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なんとなく、気まずい空気が漂う。別に悪いことをしたわけでもないし、事前に相手の許可も取った。欲に駆られ、したいからした、なんて身勝手な理由でもない。断じてない。それでも、散々濃厚な口づけを立て続けに交わした直後というのはさすがに緊張するし、どんな顔をすればいいのかわからず、なにより身体の中心が熱を帯びているかのようなこの感覚には気付きたくもなかったわけで。心の中でまじかよ、なんて思いながら、彼の心情は決して穏やかではなかった。



「......」

「......」

「おいこら黙るな。なにか言えっての」

「え......えっと、その......く、唇が、痺れちゃって......」

「......そうかよ」



濡れた唇に指先で触れ、カァッと頬を赤く染めながら顔を逸らす。その一連の動作をすぐ間近で見つめながら、なんだこれ誘ってんのか、とありもしない考えまでもが浮上してきた。なまえにその気がないのはわかる。わかるのだが、無自覚だからこそそれはそれでタチが悪い。



「気分はどうだ?」

「......かなりよくはなりました。重くのしかかっていたものが、まるでスッと消えたかのような......」

「あれだけの霊を寄せ付けてたんだ。よくもったよ、お前さんも」

「それはそうと、本当にエクボさんはなんともないんですか?私の負担がエクボさんにそのまま転移しただけなんじゃあ」

「心配には及ばねぇよ。味は良くねぇが、なにしろ量が多い。あれだけ食えば俺様もさすがに腹ぁいっぱいだ」



とはいえ、当然人間の男の腹の足しになるわけではなく、摂取した霊たちはエクボの霊体そのものの霊力の足しとなって吸収される。生身の人間が霊を食べるだなんて、それはただの狂気の沙汰。だから実際に男の腹が膨れたわけではなかったし、エクボ自身も満たされたという感覚はなかったが、それでも今はなまえを安心させようと、精一杯の軽口を叩く。



「やっぱり不味いんですね......確かに消化に悪そう。胃腸薬でも飲みますか」



なんだそれ、笑える。胃腸薬っつー発想がなんとも、個人的にツボ。エクボが思わず吹き出すと、なまえはしばらくぽかんとしていたが、やがてつられてクスクスと笑い出す。ふたり分の笑い声が狭い部屋の中で響き渡り、ぴんと張りつめた緊張の糸が一気に緩んでゆく。まるで先ほどまでの緊迫した状況が嘘であったかのように、柔らかな雰囲気に包まれた。

霊体が熱を感じることはないし、借り物の身体を通じて伝わってくるなまえの体温が本当に温かいのかどうかは、実のところエクボにはわからない。命なんてものはもうとっくの昔になくなってしまったが、それでも「気持ち」というものは確かにここに存在し、彼女との時間が優しく、そしてあたたかいと思うことも決して嘘ではなかった。だから、願わくばなまえの体温を直に感じたいと思ってしまうあたり、今は肉体というものが心底恋しくて仕方がないのだろう。



「(あぁ、そうか。こいつは、)」



彼は、未だに生きているつもりでこの世に留まっている。だが、どれだけ本人がその気でいても、生者との隔たりは否めず、その隙間が埋まることはこの先もうない。何十年何百年も前に死んでからというものの、忘れていた感情の数々ーーそれらが今となってから一気に溢れ出てきて、彼はようやく理解する。



「俺様、お前さんに惚れたらしい」

「......はい?」



突然のエクボのひとことに、なまえは思わずすっとんきょうな声をあげた。それもそのはず、このタイミングで口にするような台詞ではない。だが、彼は決して血迷っているわけでも、彼女をからかっているわけでもなく、それは本心からくる言葉そのもの。彼は確かに悪霊で、今までに幾度も人間たちを悪い方へと誘ってきたが、己の気持ちに嘘をつくようなことは決して口にしてこなかった。



