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再度、遡ること昨夜。当然、彼らの寝床は別々であった。なまえをいつものベッドに寝かせ、そのすぐ側に用意された敷き布団へと、エクボがごろんと横になる。どちらがベッドを使うかで一悶着があった(なまえが自分だけベッドで寝るのは恐れ多いと主張し、互いにベッドを使う権利を譲り合った)のだが、仕方なく平等にじゃんけんで決めることとなり、勝者となったエクボが自ら好んで敷き布団を選択した。理由は、そもそもこのベッドはなまえの物であるからというのは建前で、もし、この肉体のままなまえのベッドで眠ってみろ。彼女の匂いが染み付いたシーツや枕に包み込まれて、一晩ぐっすりと眠れるわけがない。

やがてなまえが可愛らしい寝息をたて始めたのを確認すると、エクボはそろりと毛布から抜け出し、忍び足で窓際へと向かう。その際に彼女の寝顔をちらりとだけ見て、安らかな表情にぐっとくるものを感じつつも、そっとベランダへと踊り出た。霊体と肉体があるとでは、外部からの刺激に対する感じ方が違う。普段何も感じない霊体でいるものだから「外は寒い」という概念が頭から抜けてしまっていたのだろう。夜風に肌を撫でられた瞬間、その冷たさに思わず身震いした。



「寒ッ!......チッ、ジャケット羽織ってこりゃあよかったか」



急遽決まった泊まりだったために着替えなんて用意もなく、彼は今ジャケットを脱いだだけの、普段の格好に身を包んでいた。上は白いワイシャツのみなのだから、当然寒いわけだ。それでも彼が夜風に当たりたいと思ったのは、火照った頭を冷ますため。この感覚は多分、自分は浮かれているのだろう。色々と行程をすっ飛ばして、なまえと口づけし、さらにはひとつ屋根の下で一夜を共にするーーなんてファンタジーな展開ときた。これに霊だの何だの辛気臭いものが伴っていなければ、完璧だったのだが。エクボは胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、最後の一本を口へと運ぶ。恐らく、このひと箱分ほぼ全てエクボが吸い切ってしまった。それだけ、この身体に憑依している時間が長いということなのだろう。



「......はぁ」



煙草の煙を吐き出すわけでもなく、ため息。どうしてこうも頭を悩ませなくてはならないのだ。神になるはずのこの俺様が、たった1人の女相手に。好きな女が近くにいるというだけで興奮して眠れないなんて、口が裂けても言えやしない。

その時、ただならぬ殺気を感じ取り、エクボは咄嗟に振り返る。まさか部屋の中か!?窓の鍵を開けたのは確かだが、それもほんの数分前。そこから中に入り込もうとして、エクボほどの上級悪霊となればどんなに微弱な気配だろうと感じ取れるはずなのだがーーとうとう彼は、自身の力が弱まっている可能性を否定することが出来なかった。今の彼は一度茂夫に除霊されかけて以来、かなりの霊力を失った。あれから徐々に力を蓄え、今ではそれなりに力を取り戻したと思っていたが、何かに憑依すること自体がかなりの霊力を消費する行為であり、特にここ最近は常に憑依している状態を保とうとしていたため、無意識のうちにかなりの霊力を浪費してしまったようだ。仮に憑依先の身体が誰のものでもなく、魂の入っていないからっぽな器だったならまだしも、誰かの魂とひとつの身体を共有するとなると、乗っ取る側が相手の魂に気を遣わなくてはならず、結果、大きな代償を背負わされることとなった。それでも、茂夫の側にさえいれば、消費した霊力を補えるだけの力のおこぼれを得ることができたのだがーー



「クソッ!1日シゲオの側を離れただけでこのザマたぁ......!」



火を点けたばかりの煙草を躊躇なく握りつぶし、急いで部屋へ戻ると、禍々しい気配の大元はすぐ目の前にいた。それは真っ黒な霧のように不確かで、それは男か女かも判別できず、それは紛れもなく悪霊でーーそれはなまえの身体の上に跨って、声のような音を発しながら、今まさに彼女の首を絞めているのだった。



