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まるで肉食獣が小動物に食らいつくように、くわっ、と大きく口を開くと、綺麗に並んだ白い歯が見える。よし、いくぞ食ってやる(霊を)。なまえのぷっくりとした下唇にそっと触れ、親指を這わせて、そのまま噛み付く、一瞬手前。エクボは、どくん、と大きな胸の鼓動を聞いた。それは紛れもなく憑依元であるこの男のものだったのだけれど、今、この身体の全神経はエクボに支配されており、そこに男の意識などない。となると、彼は随分と久しく「緊張」なんてものを体感していることとなる。跳ね上がる心臓、首から頭にかけて巡る血液、汗ばむ手のひらーー気づきたくなんてなかったのに。これだから嫌なのだ、肉体は。



「......いい子だから、大人しくしてろよ」



様々な葛藤の末、エクボは今度こそなまえの唇を塞ぐ。生身の人間だというのに、思ったほど熱くない。しかし、冷たいわけでもない。緩く閉じていた唇がきゅっと引き結ばれる寸前、エクボの舌がその唇の合わせを割って、口の中に入り込んだ。これは、あくまでも呪いを吸い出すための行為だ。だから、これは口づけではない。ただし、除霊以外の意味を持ってはならないというわけでないが。

舌先に唾液が触れた瞬間は、少し甘いと感じた。慣れない行為に戸惑っているのか、閉じかけたなまえの口の端に親指を突っ込んで、さらに上から噛み付くように隙間を埋めると、なまえの後頭部に少し重さが加わって、ぎし、とベッドのスプリングが微かに軋んだ。それから、ぢっ、と音を立てて唾液ごと吸い上げると、彼女の舌がひくんと揺れる。口の中を掻きまわしながら、なまえに取り憑いた霊たちを吸い上げた。ずぞぞ、と喉を這い上がるような嫌な音が聞こえて、組み敷いた身体が痙攣する。唇を塞がれ呼吸が妨害されたまま、喉を逆流してゆくなにかの気配が辛いのだろう。



「あ、......っふ、」



なまえの口から、苦しげな吐息が漏れる。シーツなのか布団なのかすら判然としない、とにかく手につくものをぎゅっ、と掴んだまま、無意識に足元の毛布を蹴飛ばした。言葉を発せないまま、時折身震いする小さな身体から、エクボは一旦離れた。ちゃんと呼吸が出来ているのか、少しばかり不安になった。



「......おい、」



大丈夫か?と訊こうとして、自分が組み敷いた格好になっている、今のなまえの格好に目を奪われた。彼女の呼吸は絶え絶えで、目元と耳を赤く染め、エクボが親指を突っ込んでいた口の端からは僅かに唾液が零れ、唇を濡らしている。この時、湧き上がった感情をなんと名付ければよいのか、エクボにはわからなかったのだけれど、言葉にしてはいけないような気もした。何をしても無抵抗で、必死に受け入れようとする健気ななまえの姿に、なにも感じなかったと言えば嘘になる。死んでから早、数百年。死んでからは食べることや寝ることもなくなって、ましてや性欲なんてとっくの昔になくしたはずだった。この姿になって、そういうのすべて、必要ないわけだがーー

いやいや、いやいやいや。一瞬、頭に浮かんだ感情の名を掻き消すように、エクボはぶんぶんと首を振る。これは、あれだ。この憑依元の男のせいだ。同じ身体を共有することによって、感情をも共有してしまっているのだろう。そうやってもう何度も同じ言い訳を唱えている。



「ちゃんと息しろ、大丈夫か?まだ終わってねぇぞ」

「う......も、もういい......」

「いいわけあるか。まだ全然吸い上げきれてねぇんだ」



赤くなった頬を隠すように、なまえが腕で顔を覆う。そんな可愛らしい仕草をされたところで、制止には全く聞こえない。彼女の外皮が剥がれ掛けているのを見て、普段見ることのできない、隠された内面を暴いてやりたくもなった。