「え、あの、ちょっと待ってくださいエクボさん。今、なんて?」

「んあ?なにって......愛の告白ってやつ?」

「どうして疑問形なんですか。私の方が聞きたいくらいですよ」

「実のところ、自分でもよくわかんねぇんだわ。なんせ久方ぶりなんでな。こういう感覚は」

「感覚?」

「なんつーか......こう、あーなんかメチャクチャにしてやりてぇなって感じ」

「なんですかそれ怖いんですけど」



他者に呼応する感情で世界を知る。生身の人間に憑依する度に思い出す「生きている」という感覚。鳴り響く心臓の音を聞いて、こんなにもうるさいものだっただろうかと思い返すが、所詮すべて錯覚だ。今までのエクボにとって、見える世界は他者に呼応する感情と錯覚でできていた。今、憑依しているこの男がなまえに対して、好意を寄せていることは確かだった。少なからず影響もあるだろうが、だからといってこの気持ちが偽物とは思えない。これは自分の意思なのだ。

この時、エクボは確信する。他者の心臓を通じて、すでになくしてしまった自身の心臓が鳴り響いていることを。この音は間違いなく、自分のものだと。



「ま、そういうわけでよろしくな」



そう言ってエクボがリップ音を立てながら目元に軽くキスをすると、言い知れぬ羞恥の情に駆られたのか、途端になまえの顔がぼぼっ、と真っ赤に染まり上がった。その様がまるで茹でダコのようだと茶化しながら、それすらをも愛おしい。



「なんだよ、随分と可愛らしい反応してくれるじゃねぇか。つい、いじめたくなっちまう」

「!?」



恋......そうか、これが恋か!もう何十年ぶりのことか!性欲を持たないはずの霊が生者相手に恋だなんて、誰が想像できただろう!エクボは心踊らせながら、久方ぶりの胸の躍動感を心の底から楽しんだ。そうとわかれば、やれるところまでやってやる。一度それを自覚してしまうと、まるで全身に力がみなぎってくるようで、妙にすがすがしい。人間にせよ悪霊にせよ、欲望は生きていく上での活力となる。なんにせよ、目標があるのはいいことだ。よし、やってやるぞ俺様は。



「俺様、今夜ここに泊まってくわ」

「え、えええ!?」

「なに驚いてんだよ、安心しな。俺様は紳士なんだ。まだ手は出さねぇよ。除霊したはいいが、万が一食い残しでもあったら色々と厄介だろ?もしかしたらまだ何か潜んでるかもしんねぇし、一応な」

「それは......えぇ、まぁそうですけど」



美しい見た目に反して、どうやらなまえは大人の恋愛を知らないらしい。ならば、教えてやるまでだ。上級悪霊であるこの俺様が、なまえに、直々に恋を!



「なまえ。戸惑うのも無理はねぇ。俺様だって、この思いに気付いたのはつい5分前のことだ」

「5分!?」

「でもよ、考えてみちゃくれねぇか?なぁ、俺様に愛されてくれよ。悪いようにはしねぇからさ」

「そんなこと、突然言われても......」



なまえは後半なにを言っているのかわからないくらいの小さな声でぶつくさと呟きながら、両手で頬全体を覆う。照れ隠しのつもりなのだろうか。それが好きな女だと意識してしまうと、なにもかもが可愛く見えてしまう。恐るべし、恋。

一聞すると、まるで調子の良いことばかり言っているような口ぶりだが、実は彼のこの告白、ふたりのこれまでの関係性を大きく揺さぶることにもなりうる。なぜなら、今のエクボとなまえはあくまでビジネスの関係であって、報酬を払っている立場のなまえがエクボを拒否すれば、それだけで崩れ去ってしまうような脆い繋がりだから。よって、これはいちかばちかの賭けであった。受け入れられるか、拒まれるか。もしかしたら名目上所長である霊幻にでもチクられて、大切なお客様になにをしているんだと、茂夫に頼んで除霊されてしまうかもしれない。エクボはその場の雰囲気や勢いだけで言葉を口走ってしまうほど浅はかではないし、それらを考慮した上で、なまえへの想いを打ち明けた。今までだって彼女への恋心に思い当たる節がたくさんあったからこそ、いざ自覚したところで疑いの余地などこれっぽっちもなかった。