「......へっ、そういうことかよ。お前、そんなになまえが欲しいのか?」



例え、相手を殺してでも?口にしようとして、はたと我に返る。一体自分は何を言おうとしていたのだろう。理由は何にせよ、霊が人間を死へと至らしめるのは不思議なことではない。おかしいのは自分だ。なぜ、人間を助けようとする?自分は死んでいるというのに、そこに何のメリットがあるというのか。ならば、この悪霊がやろうとしていることは利口である。愛しい人間を殺して、その魂を永遠に自分のものに出来るのだから。



「......グダグダ考えても仕方ねぇか。その前になまえが死んじまう」

「 」



悪霊が何か言ったような気もしたが、エクボは様々な思考を断ち切るべく一度憑依先の身体から離脱すると、フルパワーとまではいかないものの、霊体である本来の姿へと変貌した。しかし、その姿は茂夫と対峙した時の緑色の肌をした人型でも、ふよふよと付いて回る人魂のような姿でもなく、なまえを死へと誘おうとする名も無き悪霊のような、霧のように不確かで、それでいて比べ物にならないくらい巨大で。エクボの身体から生み出された底なしの闇が部屋一面を覆った。



「......う」

「!? なまえ!?」

「苦し......エク、ボ......」

「......あぁ、待ってろ。今、助けてやる。他のヤツになんざ渡さねぇよ」



ーーどうせ殺されるのならーー



「つーわけで、おい三下。人のものに手ぇ出したらどうなるか、俺様が教えてやる」

「 」

「お前にも言い分があるようだが、聞くつもりはねぇ。こいつはもう......"俺様のもの"だ」



何にも成さない巨大な影は、歯並びの良い大きな口をがばりと開き、そのまま悪霊を丸呑みにした。暫し、部屋中にはまるで骨を噛み砕くような歪な音が響き渡りーーやがて何も聞こえなくなった。そこに残るのは、床にうつ伏せに倒れた黒スーツの男と、まるで何事もなかったかのように安らかに眠るなまえの姿だけ。

再び、部屋には静寂が訪れた。やがて男がむくりと起き上がり、無言のままベッドへと膝をつく。ギシリと音を立てて軋んだにも関わらず、なまえが起きる気配はなかった。あのまま首を絞め続けられたとして、きっと目覚めることなく死んでいたことだろう。なんて無防備。だが、そこもまた愛おしい。男の身体へと戻ったエクボは何故だかどうしようもなくなまえに触れたくなり、彼女の顔を覗き込むと、そっとその頬へと触れた。



「......あったけぇなぁ。ま、当然か。お前さんは生きてるんだから」

「......」

「それにしても、なんつー顔して寝てんだよ。ついさっきまで死にかけてたっつーのに、......まぁ、悪霊の前で熟睡してる時点で警戒心なさすぎなんだよなぁ」

「......」



返事はない。だが、それでいい。誰かに聞いて欲しいわけじゃない。ただ、胸の内を少し、声という形にしたくなった。

目の前で他の悪霊に奪われそうになった瞬間、ぞわりと身体が泡立ち、奇妙な焦燥に駆り立てられた。「このままでは殺されてしまう」というよりも「このままでは他のヤツに奪われてしまう」ことに焦りを感じた。魂を捕えられてしまったら最後、見つけ出すことすら難しい。魂を取り込まれるとはそういうことだ。原型すら留められないのだから、それは超能力を持たない人間が、特定の霊を見つけ出すことよりも難しいことなのだ。



「しっかし、一向に目覚めそうもねぇな。んな無防備でいるから悪霊に襲われちまうんだ。......ま、俺様も例外じゃねぇんだが」

「......」

「なぁ、そろそろ寝返りでも打ってみたらどうだ?このままだと何するかわからんぞ、俺様が」



彼は、確かに思った。他の何者かに奪われるくらいなら、自分の手で、と。

そうだ。俺様は悪霊なんだ。人ひとりくらい軽く精神崩壊できる。今ここでなまえを殺し、取り込んでしまうことも可能だが、考え方によっては、憑依先のこの男を殺してしまうのもいい。そうすれば、自分だけの肉の器を手に入れることができるのだ。今までのように、この男のことをいちいち気に掛ける手間暇も省ける。そうすれば、借り物でない、俺様の手でなまえに触れることができる。



ーー躊躇うことなど何もない。

ーー悪霊が人を殺めたところで、誰も咎めることなどできない。

ーーなぁ、やれよ。やっちまえ。

ーーなまえと、生きたいんだろう?



◇◆



清々しい朝だった。結局エクボは一睡も出来ないまま、次の日の朝を迎える。カーテンの隙間から溢れ出る朝日によって徐々に明るくなってゆく部屋の中、なまえの寝顔を眺めながら、彼は考える。



「ん......、?」

「お、おはよう。いい朝だな」

「......エクボさん......おはようございます......」



重い瞼を擦りながら、なまえはひとつ欠伸をすると、開ききっていない瞳でゆっくりと瞬きをする。この様子を見た限りだと、どうやら意識が完全に戻っていないらしい。俺様のこともわかってんのかな、こいつ。エクボがひとつデコピンをお見舞いしてやると、なまえはたいして痛くもないくせに「痛ッ」なんて大袈裟に声を上げ、額に手を当てた。もしかしたら大袈裟だとかそういうわけではなく、本当に痛かったのかもしれない。霊体だと人の身体に触れることは出来ないし、加減の仕方がいまいちやりづらい。



「ふぁ......よく寝た。今日はいつもよりもよく眠れた気がします」

「......なぁ、最近寝心地が悪かったりしなかったか?」

「えぇと......私、目を覚ますと夢の内容忘れちゃうんですよね......なんか息苦しいなって思うことは度々あって、てっきり風邪でも引いたのかと......」



おいおい、なんて危機感のなさ。もしかしなくても、昨夜以外にも何度も悪霊に襲われてたんじゃねぇか?エクボは軽く目眩を感じたが、終わったことをいくら言っても無駄だと思ったのか、昨夜の出来事を口にすることはなかった。下手に刺激して、怖がらせたくもなかった。

そう、なまえは"なにも"知らない。



◇◆



その日の夜、エクボは憑依先の男をアパートに帰したあと、ただぼんやりと夜空に漂っていた。真っ暗な闇にぼんやりと浮かぶ緑色の光はとても幻想的であったが、今は可視モードでないため、一般人の視界に映ることはない。霊が見えるような、例えば茂夫のように特別な力を持つ人間というのはほんの一部で、大半の人間は彼の存在を認知すらできない。霊とは、そんな儚い存在なのだ。エクボは随分と昔に肉体を無くしてしまっていたが、自分が死んだとは思っていなかったし、今だって「生きてる」と信じて疑わない。いつしか人間だった頃の自分を知る者は皆いなくなってしまい、そんな世界でもし自分の死を受け入れてしまったら、それこそ本当の意味での「終わり」を迎えてしまうのではないかと、彼はそう考えていた。このまま誰の記憶に留まることなく、最期を惜しまれることもなく、誰にも気付かれぬまま消えてしまうような人生の終焉は迎えたくなかった。

霊幻に指摘されたように、初めは憑依している身体の意思に翻弄されている可能性を疑った。まさか霊体にもなって性欲が残っているとは思えなかったし、ならば肉体を離れた途端に彼女への想いが薄れると考えたが、どうやらそうでもないらしい。結果、自分が抱いているこの欲の名は「性欲」ではなく、一種の「支配欲」なのだと理解した。そもそもエクボは人間に崇められる存在=神になりたいと願っていたのだから、支配の対象である人間ーーなまえを支配してやりたいと思ったところで、当たり前といえば当たり前、必然的なことなのである。



「昨日はどうしたの、エクボ。ずっと姿が見えなかったけれど」

「へへっ、なんだよシゲオ。俺様がいなくて寂しかったのか?」

「別に」

「即答かよ」

「ただ、いつもと様子が違う気がして......またなにか企んでるの?」

「なんだよ、またって。別になにも企んじゃいねぇが、ちょっと考え事をな」



エクボが帰ると、茂夫は机に向かって宿題に取り組んでいた。彼は勉強が大の苦手で、超能力の使いようでカンニングだってできるだろうに、敢えてそれをしない。罪悪感だとかそれ以前に、茂夫は生まれ持った特別な力を極限使おうとはしなかった。それは、彼が慕う師匠ーー皮肉にもそれは、超能力の才能が欠片もない霊幻のことをいうのだがーーに「超能力を人に向けてはいけない」と教えられていたから。そして、人と違うことを恐れるな、とも。当時、悩んでいた茂夫を救ったのは、紛れもなく霊幻の言葉だった。以来、茂夫は霊幻に対して無条件に尊敬の念を抱いている。霊幻が尊敬されるに値する人物であるのかは別として。



「人に迷惑はかけちゃだめだよ」

「師弟揃って同じことを言うなよ」

「師匠も?......てことは、師匠に相談したってこと?」

「相談っつーか、捌け口?つーか」

「なにかあったら相談するといいよ。師匠はすごいから」

「(シゲオのヤツ、あいつのどこを見てそう言えるんだ?)」



エクボは、霊幻に対して盲目な茂夫に若干呆れつつも、彼の側まで移動し、ひょいと手元を覗き込んだ。そこにはノートと参考書が広げられており、ほぼ白紙のノートの隅には小さな落書きが描かれている。こういうところが中学生らしい。



「......ん?なんだこれ、相合傘?まさか愛しのツボミちゃんとのか?」

「!? こ、これはその......ええと、メザトさんが勝手に......!」

「メザト?あぁ、前に『(笑)』に乗り込んできたあの女か。シゲオも恋の相談とかするんだな。意外とやるじゃん。俺様に話してくれてもいいんだぜぇ?」

「そういう訳じゃないけど......話してもないのに、なぜかメザトさんには筒抜けなんだ......」

「それはシゲオがツボミちゃんを見過ぎなんじゃねぇか?周りのヤツらにほとんどバレてると思うぞ。多分」



茂夫も同じく恋をしていた。相手は学校のアイドルで、幼なじみ。きっと茂夫にとって肩書きなんて関係なくて、純粋に彼女の本質に惹かれたのだろうが、それにしたって相手が高嶺の花となると分が悪い。だが、今となってはそれすらも容易な道のりだと思える。エクボの恋は、立場だとか身分だとか、そもそも自分は悪霊だとか、悲恋として名高い『ロミオとジュリエット』にも勝るのではないかと思えるほど、逆境や問題を挙げればキリがない。冷静になってみるとそれはあまりに無謀な恋かと思われたが、かといって諦めるつもりもさらさら無かった。せめて互いに同じ立場であったなら、少しは希望の光が見えたのだろうけれど。



「なぁ、シゲオ。これは俺様の知り合いの霊の話なんだが」

「エクボに知り合いの霊なんていたんだ」

「いるっつーの!たくさん!俺様が絶頂期の時はたくさんの子分が......って、いいんだよ昔のことは。とにかく、これはあくまで知り合いの話だ」

「それで、知り合いの霊がどうしたの」

「人間の女を好きになっちまった」

「え」

「いや待て、なんだよその手の構えは。まさかお前、そいつを除霊するつもりじゃねぇだろうな......?つーか、俺様のことじゃねぇからな!?何度も言うが!」

「だって、もしかしたらその霊が女の人を呪い殺すかもしれないじゃないか。どっちみち、霊と人間が結ばれることはないんだろうし」

「ぐ......ッ、お前、結構辛辣だな」

「まぁ、少し可哀想な気もするけど」

「そう思うのなら、協力してやってくれよ。その報われねぇ霊によぉ」

「うーん......その霊はさ、その女の人がそんなに大切なの?」



茂夫の問い掛けに、エクボは声のトーンを下げ、少し間を置いてから答える。



「......あぁ、すげぇ大切なんだ」

「そう。なら、いいんじゃないかな。応援はしないけど、反対もしない」

「ほっ、本当か!?男に二言はないな!?」



茂夫は、やけにはしゃいで頭上をぐるぐると回る悪霊を手で払うと、再び宿題へと意識を集中させた。この時はエクボの言うことにさほど興味もなく、普段神になりたいだの何だの言っている彼のことだから、またよくわからないことを言い出したのだろうと軽く受け流していた。

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