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彼は、この世に執着していた。人は死んでも尚、この世への未練ーー例えばそれは生前に叶わなかった夢であったり、成し遂げられなかった目標であったりーーが強大であると、魂だけがこの世に取り残される。成る末は守護霊だの悪霊だの様々で、その者の本質によって変わってくる。そういう訳で、実のところ、霊という存在は特段珍しいものではなかったのだけれど、いずれにせよ、彼ーーエクボのように強い自我を持った霊は、かなり珍しい部類であった。
この世に残された霊たちは、未練を果たし成仏するか、霊媒師に除霊されてしまうか、あるいは、夢半ばのまま自ら消滅の道を選ぶ。その中でも自滅する者が大半を占めており、そういった霊たちをエクボは幾度も見てきた。確かに、霊なんて人の視界にも映らないような不確かな存在が、一体どう足掻いたところで夢を叶えられるだろう。以前、愛する妻を残し、死んでしまった男の霊を見たことがある。彼は彼女の守護霊となり、死してなお妻を見守ってきた。しかし、時の流れと共に人の心もまた移ろい易く、やがて彼女は違う男と結ばれた。幸せそうな彼女の姿を、男の霊はただ見守ることしかできず、結果として、男の霊は涙を流しながら成仏した。守護霊となり、たった一度も妻に存在を認識されないまま。
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小一時間ほどでバーを出ると、ふたりは並んで同じ帰路につく。誰の見計らいでもなく、本当に偶然であったが、憑依先の男となまえの家が近所であったことは、エクボとしても有難いことだ。彼は悪霊だが、憑依先は大事にすると決めており、特にこの男に関しては、扱いやすく、今後も長い付き合いになると想定した上で、きちんとウチに返す義務があるとエクボは考えていた。
「これは、俺様の見解だが」
エクボはひとことそう伝えてから、自分の考えをつらつらと述べる。
「お前さんについてまわる霊ってのは、きっと寂しがり屋なんだろうなぁ」
「どうしてそう思うんですか」
「姿は見せねぇのに、常に物音や気配はするんだろう?自分の存在を主張して、あんたに気づいて欲しいんだろうよ」
「そういうものなのでしょうか......そもそも、本当に霊の仕業なのかも、だんだん疑わしくなってきました。やっぱり、私の勘違いなんじゃないかなって」
「いんや、お前さんは間違っちゃいねぇ。悪霊か守護霊かは置いといて、少なからず、霊の仕業っつーことは確信がもてた」
「どういうことですか?」
「......その、憑いてんだよ。肩に」
「えええ!?い、今!?私の肩にですか!!?」
それを聞いた途端、なまえの顔からサァっと血の気が引き、慌てて肩の上を何度も払う。当然、霊能力のない人間がなにをどうしたところで、霊を祓えるわけがない。慌てふためく彼女を見て、だから言いたくなかったんだけどなぁ、とエクボは内心思うが、依頼を受け、霊の存在を明るみにしてしまった以上、やはり正直に口にするべきだろうと判断した。
「正確には気配だけっつーか......本体、じゃあないんだけどなぁ」
「あ、あの、憑かれていると不幸が訪れるとか、そういうのは......」
「あー、そういうんじゃあないんだわ。これが呪いの類いなら、まぁ、バナナの皮で滑るくらいの不幸はあるかもしれねぇが、こいつの場合、単に一方的な想いがそのまま具現化して、ひっついちまってる感じだな」
「へぇ......私の肩に、ですか。案外、軽いものなんですね。霊に憑かれていると、肩がずっしり重くなるとか、そんな風なのかと思ってました」
「具合にもよるが、たいていただの肩凝りだな。もし酷くなるようなら、俺様に言いな。知り合いに、マッサージの腕だけは確かな霊能力者がいるんだよ」
「霊能力者がマッサージ?世の中には多才な方がいらっしゃるのですね」
この時、エクボは霊幻に対して精一杯の皮肉を吐き捨てたが、彼女はそれを知る由もなく、素直に瞳を輝かせる。なまえのその純粋さが、エクボには眩しい。
なまえはとても素直な人間だった。エクボが口にしたことをそのまま受け入れ、微塵も疑わない。日常生活の中で霊と関わることのない人間にとって、目に見えないものほど信じにくいし、そもそも霊幻がいつもの調子で「それ、悪霊の仕業ですね」と言った途端、まるで胡散臭いものを見るかのような目で、それっきり来なくなってしまった客もたくさんいる。見えないものを「いる」と証明することはとても難しく、わざわざ貴重な霊力を費やしてまで、そういった客の悩みをどうにかしてやりたいと思うほど、エクボは善人ではなかった。もっとも、彼は悪霊であって、善悪を区別する以前に、そもそも人ですらなかったのだが。
