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その日、なまえは明らかに顔色が悪かった。ここ何日かそれは続いており、真っ青な顔をした彼女は冷や汗を滲ませながら、それでも自分は大丈夫だと言い張っている。なにが大丈夫なものか。また少し目を離した隙に、彼女の肩にはうごめく何かの影。エクボがそれをつまみ上げ、口に運ぶーーこの一連の動作をもう何度繰り返したことだろう。これ以上うやむやにしてしまうのは良くないと判断したエクボは、次の日、休日であるにも関わらず、近くの喫茶店へとなまえを呼び出した。給料も出ないタダ働きなど極限したくないものだが、そんな悠長なことを言っていられなかったし、彼女を好きだと自覚してしまってからは、何らかの口実でなまえと顔を合わせることが、彼の密かな楽しみとなっていた。



ーーとはいえ、やべぇな。このままじゃあ、犯人を見つけ出す前になまえの身体が力尽きちまう。

ーー......できるだけ穏便に済ませたかったんだが、



「なぁ、なまえ。これは俺様からの提案なんだが」

「? なんですか?」

「前に言ったこと、覚えてるか?他の霊を寄せ付けない方法。あれをやる。本当はやりたくなかったんだが......何かあってからだと遅ぇからな。ちっとばかし荒技なんだが、慣れちまえば問題はないはずだ」

「あの、何の話をしているのかさっぱりなんですけど」

「あー......つまり、だ。俺様の精神を一部、なまえの中に潜り込ませる」

「そんなことができるんですか?」

「ま、まぁな。その......霊的な力を操って、お前さんの精神世界へと干渉する。そうすれば、たいていの霊は寄り付けなくなる」



まさか自分が悪霊などと言えるわけがないため、欠如だらけのちぐはぐな回答になってしまったが、正確に言うと、エクボが彼女に憑依することによって、周りの霊たちにすでにエクボのものだという錯覚を起こさせるーーという寸法だ。基本的にひとつの器にいくつもの魂は存在できない。が、上級悪霊の所有物ともなれば、下手に手出ししようなどと思う無謀な霊はそういないだろう。霊の世界でこそ強者が弱者を支配する、所謂、弱肉強食のルールが強く根付いている。



「よし、そんじゃ力抜け」

「えっ。今からやるんですか」

「当たり前だろ。思い立ったらすぐにやらねぇと、お前さんのことだから、またどこからか変な虫連れてきちまう」



それに、とエクボは続ける。



「これは個人的な話だが、好きな女に他のヤツが憑いてるってのが1番気に食わねぇんだよ。何処の馬の骨かも知れんヤツに取られるくれぇなら、俺様が憑いてやる」

「えええ......どっちみち、私は憑かれること前提ですか」

「いいから目ぇ閉じろ。入るぞ」



なまえは何か言いたげな表情を浮かべつつも、素直にその言葉に従う。どのみち自力では対処できないのだから、ここは霊専門である彼に任せるしかないのだ。



「でも、入るってどうやって?私、痛いのも怖いのも嫌なんですけど」

「痛......くはないんじゃねぇの」

「本当に?すごく人を不安にさせる言い方ですね」

「だって俺様、他人に身体乗っ取られたことねぇもん。乗っ取ったことはたくさんあるがな」

「ん?たくさん?」

「......っと、聞かなかったことにしてくれや」



結果としてさらに不安を煽ることとなってしまったが、エクボは出来るだけ表情を変えずにさらりと言ってのけた。そして、それ以上の追求を面倒だと思ったのか、そのまま行動へと移る。聞き返す際に一瞬だけ開いたなまえの目が再度閉じたことを確認すると、エクボは右手に霊気を込め、ぼんやりと靄のような緑色の光をその手に纏った。温かくも冷たくもないそれは、まるで炎のようにゆらゆらと揺れ、色を変える。エクボが狙いを定めたのは、ちょうど心臓の位置する左胸。そこは人間の最も弱く、かつ、繊細な部位であった。だからこそ丁寧に扱わなくてはならなかったし、下手をすればそのまま心臓を握り潰してしまう。エクボは息をゆっくりと吐くと精神を研ぎ澄ませ、霊体である己の手を伸ばした。