「......考えさせてください」



結局、なまえの出した答えは「一時保留」。だが、すぐに断られなかっただけ遥かにマシだと言えるし、感触的にはかなり良好。これを機に恋愛対象として意識してもらえるだろうし、手応え的には十分だ。そのうえ、なまえは決してエクボのことを拒絶してなどいなかった。その証拠にあの反応である。仮に好きでも何でもないような輩に、除霊名目でキスなんてされてみろ。たまったもんじゃない。平手打ちされなかった時点で、エクボはそれなりの勝算があると見込んでいた。そうでもなければ、プライドの高い彼が捨て身の告白などするわけがない。



「なぁ、」

「!」

「いや、んなビビんなくても......確かに俺様はお前さんが好きだと言ったが、すぐにがっつくほど盛んでもねぇよ。取って食ったりしねぇから、もう少し普通にしてくれねぇ?」

「べっ、別にビビってなんかいませんよ!ただ、どんな顔すればいいのかわからなくて......その、恥ずかしくて、ですね......」

「とりあえず、そうやって思ったことすぐ口にすんのはやめといた方がいいぜ。なんつーか、ぐっとくるから」

「......?気をつけます」

「意味わかってねぇんだろうが、まぁ良い。だいぶ顔色も良くなってきたようだから話を進めさせてもらうぞ。問題はここからだ。はじめはお前さんに取り憑いた生霊を払いつつ、どこかのタイミングで大元の尻尾を掴めたらと考えていたが、どうやらそんな悠長なことは言ってられねぇらしい。他の生霊も巻き込んじまうほど、そいつはなまえに惚れ込んでるってこった。そこらのストーカーなんかよりもよっぽどタチ悪ぃぞ」

「それじゃあ私はどうすればいいんですか」

「生霊ってのは厄介でだな、人の念の塊でできてっから、例え飛ばした本人が生きようが死のうが、生霊にはなんら関係ねぇ。すでに生身の身体から独立した、まったく別物と考えてもいい。大元の人間を殺すってのはボツ案だな」

「......」

「ん?どうした?」

「いえ、エクボさんって結構危険思考だなぁって」



いやいや危険もなにも、だって俺様悪霊だし。思わず言いかけた言葉を寸前で飲み込み、エクボは取り繕ってつくり笑いを浮かべる。



「へっ、冗談だっての!第一、大元が確定できねぇくらい大量の生霊が取り憑いてたもんだから、今は何の手掛かりもねぇよ」

「色々な意味で安心しました。殺しなんて、嫌ですから」

「安心しな。なまえの手を汚させるつもりはさらさら無ぇからよ。いざって時はお前さんが知らねぇうちに、俺様がこの手で......」

「そうじゃなくて!」

「あん?それじゃあ何が不服なんだ」

「エクボさんに、そんなことさせたくないんです。そりゃあ、仕事の一貫かもしれませんが......私のためにエクボさんが危険な目に遭うのは、もっと嫌なんで」



す、と。なまえが言葉をすべて言い終えるよりも先に、エクボが突然、ゴン、と頭を強く打つ。あまりにも痛々しい音を立てたものだから、間近で見ていたなまえがそれを心配するが、にも関わらずエクボが低い声で彼女の名前を呼ぶ。



「......なまえ」

「はい?」

「そういうのは、気のあるヤツ以外には言っちゃいけねぇやつだ......」

「え、そうなんですか?」

「あああっ。クソッ。これでも空気を読める方だと思っていたし、耐え性もあると自負しちゃあいたが......!お前、とんだ理性クラッシャーだな!?」



本音を言えば、今すぐ襲いかかり、頭から丸呑みする勢いで貪ってやりたい。だが、折角の恋の相手をそう乱暴に扱いたくもない。エクボが理性と本能に苛まれているにも関わらず、まるで理解していないような顔で丸い目をぱちくりとさせるなまえがあまりに無防備過ぎて、ここまで鈍感となると逆にやましい気持ちなんてどこかに飛んでいってしまった。



「つーわけで、ぶっちゃけ思い当たる節はねぇか?ほら、最近誰かに告白されたとか、襲われそうになったとか!」

「......、......!」

「どうした、なにか思いつい......ん?おい、なまえ。やけに俺様のこと見てやがるが、言っとくが生霊とは無関係だからな。確かに告白もしたし、襲......ってはねぇぞ!だから、あれは除霊で仕方なくだなぁ......!」

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