠るまでに至る経緯が頭の中で蘇った。

俺に薬を投与したみさきの姿はもはや何処にも見当たらない。あれからもう何時間も経過したかのように思われる。姿形のないみさきの残像を追うように、俺は思うように動かない身体を無理矢理にでも奮い立たせ、僅かに痛む傷口を庇いつつ人の気配のする方へと向かった。気配は2つ。新羅と、それからみさきではないかと一瞬期待を抱くものの、すぐにそれが違うことに気付く。みさき特有の匂いが感じられないのだ。



「おい、俺のグラサンどこだ」



案の定そこにみさきはいない。新羅には言っておきたいことが山ほどあるが、ひとまず今はやめておこう。ここで時間を食ってしまっては間違いなく無駄というものだ。まずは自分のすべきことを優先しなければ。



「ていうかさ、静雄さぁ……君は撃たれて足と脇腹の筋肉の一部が激しく損傷してたわけだけど……。なんでもう普通に立って歩いてんの?」

「なんでって……立って歩けるからに決まってんだろがよ」

「し……静雄さん……どうして……ここに?」

「ん……?あー……」



新羅と、それからもう1つ感じていた気配の正体は見覚えのある眼鏡の少女だった。なんとなく覚えてはいるのだが、どうしても名前が出てこない。



「ヤベ、誰だっけ」

「ああ、彼ね、昨日銃で撃たれたんだってさ。足と脇腹に弾丸くらって、バランス崩してすっ転んでる間に撃った奴らに逃げられてんだよ、間抜けだよねぇ」

「……死ぬか?」

「心の底から御免なさい」



瞬時に土下座する新羅を尻目に、俺は眼鏡の少女の問いに答える。少女はおどおどとしていたものの、怖がっているようには見えなかった。結局名前まで思い出すことはできなかったが、きっとどこかで何らかの接点があったのだろう。

これからどうするのかと新羅に聞かれ、俺は即座にこう答える。昨夜俺を撃った連中と、それを命じた卑怯者ーー紀田正臣をぶっ殺す、と。本当は第一にみさきを追いたかったのだが、まずは厄介ごとを片付けなければならないと思ったのだ。しかし次の瞬間、予想外の出来事が起こる。少女が眼鏡の奥の瞳を大きく見開いたかと思えば、携帯を片手に突然部屋を飛び出したのだ。慌ててそれを追い掛ける新羅を見届け、1人ぽつんと取り残された部屋で立ち尽くす。どうやら事態は思っていたよりも大きく、俺やみさきのみならずたくさんの人間を巻き込んでいるらしい。黒幕の正体は言わずもがな、考えるよりも先に行動に移る。


ーーこんな時便利なのが……ネットの掲示板だよなぁ。

ーー適当なのを見てみるか。何か分かるかもしれねぇし。



慣れない手つきで携帯を操作し、ズラリと並んだ文字の羅列をひたすら目で追う。本当に知り得たい情報に行き着くまでに随分と自分の名前や噂話を目にしたが(例えば【速報!平和島静雄に年下の彼女】【平和島静雄の彼女がめちゃくちゃ美人な件について】)、



ーーつーか、なんでみさきのこと知ってる奴らがこんなにいるんだよ。

ーーまさかみさきに手ぇ出そうなんて思ってねぇよなぁ……?



携帯を握り壊してしまいそうになるのを直前で思い留まり、ひとまず深呼吸で気を落ち着かせると、書き込まれた信憑性あやふやな情報を頼りにとある場所へと足を向けた。

生命の危機ですら俺にとっては大した問題ではなく、銃で撃たれたからというのはただの後付けのようなもの。結局は単なる俺の嫉妬だ。みさきがあんなに必死になって庇うものだから、よほど仲が良いとみた。ただの男友達なのかもしれないし、俺が思っている以上に深い仲でもないのかもしれない。そんな可能性があるにも関わらず、俺は狂おしい程の感情を今も胸の内で渦巻かせていた。なんて嫉妬深い男だろう、と我ながら馬鹿みたいだと笑う。己の愚行を分かってはいるのだ。分かっていて、それでも俺は迷わず進む。その場で足踏みしていてはあっという間に違う輩にみさきが取られてしまうような気がしてーーそれが酷く、怖かった。



「……待ってろよ、みさき」



お前は何も心配しなくていい。
ただ、俺から離れなければいい。
みさきが恐れるものは全て、俺がこの手で壊してみせるからーー

迷う理由など何処にもない。俺にはみさきのためなら全てを捨てる覚悟がある。非情にだってなってみせよう。だから、どうかどうかーーみさきには俺を信じて欲しい。信じて、俺だけを見て、選んで欲しい。それだけが俺の唯一の願い。





