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※今宵の立入禁止区域の続き
一夜明け、酷く寝不足の男がいた。彼は普段から隙あらば何処ででも眠ることが出来たが、脳裏に染み付いて離れない彼女の存在がどうしようもなく気掛かりであったが故、この日十分な睡眠を摂ることが出来なかった。最も寝起きが悪いと皆に言われた彼が今朝は誰よりも早く目覚め、身支度を整え、誰も手にしていない真っ新な朝刊を目の前に広げている。しかし記事に目を通しても内容が全く頭に入って来ない上に、そもそも新聞の上下向きが逆だと部下に指摘されてしまう始末。目の下のクマを色付きサングラスで隠した彼ーー赤林は、まるで何事もなかったかのように「おいちゃんも歳かな」と笑ってみせた。もっとも、心境は全く笑えぬほどに穏やかではなかったが。
目だけを動かし2人の姿がないことを確認すると、赤林はドア付近に待機していた部下の1人へと声を掛ける。
「そんで、四木の旦那は?」
「四木さんですか?今日はまだ見てませんけど……そういえば珍しいっすよね。あの人がまだ寝ているなんてこと、あるんすかね?」
「……」
なまえの存在を知る者は四木と自分ただ2人だけ。ここで彼女のことを知れる術はないと悟った赤林は、考えるよりも先にまず行動へと移った。
ーーあーあ、こりゃ参った。まさか四木の旦那があんなことを言うなんてなぁ。
ーーやっぱりあの時何としてでも阻止すべきだったかもしれないねぇ。
コツコツ。杖を鳴らし、向かう先は知る人ぞ知る四木のプライベートルーム。その部屋の存在を知る者は幹部以上の者の中でもほんの一握りである。
彼は少しばかり緊張していた。いざ2人が共にいるであろう部屋のドアを目の前にし、どういう訳か身体も強張る。心なしか引き攣った口端を隠すように赤林は口元を片手で覆うと、鼻から吸った息を口から一気に吐き出した。何てことだろう。かつて赤鬼と恐れられたこの俺が、1人の女相手にこうも心を掻き乱されていようとは。きっと当時のーー自分が粟楠会に入る前の同僚たちに笑われてしまうことだろう。今やその同僚たちが人を笑えるような立場ではなく、その上消息さえ不明であることはこの際置いておく。
「おはようさんっと」
出来るだけいつもの調子で、声が上擦らないように。赤林はまるで何とも思っていないような表情でついに部屋のドアを開けた。しれっとしたその表情はすぐさま崩れることとなるのだがーーまず彼の視界に飛び込んできたものは、自分が非情だとよく知る強面の男が安らかな眠りに就いている異様な光景。そのすぐ隣ではなまえが身体を小さく丸め、同じように眠っている。赤林は暫し考え込んだ後、無理に起こすことを留まった。
ーーいやぁ、四木の旦那も眠るんでねぇ。
ーーもしかしたら初めてかもしれねぇなあ。この人の寝顔を見るのは。
「まったく、すぐに起こしてくれればよかったものの」
「そりゃあ、あんだけぐっすりと眠っているところを叩き起こすのは酷な話でしょう?そうしたところであんたが不機嫌になるってのは目に見えてますよ」
「……」
気配に敏感な四木だからこそすぐに目覚めただけの話であって、赤林が入室した際に物音は1つも立っていない。その証拠になまえは未だぐっすりと眠っている。気付かれて何も疚しいことなどなく、むしろ寝ていたら起こすつもりで来たのだから物音に気を使う必要もなかったが、無意識のうちに忍び足をしてしまうのは裏の世界に身を置く者たちの1つの癖なのかもしれない。
自分の想像を遥かに上回る意外な光景を目の当たりにし、それでも赤林はご機嫌であった。赤林が部屋に入って来たことに四木が気付くその瞬間まで、彼は彼女の可愛らしい寝顔をたっぷりと堪能できたのだから。
「……で、まさか手ぇ出したりなんかしてませんよねぇ?」
「やはり気になるのはそこですか」
「当たり前じゃあないですか。まさか2人同じベッドで眠っているだなんて想像もしなかったけどねぇ……分かってるんでしょう?四木の旦那。おいちゃん……いや、”俺”がなまえを本気で狙っていることくらい」
「本性剥き出しだな。その顔のままでいてみろ。きっと怖がられる」
「はは、そりゃあいかんねぇ。この子にはそんな目で見られたくないってもんだ」
「かつてのあんたを思い出す。『赤鬼』と呼ばれたあの頃の……、な。まるで獲物を狙う目だ」
「よしてくださいよ、ンな昔のあだ名。鬼、だなんて。今はただの……赤林ですよ」
表面上穏やかでも、その水面下ではピリピリとした空気が漂っている。そんなことをつゆ知らず、なまえは長い夢を見ていた。それは断片的な彼女の日常。その中に強面な男たちの姿などない。ましてや人々に恐れられた赤鬼の存在など、彼女は知る由もなかった。