「だが、なんにせよ、常に見られてるってのはあまり良い気がしねぇよな。さっきも引き剥がしてやったんだが......チッ、またひっついてやがる」
「取れるんですか?その、これ」
「まぁな。どうせまた沸いて出るんだろうが、ひとまず取ってやろうか」
「お、お願いします......」
そう言ってなまえが、なにも憑いていない方の肩を突き出してくるので、エクボはやんわりと押し退け、違う違う、こっち、と、もう片方の肩を抱き寄せる。
「ったく、ずいぶんと固執したヤツなこって......ほら、取れたぞ」
「え、もう?目に見えないのなので、なんだか実感がわきません」
「見えない方がいいんじゃねぇか?お前さんの場合。怖ぇの、苦手なんだろ?」
「まぁ、そうなんですけど」
なまえはそう言って困ったように笑うと、うつむき、ほんの少し間を置いてから、ぽつりと言葉をこぼした。
「もし、自分の姿が、好きな人に見えていないのだとしたら......それって、とても悲しいことですよね」
「......まぁ、お前さんに憑いたそれが死者、とは限らねぇがな。生霊かもしれねぇ。むしろ、そっちのが可能性は高い」
「生霊?」
「生霊ってのは、生者の魂のカケラのことだ。俺は以前、似たような依頼を受けたことがあったんだが、そん時も犯人は隣部屋の住人だった。もしかしたら、案外、こいつの本体も身近に潜んでいるのかもしれねぇな」
「......」
「おっと、悪ぃ。怖がらせちまったか?だが、とんでもなく想いの強い野郎の仕業だぜ、それ。誰にでもできるわけじゃねぇ。......身に覚えはあるか?」
「えええ......それってつまり、誰が幽体離脱できそうかって聞いているんですよね。わかりませんよ。私、霊感ありませんし」
「そりゃそうだよなあ」
やはり、大元である生霊を見つけ出さなくてはならないらしい。生霊の姿を完全に捉えることができれば、その気配を辿り、本体である人間を特定することができるのだが、彼女に憑いた微々たるものでは、霊力が弱すぎて話にならない。となると、いつ、どこで大元が出てきてもいいように、常に彼女の側にいる必要があるということ。霊体であれば場所問わず、どこにでもついていくことができて融通が利くが、それだと霊能力のないなまえの目には映らないし、なんだか覗きのようで後ろめたい。そんな彼に残された手段はただひとつ、言わずもがな。
正直なところ、エクボはこの身体でなまえと一緒にいるのが嫌だった。エクボの意志とは裏腹に、この男の心身はなまえの言動によって、大きく揺さぶられる。きっと、この男の彼女への想いは憧れに近くて、手の届かない、高嶺の花のような存在なのだ。エクボには、なんせ憑依してその身体を乗っ取っているのだから、手に取るように男の気持ちがわかってしまう。まるで我が身のように感じられてしまうから、つい、勘違いしそうになるのだ。この胸の鼓動が、守りたいと思う気持ちが、抱きしめてやりたいという衝動が、自分のものではないかと。
「あークソッ、めんどくせぇ!とっとと犯人捕まえんぞ!なまえ!」
「へ?......は、はい!エクボさん!」
この時、なまえは自分が呼び捨てで呼ばれていることに対して、不快とも違和感とも思わず、ただただ驚いた。別に呼び名を気にする歳でもなかったが、嫌ではないということだけは、はっきりと理解できる。そして反射的に、なまえもエクボを名前で呼び返すことになったのだけれど、彼もまた、彼女に名前を呼ばれたことに対して拍子抜けした。なまえの声で発せられた自分の名前が、なんだか自分のものではないように感じた。
「......だから、さん付けで呼ぶなっての。気持ち悪ぃ」
そうだ。彼女に名前を呼ばれ、思わず耳が熱くなるのもーーきっと、この身体のせい。そうに決まっている。
◇◆
職場の近くの駅から、電車に乗って数時間。乗車時の都心部の駅とは違って、地元の駅はこじんまりとしている。この男となまえの住む辺りは、その駅からも少し離れた場所にあった。彼女の家までの道のりを、頼りない街灯がぽつりぽつりと照らしており、薄暗い中、道筋に伸びる影はふたつ。歩きながら、ふたりは様々な話をした。そのほとんどがどうでもいいようなことばかりで、エクボも業務中であることをすっかり忘れてしまっていた。こうしていると、まるで自分が本当に人間であるかのような、そんな気がしてしまう。時折、ひゅうっ、と吹き抜ける冷たい風に、身体を小さく縮こませるのも、霊体ではありえないことだ。
「おー寒っ、最近すげー冷え込んできたな」