「シズちゃん」



ピタリ、瞬時に足が止まる。俺の名を呼ぶその声に全神経が反応する。俺のことをそう呼ぶのはこの世にたった2人だけ。それは皮肉にも最も嫌う者と、最も愛する者だった。振り返らずともすぐに分かる、これは後者の方だ。だが、今彼女の顔を見てしまったら、俺は今からしようとしていることを簡単に丸投げにしてしまうだろう。紀田正臣だとかノミ蟲だとかそんなものはどうでもよくなって、頭の片隅に追いやるどころか綺麗さっぱり消えてなくなるのだ。



「どうして……だってまだ、1日しか……もう、動けるの?」

「おかげさまでな。ったく、変な薬盛りやがって。この落とし前はきっちり取ってもらうからな、覚悟しろ」

「……ごめん」

「いらねぇよ、謝罪なんざ。それよか俺はまだまだヤリ足りねぇんだけど?」



顔を正面に向けたまま、背後に立っているであろうみさきに向かって冗談のような台詞を投げ掛ける。良くも悪くもなんてタイミングなのだろう。いざ行かんと意を決して歩き出した矢先にこれだ。



「行かないで……ください。お願いします」

「なんだよ、急に改まってそんな口調」

「だって、私はシズちゃんに来て欲しくなかったから」

「とりあえず早くサングラス返せ。どうせみさきが持ってるんだろ?」

「!」

「分かったよ。信じてやる。犯人は紀田って野郎じゃねえんだな?」

「信じてくれるの!?」

「彼女が泣いてそう言うんだ。信じてやらないわけにはいかねぇだろ」

「……ありがとう。シズちゃんはいつだってこんな私を信じてくれるね」

みさきの声は震えていた。きっと小さな身体を更に小さくさせて、必死に嗚咽を漏らさぬよう堪えているのだろう。気付いたら俺はみさきを抱き締めていた。宥めるように肩をぽんぽんと軽く叩き、彼女が落ち着くのを待つ。がーーそれを待つよりも先に俺の身体が反射的にその身体を引き剥がした。突然の行動に自分自身意味が分からず戸惑う。どうして俺はみさきを突き放す?まるで、拒否反応のように。



「!!」



その原因を理解するまでにそう時間は掛からなかった。みさきの身体からは間違いなく、あの男の匂いがするのだ。それもほんの少しなんてものではない。まるで誤って 手を滑らせ付けすぎてしまった香水のようにその香力は凄まじく、嫌いな人物のものなだけあって嫌悪感を隠しきれない。

ただただ、不快だった。俺の眠っている間に一体何があったかは定かではないが、間違いなくアイツが絡んでいることくらいは分かる。頭で考えれば考えるほど感情が抑えきれず、みさきの両肩を掴む手がわなわなと震えた。みさきは俺と視線を合わせようとせず、かといって拒絶されたことに驚きもせず、その震える手を静かに見つめていた。こうなることが初めから分かっていたかのように。



「(……あぁ、まただ。この胸糞悪ぃ感じ)」



怒りに任せてしまいそうになるも、今ここで感情的になってしまったら間違いなく後で後悔する。また同じことの繰り返しではないか。

敢えて何も言わずにみさきの肩から手を離し、力なく下ろす。やっとの思いで絞り出した声は驚くほどに弱々しく、それを悟られまいと立て続けに言葉を続けた。



「それで、みさきの言う全ては終わったのかよ。俺が次に目覚める頃にはもう終わっているはずなんだろう?」

「……シズちゃん、起きるの早過ぎ。新羅さんは最低2日は目覚めないって言ってたもん」

「つーことは……まだ終わってないわけだ。なら、さっさと全部片付けちまおうぜ。そしたらみさきも解放されるんだろ?その責任感ってやつからさ」

「……」

「安心しろ、紀田は絶対に殴らねぇ。だから、これから俺のすることは個人的なもんだ。ひとまず拳銃で撃たれたってのは保留として……」



その時、携帯のバイブレーションが鳴り響く。それはダラーズ内で出回っているメールの受信を意味していた。その内容を確認するなり、俺はこれから向かうべき先へと視線を向ける。ここからそう遠くはない場所だ。



「まずは視線で殺されそうになった借り、きちんと返してやらねぇとなぁ?」

「……はい?」



さっぱり意味が分からないとでも言いたげに首を傾げるみさきに、俺はにやりと笑ってみせた。

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テーマ「人外ファンタジー」
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