>理不尽な世界で貴方と
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「何してんだよ、お前ら」



それは名も知らない女の手の平が振り上げられた、まさにその瞬間だった。瞬時にピタリと、私の頬まであと数ミリというところで動きが止まる。痛みを予感して反射的に閉じた瞼を恐る恐る見開いてみると、先程まで勝ち誇ったような表情を浮かべていた女の顔が恐怖のあまりに歪んでいた。

それも――私の顔を見て。



「あ……あんたは……」

「?」



いや、違う。この女は私のすぐ背後を見て言っているのだ。途端に背中に感じるひんやりとした感覚。悪い予感がする訳ではない、ただ、何かいる気配がする。



「俺が説教出来る立場でもねぇが……」



後ろを向く。余程すぐ近くにいるのだろう、視界には胸元に付けられた来神学園の校章しか映らない。そのままゆっくりと視線を上げてゆく。風に靡く綺麗な金髪、そして長身。もしかしたらと来神学園じゃあ有名な1人の問題児の名前が頭を過る。もっとも、私とその人物に接点はない。彼に纏わる噂も決していいものではないし、クラスも違うので無論関わりは皆無だ。

男――平和島静雄は私の顔をチラリと見た後、女の姿をその視界に捕らえた。睨むような鋭い目付きに、女の身体がビクリと跳ねる。



「下らねぇことしてんじゃねーよ。つーか、嫌でも会話が聞こえたんだけどよぉ……それ、本当にこいつに非があんのか?」

「ッ! あんたには関係無いでしょ!?」

「あぁ、確かに俺は関係ねぇ。少し前まではな。だけどあんたの金切り声で気持ち良く眠っていたところを起こされた身にもなれや」

「……!」

「まぁ、その、なんだ?とりあえず……失せろ」



その一言が最後の決め手だった。女は平和島静雄の気迫に圧され、私の方を一瞥すると身を翻して行ってしまった。ほんの少し目尻に涙を浮かべて。何だか私の方が悪いことをしてしまったようだと、彼女の逃げ去るような背中を見て思う。



「ッたく、人が気持ち良く寝てたってのによ……」

「! あ、あの!」

「ん?」

「ありがとう。助けてくれて」

「んな礼言われるほどのことはしてねぇよ。それよりあんた、その傷、大丈夫なのか?」

「え」



平和島静雄の指差した己の唇に指先で触れると、チクリと鋭い痛みが走った。痛みと同時に思い出す。そうだった、私あの女の平手打ちを1度食らっているんだっけ。思い当たりのない罪を擦り付けられたせいで。

ふぅ、と1つ溜め息を吐き平和島静雄が隣に腰掛ける。すぐ隣にあの問題児で有名な平和島静雄がいるというのに、不思議と恐怖は感じられなかった。寧ろ安心するのだ。私は釣られてその場に座ると、小さくチョコンと体育座りをした。ついさっき初めて会話を交わしたばかりなのに、彼の隣はどうしてこんなにも落ち着くのだろう。



「……好きな人を取られたって、私に」

「ふぅん」

「だけど私、全然身に覚えがなくて……知らないって答えたら、しらばっくれんなって言われて……」

「……」

「ほんと、どうしたらいいのか分かんないよね……」



あぁ、頭の中がぐるぐるする。私の知らないところで私を軸に話が勝手に進んでいる。そこに私の意思なんてものはない。そもそもあの女の『好きな人』って誰?全く身に覚えがないというのに、一体どう謝罪すればいいというのだ。私の何がどういけないというの?肝心のそれが分からないのだからどうしようもない。

一方的に愚痴を吐き出していたことに気付き、慌てて口を閉じる。何故か自然と気を許してしまっていたらしい。愚痴なんて、友達の前でも言わないように心掛けているのに。だけど不思議なことに、平和島静雄の纏う雰囲気はとても穏やかなものだった。いつも喧嘩している乱暴者だと聞いていたから、もっと厳つくて怖そうな人を想像してた。



「世の中には、」

「?」

「理不尽だって思うことがたくさんある。そりゃあ、人の数ほど考え方はあるもんだし、何が正しいかってのは俺にも断言出来ねぇ」



平和島静雄が空を仰ぎながら、ポツリポツリと妙に重みのある言葉を紡ぎゆく。



「けど、どちらが悪いにせよ、あの女はあんたに暴力を振るったんだろ?ならその時点であの女の負けだ」

「……負け?」

「ぶっちゃけ、怪我を負わせた側が第三者の目には悪い側に映るだろ?事情を聞く限りだと明らかにあんたが被害者だが、もしあんたが先に暴力を振るっていたら救いようがねぇからよ」



確かにその通りだな、と思った。ただ暴力を振るったという事実がある限り、潔癖を訴えるにはやや説得力に欠けるように感じる。例えば2人の子どもが喧嘩をしていて、片方の子どもが暴力を振るったことによってもう片方の子どもが泣いてしまったとする。そこに私が第三者として介入すれば、やはり暴力を振るった方の子どもを叱るだろう。

純粋に彼の言葉に感心してしまい、平和島静雄の横顔をじっと見つめる。その視線に気付いた彼はチラリと此方を見やるが、やがて照れ臭そうにプイと顔を背けてしまった。その反応にほんの少しショックを受けつつ、何とも言えないこの感情をどう整理すべきか頭を捻る。今はあの女のことやさっきまで悩んでいたことよりも平和島静雄という男に興味が湧いてきたのだ。



