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※Welcome to the irrational world!の続編
「さて、お茶会もようやくお開きだ」
イカれうさぎは笑いながらそう言うと、おもむろに割れたカップを手に取り地面へと放り投げました。ガシャンと陶器の割れる大きな音に目も暮れず、1人と1匹はその場を後にしようとします。このままでは何の手掛かりもありません。アリスは彼らの背中に向かって慌てて声を掛けます。
「ッおい!お茶会って、白うさぎの言ってたお茶会の事か!?」
「ほぉ、白うさぎがそんな事を?」
「あぁ。俺を連れて行かなきゃいけないって言ってた」
「それならきっと、ハートの女王主催の正式なお茶会のことさ。それに、おいちゃん達だって好きでお茶会をしていた訳じゃあない」
「?」
「ほら、言っただろう?おいちゃん達はアリスがいない限り、白うさぎに干渉出来ないんだって。アリスがこの世界にいない間白うさぎにちょっかい出せないように、おいちゃん達は永遠に狂ったお茶会を義務付けられていたのさ。これでようやく、大して好きでもないクソ甘い紅茶菓子ともおさらばって訳だ」
そんなシッチャカメッチャカな世界の掟に、アリスは首を傾げて考えました。一体誰がこんなルールを考え出したのでしょう。勿論そんな事をアリスが知る由もなく、考えても考えてもキリがありません。これ以上話しても無駄だと判断したアリスは、薔薇園を抜けた先にそびえ立つ城へと向かって歩き出しました。イカれうさぎの言っていた『ハートの女王』の事が気になったのです。この国の支配者であるハートの女王様なら、きっとアリスの知りたい事も知っているはず……そんな期待を胸に、アリスは白うさぎを探します。
美しい装飾品で飾られた城の門、権力者が住まうに相応しい広いホール――どうもこういう場所は落ち着かない。キョロキョロと辺りを見渡していると、螺旋階段を何者かがゆっくりと降りてくる足音。反射的にそちらを振り向くと、その人物は俺の顔を見るなり穏やかな表情でこう言った。とても懐かしい声で。
「おかえりアリス」
「かっ……幽!!?」
「随分と戻るのが遅かったね」
「おま、だってさっきイカれうさぎが"女"王様って……!」
「うん。立ち位置的には合ってるんじゃないかな」
色々と聞きたい事をぐっと堪え、向き直る。この不思議だらけの夢の世界で、細かい事をいちいち気にしていたらキリがないのだと改めて思う。幽の頭には権力者の証である小さな王冠がちょこんと載っており、ハートのエンブレムの施された洒落た服に身を包んでいた。まるでおとぎ話に出てくる王子のようだ。まじまじと見つめてくる俺がそんなに可笑しかったのか、幽は口元に手を添え静かに微笑む。こうも分かりやすく感情を表に出すのは、幽にしてはとても珍しい事だ。
これまで随分とたくさんの人物に遭遇してきたが、皆共通して白うさぎを狙っていた。幽に限ってそんな事はないだろうと思うが、念のために聞いておいた方がいいかもしれない。実の弟に会った事で緩みかかった気を引き締め、1番聞きたかった問いを投げ掛ける。
「なぁ、もしかして幽も白うさぎを探してるのか?」
「うん」
「……」
やはり幽もこの世界の住民である以上、例外なく白うさぎを探しているらしい。幽だけは違うと兄貴面して庇いたい気持ちが大きかった分、やけにはっきりとした口調で返された肯定の意が今の俺に酷だった。幽が俺を「兄さん」でなく「アリス」と呼ぶのも、それはここが夢の国であって現実の世界ではないが故。アリスとハートの女王に当然血の繋がりはないのだから。
「けど、俺は彼女が可哀想だと思う」
どうやら話には続きがあるらしい。幽は更に続ける。
「この世界で最も最上級の愛し方を、アリスは知ってる?」
「……いや」
「大好きで、愛しくて、ずっと一緒にいたくて……それならばいっそ、1つになってしまえばいい。誰かが初めにそう言ったんだ。それからかな、この世界の住人は『食べること』を最大級の愛情表現だと思うようになったんだ」
「……」
「白うさぎはみんなに愛されてる。それはとても幸せな事だと思う。だけど、それ故に食べられなくてはならない」
酷い話だ。何処か客観的にそう思った。まるで誰も知らない遠い国のおとぎ話を聞いているようで、一向に現実味が沸いてこない。それでも共感はできる。俺は白うさぎだとか不思議の国以前になまえの事が大好きで、だからこそ「ずっと一緒にいれたなら」と願う住人たちの気持ちが分からなくもないのだ。