「そういう割に、結構薄着じゃあないですか?コートも着ずに」
確かに、今のエクボはかなり薄着であった。この男は基本的に黒のスーツに身を包んでおり、今日、身体を拝借した際にも、いつもの黒スーツ姿であった。時間帯も真昼間であったため、その時は特に問題もなかったが、太陽が沈み、時計の針が18時を回った頃には、空気がひんやりと冷たかった。そんな中、スーツのジャケットを羽織る程度では、その寒さをしのげるとは思えない。五感のない霊体でいることが当たり前だった彼は、この時期の夜の寒さがいかに厳しいものであったか、すでに忘れてしまっていた。
やばい、まじで凍え死ぬ。まさか悪霊にもなって、こんなにも死を我が身に感じられようとは、なんて大袈裟なことを考えていると、手を組み、がちがちと歯を鳴らすエクボの姿を見兼ねたのか、なまえは自分のマフラーを取ると、ふわりとそれを彼の首へと巻きつけてやった。
「ん?なんだ、これ」
「貸して差し上げます。あまりにも寒そうで、見てるこっちが凍えちゃいそう」
「おぉ。なんだかよくわからねーが、ありがとよ。あったけぇな、これ。ピンク色とかじゃなくて助かったぜ」
この、見るからに30は越えているであろう強面の男が、ピンク色の可愛らしいマフラーを巻いた姿なんて、誰が好き好んで見たいものか。エクボがそんなことを口にすると、なまえはくすくすと笑いながら、そんなことないと思いますよ、なんて冗談ぽく返すのだった。
「あ、着きました。ここが私の家です」
やがて、なまえが立ち止まり、指差した方向をたどっていくと、そこには小さな庭に囲われた、大きすぎず、かといって小さくもない、ごく一般的な一軒家がそこに建っていた。庭には様々な花木が植えられており、今はまだつぼみでも、時期が暖かい春であったなら、きっと美しい花々で咲き乱れていたことだろう。
「ふぅん、ずいぶんと可愛らしい家じゃねぇの。......で、なまえの部屋はあれか。二階の、カーテンが掛かった窓のある位置」
「そうです。最近見られている気がしてばかりで、もう、カーテンもろくに開けてないんです。たまに、父親が勝手に開けちゃうんですけど」
「家族にも話してねぇのか」
「だって、そんなことしたら警察沙汰になるでしょう」
「まぁ、そうなるわな」
エクボは、念のためその場で霊の気配をたどってみたものの、なまえに憑いた大元と思しき存在は、どこにも感じられなかった。初めて彼女の家周辺を視察に来て、すぐに犯人を現行犯逮捕だなんて、そんなうまい話はない。ひとまず彼は、なまえの住む家の位置から、憑依元の男のアパートまでそう離れていないことを再確認すると、何かあった時はすぐに呼べ、5分で来てやる、と、自信満々に胸を張ってみせた。これで、少しでも彼女の不安を拭うことができたなら。
なまえは頭のいい女だ。物事を客観的に捉えることができ、その都度、冷静に物事を対処することができる。その一方で、他人に迷惑をかけまいと、自分の中で問題をすべて抱え込んでしまう危うさをも併せ持っていた。果たしてそれが良いのか悪いのか、エクボにとってそんなことはどうだっていい。問題は、その性格が災いして、事態がとんでもない方向へとすすんでしまわないか、である。
「5分?すごい、頼もしいですね」
「おいおい、俺様は冗談で言ってるわけじゃねぇぞ。いいか。すぐに、だ。霊が関わっていると分かっちまった以上、俺はなんとしてでも解決せにゃならねぇし、お前さんが思っている以上に、霊ってのは本当に危ねぇんだからな。その中でも、特に悪霊ってのは......」
言いかけて、エクボは口を噤む。自分は何を言っているのだろう。悪霊?それは間違いなく自分のこと。人間に害を与える霊の総称であり、言ってしまえば、嫌われ疎まれる存在。それなのに、俺様は一体何をしようとしている?霊力の欠片もない小僧の指示に従い、こんな小娘相手に尽力しようというのか。この、上級悪霊様が。馬鹿らしい。いっそのこと洗脳でもして、この女を奴隷にでもしてやろうかと考えたが、そんなこともつゆ知らず、にこにこと微笑むなまえの顔を見ていたら、それもまた馬鹿らしくなってしまった。今のなまえは完全にエクボを信用しており、確かに、洗脳自体は容易いかもしれないが、それは彼女の人間味が失われてしまうことに他ならず、洗脳された彼女はきっと、彼を「エクボ様」だなんて呼ぶのだろう。それはそれで、なんだかつまらない気がした。
結局、エクボはその後続けるはずだった言葉を適当に濁し、なまえの背中をぽんと押す。不思議そうな顔でこちらを振り返る彼女に向かって、彼はにやりと笑いながら、意味深な言葉を投げかけた。
「ガキはとっととおうちに帰りな。悪霊に襲われちまう前にな」