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1時間後
なまえが自然と目を覚ました頃には四木もとっくに身支度を整えており、スーツを身に纏ったその姿は只者ならぬ雰囲気を醸し出している。今しがた夢で見ていた日常がまた一段と遠退いてゆくようで、なまえは一瞬眩暈を感じた。彼らに対しての拒絶反応は幾分か和らいだものの、また異なった違和感が彼らの間に漂っていることに気付く。その矛先は自分ではなく、まるで彼らがを互いに相手の動向を見張り合っているようにも思えた。
「あの……私が寝ている間に何かありました?」
「いんや、何も。ねぇ?四木の旦那」
「……」
とはいえその言葉すら疑わしい。「そうですか」と返したはもののすぐに次の言葉に詰まってしまう。一体どうしたらいいのか戸惑っていると、赤林のやけに陽気な声が突然高らかに響き渡った。何処かむすっとした四木とは対照的に、その表情は胡散臭いくらいに和かである。
「それじゃあ、今日はおいちゃんたちとお出かけといこうか。なまえちゃん」
「お出かけ……ですか?」
このタイミングで外出を許可するなど考えが甘いと思われたが、外に出られるという確かな情報に僅かな可能性を見出そうと慎重に探りを入れる。
「とりあえず貴女はこれに着替えてください。場に相応しい格好をしなくては」
ーー場に相応しい格好、って……
ーーこれ、明らかにドレスだよね……?
四木に手渡されたそれはまぶゆいほどにきらびやかな赤いドレスだった。丈は膝より少し下くらいで肌触りだけでも素材の良さを感じられたが、ドレスとはいえ結婚式で新婦が身に纏う類ではなく、どちらかと言うと招待された側が二次会で着用するようなものだ。それにしたって普段着として着るには派手過ぎるし、胸元に施されたスパンコールはあまりに眩し過ぎる。これを着てただ近場に出かけるだけとは到底考え難い。少なくとも行き先がコンビニやファミレスでないことだけは明白だった。(その後「おいちゃんはこっちのが好みなんだけどねぇ」と赤林が取り出した紫のドレスはチャイナドレスのように腿の露出があまりに激しく、丁重にお断りさせて頂いた。)
なまえは暫し考える。今すべき最も利口な判断は一体何なのかを。選択肢は少なくとも5つほど頭にぽんと浮かんだが、その中からどれを選ぶべきかは身の安全を考慮するならば時間を掛けずともすぐに選び抜くことができた。
「分かりました。これに着替えればいいんですね」
「おや、物分りが良いですね。そういう素直な姿勢は嫌いじゃない」
「別に……ただ、逆らったところで貴方たちにこちらの言い分が通用するとは思えなくなっただけです」
「賢明な判断だと思いますよ。貴女は我々に従うべきだ」
「……」
「おっと、気を悪くしないで頂きたい。これは貴女のことを考えてのことなのですよ?それとも、手っ取り早く上に貴女の身柄を差し出してしまった方が……」
「! いっ、嫌!!」
「ははっ、でしょうなぁ。得体の知れない輩の元へ行くことなど自殺行為に等しい。……いや、我々も得体の知れない輩のうちの1人になるのでしょうかね」
考えの読めない言動に翻弄され、なまえは自分の行く先一面が深い霧に包まれていると錯覚する。事実、今の状況はそれに限りなく近い。一寸先ですら何が待ち構えているのか、道はあるのかーー彼女の目には何も映らないのだ。崖の先ギリギリへと追い詰められ、足元では崩れた無数の瓦礫がガラガラと落ちてゆく音がする。その足を掬うように彼らは彼女へと近付く。言わずとも各々が同じ目的を持って。
ほどなくして連れて来られた先は、まさに大人が好みそうな洒落た小さなバーだった。壁一面には様々な銘柄のワインが飾られており、酒に詳しくない者が見ても思わず「すごい」と言葉を漏らしてしまうほどの圧巻の光景である。マスターだと思われる髭の男に案内されたのは小さな個室。まるで外部からの目に映らぬよう、薄暗い店の奥にその部屋はひっそりと存在した。赤林曰く、ここは彼の行きつけの店なのだそう。きっと漏れてはならないような情報の交換、または裏世界での取引を行う際に利用しているのだろうとすぐに察した。
「さぁ、なまえちゃんは何を飲む?」
「あの……アルコールはちょっと……」
「そうかい。ならジュースでも烏龍茶でも何でも頼むといい」
促されるがまま烏龍茶を注文し、これから起こりうるであろうあらゆる事態を想定し警戒する。一瞬の隙を突かれぬよう注意を怠ってはならない。そう自分に言い聞かせ、気を張っているばかりでは精神的疲労が募る一方。異常に渇いた喉が水分を欲し、なまえは目の前のグラスに注がれた水を一気に喉の奥へと流し込んだ。水は確かに食道を通り、身体全体へと染み渡ってゆく。それなのに喉が潤うことはなく、寧ろじんわりと暑くーー熱くーー……?