「ほら、なまえ。こっち向け」

「......」

「なぁ、」

「エクボさんは」



突然名前を呼ばれ、思わず動きがぴたりと止まる。なまえの表情は隠されてよく見えないが、その潤んだ瞳は確かにエクボの姿を捉えている。



「こういうの、慣れてるんですか」

「は?」

「じ、除霊だからって、こうやって誰にでもするんですか。......キス」

「......いや、そういうわけではないんだが」



さて、どう返そうか。この時、エクボは心の底から困惑していた。何百年とこの世に留まり続けた彼は、その分、人より経験が多い。この男以外の人間の身体に憑依し、操ったことも多々ある。いまや記憶がおぼろげとなってしまったが、かつて自身が生身の人間だった頃も、人並みに恋愛というものを経験してきたのだろう。それ故、エクボは、どうすれば相手が気持ち良くなるかといった知識に長けていたし、テクニックにも自信はあった。しかし、それを彼女にどう説明すればいいのかわからない。まさか、「散々してきた」だなんて返してしまえば、それこそ信用問題に関わる。そもそも彼には性欲がないのだから、霊体になってからのそういった行為には、恋愛感情なんてものは伴っていなかったのだが。



「誰にでもするわけねぇだろ。なまえが初めてだっての(この身体では)」

「......」

「なんだその疑いの眼差しは」



いや、この年齢で「キスが初めて」だなんて逆に胡散臭いか。そう気付いた時には時すでに遅し。なまえがじとっ、と疑いの目でこちらを見ている。



「嘘ですね」

「あのなぁ、そんなことどうだっていいだろ。とにかく今は除霊することが最優先なんじゃねぇの」

「そんなこと、って。私にとっては、結構衝撃的な出来事なんですけど」

「それをいうなら、お前さんが経験ないってのも信用できねぇなあ?その身なりで、男が放っとかねぇだろ」

「私、そんなに軽い女に見えますか?」

「そうとは言ってねぇけど」



どうやら軽口を叩ける程度には回復したらしい。それにしたって、まだまだ除霊に時間を費やさなければならないのは事実。エクボが再び顔を寄せると、気恥ずかしそうに顔を反らせたものの、その身体を押し返したりして拒絶しないということは、やはり思うように身体の自由が効かないということだ。



「やるぞ、続き」

「あ、あの、お手柔らかに......」

「除霊にお手柔らかもなにもあるか」

「だって、初めてだって言ったじゃないですか」

「......っ、わ、わぁーったよ!優しーくな?了解。ったく、注文の多いお嬢様なこって!」



どうやら彼は「初めて」という言葉に弱いらしい。ぐっと何かを堪えるように口を噤み、やがて深いため息を吐いた。余裕な口ぶりをしておきながら、欠けた耳が赤く染まっている。なまえはその様をすぐ近くで見ていたが、ふいにそっと耳朶に触れてみると、予想だにしなかったであろうことに驚いたエクボが、反射的にその身体を仰け反らせた。まるで尻尾を触られた猫のように、俊敏な動きで。



「!? な......っ、お、まえ、突然過ぎるだろーが!」

「?」

「だから、その......だな、何も言わずに触れられたら、そらぁ、びっくりするだろ......」

「......」

「なんだよ、その顔」

「いや......私も、びっくりしました。エクボさんにも案外可愛らしいところ、あるんですね」

「ぁあ?」

「えっと、エクボさんって見るからに歳上じゃないですか。私からすれば大人なわけで......すごい、クールなイメージがあったんですけど」

「そりゃあイメージ覆しちまって悪かったな」

「いえ、悪くなんてないです。全然」



そう言ってくすくすと笑うなまえを組み敷いたまま見下ろし、エクボはどうしてやろうかと本気で悩んだ。なんなんだ、この女は。今の状況をわかっていないのか。俺様が本気を出せば、どうにだってできちまうんだぞ。このまま無理矢理犯すことも、その息の根を止めることすらも。あまりに危機感のないものだから、思わずエクボもつられて笑った。どうせこの女のことだから、俺様のことを心の底から信じきってしまっているのだろう。なんて「霊能力者」という名の肩書きが偉大なことか。実のところ、正体はまったく真逆の「悪霊」なんだが、今さらそんなこと口が裂けても言えやしない。