俺は誰よりも先に白うさぎを見つけ出さなくてはならない。他の誰かに愛されるくらいならいっそ、そうなってしまう前に俺が白うさぎを――そこでハッと我に帰る。俺は今、何を考えていた?この世界に存在する愛の定理は何処までも歪んでいて、そして美しい。そんな世界に長く身を置いているせいか、俺まで感化されてしまったのだろうか。
「そんなの……駄目だ。やっぱり間違ってる」
「俺もそう思うよ」
「じゃあ、どうして幽は白うさぎを探してるんだ?」
「……確かめたいんだと思う。食べてしまうこと以外に、きっと別の愛し方は存在するよ。だって、食べることはとても悲しいことだから。確かに自分以外の誰にも愛される心配はなくなるし、ずっと一緒にいられるだろうね。だけど……その時にはもう、白うさぎはいない。自分の中で、永遠に眠り続ける」
「そりゃあ……食うって、そういうことだよな」
「でも、きっと見つけられるよ。俺たちには決められた世界の枠があるけれど、他の世界からやって来たアリスになら、ね」
「! 幽、お前……」
幽は何も答えない。代わりにゆっくりと俺の背後を指差す。指差された方向に目をやると、そこには城に足を踏み入れた時にはなかったはずの古びた小さな扉があった。全長およそ170センチもないが、屈めば何とか通れるだろう。ドアノブに手をやり、もう1度だけ振り返る。金属製のそれはひんやりと冷たかった。
もしかすると幽には全て筒抜けなのかもしれない。俺がなまえを好きな事や、一瞬頭を過ったどす黒い考えなんかも。そういえば幽にだけは、昔からどんな嘘も通用しなかったっけ。幽曰く「兄さんは嘘が下手なんだ」らしいけれど。現実ではなかなか会えない弟の姿に安堵感を抱きつつ、俺は一言お礼だけ告げるとドアノブをゆっくりと回した。
「サンキューな、幽。……いや、この世界ではハートの王って肩書きだっけか」
「水臭いよ、兄さん」
「……え」
――今、あいつ俺のこと「兄さん」って……
――……気のせい、か?
♂♀
どうして白うさぎが好きなのかって?だって、可愛いじゃない。大きな耳に大きな瞳、真っ白でふわふわな丸い尻尾はまるで空に浮かぶ雲のよう。そして極めつけは――俺を呼ぶあの可愛らしい声。俺ら猫が得意とする猫なで声とは違う。うさぎは鳴かないと聞くけれど、果たしてそれはどうだろう?俺は彼女の鳴き声を聞いてみたい。あの声で鳴くなまえを想像するだけで興奮は高ぶるばかり。穢れなき純粋で真っ白な君はどうせ知らないだろうけれど、猫は自分の利益の為ならばどんな嘘も吐けるのさ。
「本当にシズちゃんがここにいるんですか?」
「うーん、もう少し奥にいる気がするんだけどなあ」
猫は導く者。だけど、必ずしもそれが正しい道とは限らない。それを信じるか信じないかは君次第。
「でも、結構奥まで歩いて来ましたよね……?」
「そうだねえ。この辺りはいくらなまえちゃんでも来た事ないんじゃない?」
「森の奥は危険だよって、セルティさんから聞きましたから」
「セルティ?あぁ、公爵夫人の事か。……うん、確かに危険だね。例えなまえちゃんが泣こうが喚こうが、だぁれも助けになんか来てくれないだろうしねえ」
「え……っ?」
「あはは、やだなあ。例えばの話だよ」
冗談冗談と言って笑ってみせると、それだけで安心してしまったのかふにゃりと微笑むなまえ。その笑顔が可愛くて可愛くて――あぁ、その笑顔が次第に歪んでゆく様はさぞかし綺麗なのだろう。期待に胸を膨らませながら、俺は得意とする猫なで声で彼女の隙に入り込んでいった。自慢できる事でもないが、俺は嘘が得意だ。そうでもなければチェシャ猫は務まらない。
あぁ、今すぐにでも食べてしまいたい。だけど今食べてしまうのは勿体無い。
「? チェシャ猫さん?」
「どうしたんだい、白うさぎ」
「どうしてそんなに楽しそうなんですか?」
「猫は笑う生き物だからさ」
2匹は森の奥地へと足を踏み入れます。何処までも何処までも、果てのない森の奥深くまで。例え帰って来れないと知っていても、チェシャ猫は白うさぎさえいれば十分でした。チェシャ猫にとってこの世界は閉鎖的な箱庭も同然。その中でゆっくりと腐っていくくらいなら、刺激を求め、新たなる世界を築き上げたいと強く願ったのです。
この世界は、別の世界の何者かが構築した創り物の世界。頭のいいチェシャ猫は自らが創造物であるにも関わらず、薄々とその事に気付いていました。ならば一体誰がどんな結末を望み、この夢の世界を創り出したというのでしょう。敷かれたレールに従う事を何よりも嫌うチェシャ猫は、白うさぎを連れ出して更なる奥地を目指しました。そして決して邪魔の入らないような場所で、思う存分愛しの白うさぎを愛するために。