「マスター、注文した酒はまだかい?」
「何を言ってるんですか赤林さん。初めに持って来たでしょう」
そんな会話が断片的に脳へと入ってくるが、後に強烈な酔いによって記憶として残ることなく消え去ってしまう。それからの彼らの会話は何1つ覚えていない。ただ、自分の名前を呼ぶ男たちの声が遠くの方で響き渡っていたーーそんな気がする。
それから感覚的には30分ほど、彼女は今朝の夢の続きを見ていた。現実と夢とでは時間の経過に差があり、実際には10分ほどしか経っていない。長いようで短い間、日常にあり溢れた光景の中、まるで傍観者にでもなったかのような感覚でなまえは池袋の街をふらり歩いていた。いつだって賑わっているサンシャイン60階通り、大きなスクリーンが設置されたゲームセンターの横を通り、その少し歩いた先にあるのはサンシャインシティへと降るエスカレーター。普段友人と利用する数々のショップや工夫を凝らした水族館で有名なそこは、夢の中でもはや別次元へと変わり果てていた。気付けば辺りには誰もいない。ただエスカレーターだけは作動しており、下を覗き込むと視線の先には一面闇が広がっている。しかしなまえはただ「暗いなぁ」としか思わず、覚束ない足取りのまま片足をそろりと一段下ろした。
ーーどうしてこんなに暗いのだろう。
ーーもう見慣れたはずの景色なのに、暗いというだけで全く別の場所に思えるなぁ。
ーーもしこの先に何もなかったとしても、また上りのエスカレーターで登ればいい。
そう思ったなまえがふいにすぐ隣へと視線を移すとーー本来上りのエスカレーターがあるはずのその場所には何も存在していなかった。エスカレーターで向かう先同様、もともと何もなかったかのようにぽっかりと穴が空いている。恐る恐る手を伸ばしてみると指先にはひんやりとした感覚しか残らず、その下にも一面の闇が広がっておりーー
「!!!」
なまえはハッと我に帰ると、すぐさまその場で立ち上がった。赤林と四木が何か言葉を発するよりも早く、店の出口へと一目散に駆け寄る。あの夢は暗示だったのだ。1度足を踏み入れては現実へと帰れない、戻れない。ならば今からでも遅くはない。エスカレーターを逆走しなくては。
「はい、ストップ」
「!」
「突然どうしちゃったのかな。すぐに目を覚ましたかと思えば、急に逃げ出そうとするなんて」
「嫌……ッ、離して!話してください!」
「いいから落ち着いて……ね?この扉の先には一般客もいることだし、言う通りにしてくれないと……おいちゃん、少し乱暴なことをしなくちゃあならない。なまえちゃんだって痛いのは嫌だろう?」
「……」
決死の逃走は呆気なく失敗へと終わり、彼女に残された道はただ1つ彼らに従うことだけだった。こうなることは分かっていたが、頭で考えるよりも先に身体が動いた。危険を察知した人間の反射的な行動だったに違いない。
「貴方たちは私を殺すの?」
「殺す?何を物騒な……仮にそうだとして、一晩共に過ごした私がいつだって貴女を殺せたでしょう。寝ている間に首を絞めることだってできた」
「あれは……確かに、油断してた……かもしれない……けど、もう何を信じればいいのか……」
「だから言っただろう?おいちゃんは欲しいのさ、なまえちゃんが」
「!」
「……ほぅ、いつの間にそんなことを」
「悪いねぇ、勝手に口説いちゃって。まぁ、おあいこでしょう。四木の旦那だって一晩中彼女を独占したのだから」
「……」
「あぁ、それともなまえちゃんは言葉の意味を履き違えているのかい?例えば自分のものにしたいから殺す……みたいな、そんなの。だとしたらとんだ勘違いさ。おいちゃんにはそんな今時のよく分からん若者みたいな思考はないから、さ。勿体無いよねぇ、殺すだなんて。世の中には変に拗らせた輩が多いんだよねぇ。いやぁ、怖い怖い」
「……ともかく、我々に貴女を殺したところで何のメリットもない。それだけは安心してください。命の保証はしましょう」
違う、そうではない。彼女が本当に恐れているのは殺されるか否ではなかった。彼らと関わり、感化され、以前までの自分に戻れないことをなまえは最も恐れていた。上りのエスカレーターがなかったように、1度堕ちてしまえば這い上がることはもう出来ない。その時自分はどうなってしまうのだろう、と。彼女はその末路に不安を感じていた。