「(優しく......優しく......)」



そう意識しながら、今度はゆっくりと近付き、そっと触れる。先ほどの除霊行為で唇はすでに湿っており、しっとりとしたその触れ心地は気持ちがいい。そのまま啄むように下唇に吸い付いて、早いところ吸い上げてしまうために、片手でなまえの腹を探った。ゆっくりと円を描くようにして撫で回すと、腹の底に溜まった悪い気が腹の中で混ざり合い、それらをまとめて一気に押し出す。物理的にも圧力をかけているため、やや苦しげになまえの眉間に皺が寄った。腹に当てた手に意識を集中させると、生身の手はもちろん素肌の上に置いたままだが、霊体だけを身体の中に侵入させると、黒い靄のようなものが渦巻いているのが解った。

少々手荒いやり方ではあったが、この方法は直接霊を引きずり出すよりかは遥かにマシである。無理矢理引き剥がしてしまうと、なまえの魂そのものに傷がついてしまう可能性があるからだ。所詮人間は皆肉の器で、本体そのものはそこらに漂っている霊たちと同じ。ただ、魂を宿している生身の身体が「ある」か「ない」かの違いである。ただ、それの有無で見える世界はこんなにも違うものなのか、とエクボはこの頃実感している。それは、強い自我を保ったまま霊体としてこの世に存在し、好き勝手他人に憑依することのできる彼にしかわからない。



「いっ、」

「っと、悪ぃ。痛かったか?」



ふいに爪を立ててしまい、エクボは即座に手を離す。決して憑依先の男の爪が伸びていたわけではなかったが、指先に強く意識を尖らせており、霊体のみを身体の中へと侵入させるのはとてつもなく至難の業なので、ちょっとした気の緩みすらも許されない。その気になれば彼女の身体を通り抜けられるし、内蔵に触れることだってできる。それはつまり、今の彼女をどうすることもできてしまうということ。やろうと思えば、このまま心臓を握りつぶすことも。そんな状況に興奮しないといえば嘘になるだろう。霊体となってなくしたものは数知れず、支配欲なんてものはなくしてなかったわけだ。



「だ、大丈夫です。このまま続けて」



悪霊は生者を愛してはいけない。

そりゃ当然だ。悪霊ってのは、人間に害を与える存在なのだから。愛とは「相手に喜んで欲しい」だとか「相手のために何かしてやりたい」だとか、見返りを求めるものではなくて、基本的に相手本位である。つまりは、本来あるべき悪霊の姿とは真逆なのだ。そういった思考は。



「(......ん?)」



そこで、エクボは首を捻る。それじゃあ今の自分は一体なにをしているのかと思ったが、我に返ったのは恐らく一瞬だった。酸欠でぼんやりとした目がこちらを見上げ、悪い気を追い出すために撫で回した腹部はめくれ上がり、ひどく乱れた格好のなまえは、かなり刺激的であった。エクボはまさかこんなことで自制を失ったなどと認めたくはなかったが、つい先程、頭を過ぎった思考ーーなまえのためにどうにかしてその苦しみを取り除いてやりたいと思うこの気持ちは、紛れもなく無償の愛そのものではないか。

これでは駄目だ。なんせ自分は悪霊なのだから、なんならこれを貸しにして後々彼女を利用してやればいい。悪霊らしからぬ己の考えを否定し、エクボはまるで自分に言い聞かせるように心の中で葛藤を続けながら、唇を合わせ直した。なまえの後頭部に手を回し、逃げられないように固定して、顎をあげながら舌を伸ばす。逃げる舌を追えば漏れる、甘く色づいた彼女の吐息。絡めた舌へ柔らかに歯を当て、尖らせた舌先でなまえの上顎をくすぐり、小さなその身体が震えたと同時に、どっとなにかが湧き出した。



「ッ、んにゃろ......!」



口から吐き出された、どす黒い霧のようなもの。それこそがなまえに取り憑いた、今回の件の悪の根源。彼女の中で混ざり合った数多の霊たちがひとつの集合体となって、今、ようやくなまえの身体から離れようとしている。それでも離れ難いのか一瞬動きを止め、その隙を見逃さなかったエクボは、がぶりと霊の集合体に噛み付き、ぶちり、と大きな音と共にそのまま一気に引き剥がした。

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