半透明体であるそれは肉体を難なくすり抜けて、ずぷりと音を立ててなまえの中へと侵入する。霊体では温度など感じないはずなのに、なまえの身体の中は温かくて、血液が巡回すると同時に心臓がどくんと脈打った。それは何よりも確かな「生きてる」という証。借り物の身体で感じることができても、自分のものはもうどこにもない。存在しない。物理的に手が届く距離にあるというのに、それはあまりに遠くかけ離れた存在だった。



「ん......っ、ま、待ってエクボさ......」

「おいおい、なんつー声出してんだお前さんは。別にやらしいことなんざしてねーよ俺様は」

「な、んか、圧迫感が、」

「おー、今入ってるとこだからな。あともうちょい......」

「......エクボ」

「!?」



つい、反射的に手を引いてしまった。それは、不意に呼び捨てで名前を呼ばれたからなのだけれど、どうやらなまえは無意識だったらしく、圧迫感から解放され、どことなく安堵の表情を浮かべる。



「はぁ、苦しかった。あ、でも、具合悪くはなくなったかも」

「......」

「? エクボさん?」

「さっきの」

「はい?」

「俺様の呼び方、それがいい」

「......なんて呼びましたか。私」

「エクボ、って」

「!? す、すみません!目上の方に呼び捨てだなんて、恐れ多い......!」

「いいじゃんか。もう初対面ってわけでもないんだし、なんたってキスした仲だろう?んなよそよそしくならんくても」



なまえをからかうような口振りでありながら、彼はひどく動揺していた。たったひとこと、それも名前を呼ばれただけなのに、どうしてこうも心臓が高鳴るのか。感情とリンクした他者の臓器は、まるで自分のもののようだと錯覚してしまいそうになるほど馴染んでいて、胸に手を置けば感じる脈動はまさしく動悸。これだから、生身の身体があると面倒なのだ。すぐ感情が表面に滲み出てしまう。

結局、エクボはなまえの中に入り込むことはできなかった。しかし、一瞬でも彼女の中に触れ、じわじわと確実に、内側から霊に蝕まれていることを知る。彼女の身体は、思っていたよりも弱っていた。このままでは衰弱死してしまうかもしれない。それなのになまえは相変わらず気丈に振る舞うものだから、エクボはないはずの胸が痛んだ。ただの人間のくせに、どうしてそこまで頑張れる。得体の知れないものの存在に脅かされ、怖くて、苦しくて、不安だってあるはずなのに、なぜ俺様をもっと頼らない?それがなんだかもどかしくて、何も出来ない自分が腹立たしくて、エクボの中では様々な感情が渦巻き、解消する矛先も見つけられず、一向に積もり積もっていた。



◇◆



霊は眠らない。しかし、憑依した人間の身体が休息を欲していると、必然的に眠くなり、霊体となって感じることのなかった『眠気』という感覚に襲われる。うっかり眠りの世界へと誘われたエクボの見る夢ーーそれは、長年彼が抱き続けてきた野望が成就するーーそんな夢物語。

高い位置に立っていた。そこから見下ろした先にはたくさんの人間で埋め尽くされており、皆が羨望の眼差しをこちらへと向けてくる。時折「エクボ様」だなんて仰々しく呼ばれ、声のした方へと手を振ってやれば、それだけで群衆はどよめき、黄色い声が飛ぶ。誰ひとりとして顔を背けてなどいない。揃いに揃って向けられた瞳には、神となった己の姿が確かに映し出されており、存在を認知されていることに対して快感すらをも覚えた。



ーーそうだ!これこそが、俺様の求めていた世界だ!



何度も同じ夢を見て、それでも尚、ここまで神に執着する理由はわからなかったけれど、夢から覚めたエクボの気分はいつだって晴れやかである。ただ、横になっていた身体を起こし、伸びをして、ふわぁ、と大きな欠伸を零したあと、考えることはいつだって彼女のことだった。

あぁ、そうだ思い出した。自分が、どうして神になりたかったのかをーー



「......せめて金で買えるものなら、良かったんだがな」



自分が求めてやまないものはなんだ。どうしたら、このからっぽな隙間を埋めることができる。自分は何になりたい?答えは自ずと決まっている。そもそも、初めから答えなどひとつしかなかったはずだ。エクボは自問自答を繰り返し、やがてひとつの決断へと至る。そして彼は、

エクボは。

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