「ねぇ、いつもここで寝ているの?」

「ッ、……まぁな。ここぐらいだからよ、こうして1人でゆっくりできるの」



そういえば、平和島静雄はいつだって喧嘩をしているという印象が根強い。だからこそこんな所で寝ていたという事実にはほんの少し驚愕したのだが、ゴロンと寝そべり空を眺める彼の横顔は幸せそうだった。私が聞いていた平和島静雄とは違う、きっと今の彼が本来の姿なのだろう。今まで私はただ噂だけで彼の人柄を決めつけていたのかもしれない。そう思うと、何だか無性に申し訳なく感じた。



「ほら、来いよ」

「え?」

「寝てれば嫌なこと、忘れられっから」

「……」


そんなに簡単なものだろうか、そう思ったが結局は口にせず、私は彼の言葉に従った。思えば今日はお昼寝日和だ、そよそよと程好い風が気持ちいい。清々しい想いとは違う、ドキドキと不意に高鳴る鼓動。あの女に呼び出された時点で最悪な1日になる予定が変更。

今日は私にとって、忘れられない1日になりそうだ。



♂♀



「ねぇ、なまえ。聞いた?今日も平和島静雄が裏庭で他校の不良相手に暴れてたって」



そんな話を、情報通の友達の口から耳にしたのは、皆でお弁当をつっついている最中の、いつもののどかな昼時だった。そんな平和島静雄に纏わる物騒な話は、毎日絶えることなく学校中で語られる。あれ以来、私は平和島静雄と顔を合わせていない。勿論すれ違うことすら。それが私にとっての日常だった。

しかし、あれから思うものがあった。平和島静雄が喧嘩をしたという話を聞く度に、怪我はしていないだろうかと、無意識のうちに彼の身を案じている自分に気付く。言わずとも、いつだって喧嘩の勝敗は決まりきっていた。だから私は心の何処かで安心しきっていたのかもしれない。あの人が喧嘩に負ける筈がないと、しかし、今日はいつもに増して深刻なものだった。



「そうそう、平和島静雄を倒すためにかなりの大人数集めたらしくてさ、私も校門でチラリと見たけど怖くなって逃げてきちゃった」

「あの人数は、流石に平和島静雄でもヤバいよねぇ」



後にこの話題は一転し、結果平和島静雄の勝利に終わる。しかし喧嘩の巻きぞいを食らってしまった来神の生徒が数人おり、しかも相手の不良たちもかなりの大怪我を負ったらしい。喧嘩を吹っ掛けたのは相手の方だというのに、怪我を負わせたからと言って平和島静雄が悪く見られてしまう。



「怖いよね、平和島静雄」

「迂闊に近付けないよね」



怖い、平和島静雄に近付いてはいけない、その繰り返し。そんな周りからの批判の声を耳にしながら、私はふと自分の認識の誤りに気付いていた。そしてその間違いに気付くことが出来たからこそ、私は行かなくてはならないのだ。平和島静雄と初めて出逢った――空の見える"あの場所"へ。

そこに彼はいた。身体中に痛々しい傷跡を残し、やはり空を眺めていた。至って無防備な姿で。私が何も言わずに隣に座るが、平和島静雄は動じない。チラリとも此方を見ずに、しかしはっきりと私に向けて自虐的な言葉を投げ掛けてきた。



「この間あんたに話したこと、俺だって常に考えているんだ。暴力で解決するなんざ格好悪ぃし、だからこそ相手の挑発に乗っちゃいけねぇのに、ついカッとなっちまう。……どんなにムカついた野郎でも、やっぱし罪悪感湧くよなあ、俺が大怪我させたとなると」

「……」

「だから、俺は暴力が嫌いだ」



はっきりと、それでいて何処か自分に言い聞かせるかのように。いつも喧嘩ばかりしている彼だけど、今の言葉は事実なのだと思う。



「あんたはいいのか?俺なんかの近くにいたら、怪我するかもしれねぇぞ」

「……大丈夫だよ」

「大丈夫って、」



随分と頼りねぇな、と彼が笑う。彼は言っていた。いかなる場合も、怪我を負わせた側が第三者の目には悪い側に映ってしまうと。これは自分自身のことを言っていたんだ、だから世の中は理不尽なのだと。だけど私は本当の平和島静雄を知っている。きっと今回の喧嘩だって、暴力を使わぬよう必死に耐えたのだろう。

だって、仮に平和島静雄が初めから本気を出していたらこんなに怪我を負ったりはしない。ほぼ無傷の状態で相手を捩じ伏せられる。



「理不尽だね」

「……」



今、彼を守ってあげられるのは私だけ。なら助けてあげなくては、彼にそうしてもらったように。例え、他に味方がいなかったとしても。



「絆創膏、使う?」

「?」

「ほら、ここ怪我してる」



恐らく、刃物のようなもので切りつけられたのだろう。切り口からじんわりと滲み出る赤い血があまりにも痛々しくて、私は絆創膏を貼ってやった。頬より少し下の方、ペタリと貼られた絆創膏に指先で触れる。平和島静雄は暫くきょとんとしていたが、ほんのりと頬を赤く染めた。照れているのだろうか、そんな初々しい反応が可愛い。

本当の貴方は、誰よりも暴力を嫌う優しい人。そしてこの理不尽な世界で誰よりも辛い思いをし続けてきたのであろう。だからこそ私は、せめてこの先の心の支えになりたい。少しでも彼の背負うものを軽くしてやれますようにと、彼の寂しげな顔を見て強く願った。



「知ってるよ、平和島くんが優しい人だってこと」



だって、私のことを助けてくれたじゃない。



「……いーよ、下で」

「?」

「俺の名前。静雄」


そう言うと彼は、ほんの少し笑ったような気がした。



「あんたの名前、苗字なまえだろ?」

第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -