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ビルの屋上から突き落とされたというのに、いざ外に出てみるとヤツは死んではいなかった。多少怪我を負ってはいるものの、命に別状はないだろう。元々殺す気はなかったんだけどね。普通の注射針なら刺さらないだろうから、そのあたりはネブラの試作品を使ってみる事にする。題して『ダイヤモンドよりも堅い注射針』ネブラ曰く。
薬の中身は、矢霧製薬の方に頼んでおいた。薬の調合の腕に関しては確かだ。まさか本当にこんなものまで作れるとは……正直、半信半疑だったんだけど。そういえば波江さんも、電話越しにこう言ってたっけ。
「忘れ薬ねぇ。調合次第で作れなくはないかもしれないけれど……そんなもの何に使う訳?貴方の事だから、どうせろくでもない事に使うんでしょうけど。効果に自信はないわよ?現時点ではまだ開発途中なんだから。それでも欲しいって言うのなら」
こうして送られてきたのがあの薬。使用後の服用した人体反応を報告する事を条件として。あちら側の人間としても、自分らでわざわざ人体実験をする手間が省けたって訳だ。お互い悪い話ではない。寧ろ好都合。もしあの薬が毒入りだったとしたら、確実に殺せたかもしれないのに。きっとあの瞬間が俺にとっての、一生に一度の好機会だった。あんな時じゃないと、ろくに触れさえもしないからねぇ。
だけどあの薬のもたらす効果はきっと――シズちゃんが死ぬよりも恐れている事だろう。コロッと殺してしまうのはつまらない。そこで俺は考えた。一瞬で終わる苦痛よりも、永い生き地獄を味わってもらおうと。
――全て白紙に戻すのだ。
――そう、これはみさき自身が願った選択。
俺は、みさきを愛してしまったが為に歪んでしまったアイツを殺す。そしてみさきを忘れてしまった頃――シズちゃんは以前までの『平和島静雄』に戻るだろう。人を愛する事を知らない、ただの自動喧嘩人形に。
今やみさきのいないこの池袋で、それでもシズちゃんはこれからも池袋最強でなくてはならないのだ。弱りきったシズちゃんも見物だけど、今このタイミングで池袋の均衡が崩されてしまうのも色々と都合が悪い。ならば全て、忘れさせてしまえばいいじゃないか。あの『忘れ薬』でどれほどの効果が得られるのかは、未だ定かではないのだが――
「うまくいったよ、お陰様でね」
「あら、そう。別にどうだっていいけれど。ただ薬の効果さえ確認できれば」
「相変わらず冷たいなあ。それにしても、本当に凄いよねぇ、最近の医療ってのは。人を拐ってまで苦労してきた甲斐があったんじゃない?」
「……ほんと、嫌な人」
受話器の向こう側で、波江さんは呆れた風にため息を吐き、言葉を続ける。
「あれは完璧な忘れ薬なんかじゃあないわよ。ちょっと薬に手を加えただけ。要するに、人間の記憶を司る脳を一時的に麻痺させてるって訳。記憶の綻びさえ見つけてしまえば、記憶なんてすぐにでも取り戻せるわよ。大体、本物の忘れ薬なんて、黒魔術でも使わない限り無理な話ね」
「ふうん、それじゃあ聞くけど、その薬の効果は大体どのくらい続くんだい?」
「服用した人間の体質によるけれど、そうねぇ、……2年くらいかしら」
――2年……十分だ。
――俺としては、少なくともシズちゃんには2年ほど『池袋最強』でいてもらえればいい。
――いずれ、時は満ちる。
「楽しみだよ、とっても」
自分の思い描いた未来を夢想する。それを実現させる為には、まず確実に段階を順序よく踏んでいかなくてはならない。時間を惜しまず、少しずつ少しずつ。
目の前のPC画面に目を向けると、最近池袋中で持ちきりの『通り魔事件』について大袈裟に取り上げられている。その事件は多くの者を驚かせ、そして遠く各地にまで広がってゆく。マウスを手に取り画面端をクリックすると、とあるページへと画面が飛ぶ。黒を基調としたページの中央部に、特徴的かつシンプルなロゴ。『ダラーズ』と名付けられた、まだ小さくも確実に勢力が伸びつつあるカラーギャング。……とは言っても、途中から数を増やし始めたのは俺なのだが。
――まずは、コレをどうにかしなくちゃね。
――話はそれからだ。
無色透明だからこそ、これほど動かしやすい格好の獲物は他にはそうそういないだろう。俺はその詳細不明の、謎のカラーギャングの創始者であろう少年――竜ヶ峰帝人を思う。それと同時に、チャット仲間である田中太郎の事を。
夜 チャットルーム
セットンさんが入室されました
[ばんわー]
【あ、こんばんはです】
《どーも☆》
[あれ、何だか珍しい組み合わせですね]
[なに話してたんですか?]
《太郎さんからセクハラを受けてましたぁ!》
【!?】
【ち、違】
【違いますからね!?】
[大丈夫ですよ、太郎さん。もう慣れてますから]
《もう、冗談が効かないんだからー!》
《冗談ですよ、冗談!》
【ああ、頭痛が……】
【まあ、池袋の近状やらを少し】
[近状?]
《いやあ、太郎さんって反応が楽しくて、からかい甲斐があるんですよう!》
《それがもう楽しくてw》
[甘楽さんはサディストのようですね]
《それを言うなら、太郎さんはMですね!》
【もう、やめて下さいよ】
【それにしても、カラーギャングって本当に怖いんですね……】
[今はまだ落ち着いてきた方ですって]
[普通に暮らしてさえいれば、特に害はないですし]
《そんなのより、池袋にはもっと凄い人達がいますからね》
《人、なのかも分かりませんが》
【え】
【なんですか、それ】
《それは……》
《……ま、お楽しみって事で☆》
【ええ!?】
【いりませんよ、そんな焦らし!】
《ふっふー》
《焦らしプレイってやつですよ☆》
《ま、今度色々と教えてあげますから!》
【今の言葉、忘れないでくださいよ!?】
【甘楽さん、ただでさえすぐに忘れやすそうなんですから!】
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・
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♂♀
川越街道某所
新羅のマンション
「ねぇ、セルティ。お楽しみ中のところ悪いんだけど……」
『なんだ。仕事か?』
「いや、静雄の事なんだ。今日、随分とおかしな事になってたじゃない?」
『ああ、確かに……しかもよりによってみさきちゃんの事を忘れるなんて……何だか裏がありそうだな』
「薬を盛られたって可能性もあり得るけれど、僕は静雄の気持ちの持ちようも関係してるんじゃないかなって思う」
『?』
「人間の脳って優秀そうに思えて、実はそうでもないんだ。部分的な記憶喪失なんて、そう珍しい事でもないし。特定の人物を強く考え過ぎてしまったせいで、その部分だけ欠落してしまったという例もあるんだ」
『しかし、毎日顔を合わせているような人の事を、こうもあっさりと忘れてしまうものなんだろうか』
「大切な人、だからこそさ。それに静雄の場合、みさきちゃんへの愛情が既に歪んでしまっていた。多分、本人も気付いていたんじゃないかな。自分の愛を押し付けてしまえば、少なからず相手を傷付けてしまう事を。ならばいっそのこと忘れてしまった方が、みさきちゃんの為になるんじゃないかって」
『……もしかしたら静雄は、みさきちゃんの為に敢えて思い出そうとしないのかもな』
「きっと、本能的に自分でブレーキをかけているんだろうね。自覚はないんだろうけど」
――静雄は、歪んでしまったみさきちゃんへの想いを思い出すのが恐いんだ。
――……私と、似ている。
――自分の首を探している反面、取り戻した時にどうなってしまうのか。
――過去の自分を取り戻した時、今の自分はどうなってしまうのか。
何年も生活を共にする新羅にさえ打ち明けた事のない悩みに頭を抱えながら、私はPDAに打ち込むべきか躊躇った。しかし結局打ち明ける事はせず気を取り直して別の言葉を打ち込む。
『結局、どうする事が正しいのかさえ分からないな』
♂♀
同時刻 池袋某所
高い位置から、視界下に広がる池袋の街並みを一望する。この街は本当に飽きない。見ていて楽しい観察対象でいっぱいだ。俺をいつも楽しませてくれる。
あの子は少しばかりここを離れてしまったけれど――だからといって、あんなに弄り甲斐のある玩具を簡単に手離す訳がないだろう?
「(諦めは悪い方だからねぇ、俺)」
片手で携帯を操作しつつ俺は口端を歪ませた。時が来るまで、他の害虫がつかないように見張っているだけさ。なんたって彼女は、今も俺の秘書なのだから。だからこそ雇い主である俺の監視下にいるっていうのは当然の事じゃないか。
しばらくは会えそうにないけれど……次逢う日を、今から心待ちにしていよう。
――それにしても、
みさきは確かに可愛いけれど――痛みに歪んだ顔はもっと愛しい。それにいち早く気付いてしまったシズちゃんが心底恨めしいよ。俺が先に気付いていれば、決してシズちゃんごときをみさきと出逢わせたりなんかしなかったのにねぇ。
時々考える。俺がシズちゃんよりも先にみさきと出逢っていたら、何か変わっていたのだろうかと。初めはただの『楽しい観察対象』でしかなかった。ただシズちゃんが苦しむ姿が見たくて、そのために利用してやろうと思ってた。初めから捨て駒のつもりだった。あの子を調べていく過程で浮き彫りになってきた存在――『罪歌』。罪歌については前々から色々と興味があった。数年前に、埼玉と新宿で起きた切り裂き魔事件。まさかみさきが被害者の1人だったとは。ここで驚くべき事は、他の被害者が重傷であったにも関わらず、唯一彼女だけが全くの無傷であった事。
――自力で逃げた?……いいや、その可能性は極めて低いだろう。
――それでは、何故?
――何故、罪歌はみさきを"愛さなかった"のか?
何となく察しはつくけれど、俺は是非その真実を本人の口から直接聞きたい。あの子への探求心は尽きる事を知らない。しばらくは飽きそうにない。俺の今興味があるのは3つ。首なしライダーに、謎のカラーギャング『ダラーズ』。そして最後に――苗字みさき。少女に向けられた探求心や関心は、やがて歪な愛情へと変わっていった。ゆるやかに、まるでそうなる事が自然であるかのように。
俺はポケットの中から何かを掴み取ると、鎖を持って空にかざした。シャラリ、と小さな鎖の音。思わず両目を薄く細め、「まるで首輪だ」――吐き捨てた。