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俺は昨晩、ビルの屋上から落ちたらしい。自分の事なのに『らしい』なんて随分と他人行儀だと自分でも思うが、覚えていないのだから仕方がない。だがこの状況から察する限り、きっと俺の考えは正しいと思う。

ふと目を覚ますと、そこには白い天井――ではなく青い空が広がっていた。寝そべっていた場所も、いつものベッド――ではなく固くてゴツゴツした地面。寝心地の悪い事と言ったらありゃしねぇ。おかげで俺は身体中が筋肉痛……だよな?



「(筋肉痛にしては、足が異様に痛むような……)」



1人で首を傾げていると肩をポン、と叩かれる。振り向いてみると、そこには見慣れた上司の驚いた顔。



「静雄……だよな?どうしたんだよ、こんなところで」

「うっす、トムさん。実は俺も訳が分からなくて……多分、このビルから落ちたらしいんすけど」

「はぁ?」



簡単に事情を説明してから、すぐ隣にそびえ立つビルを指差す。トムさんはすっとんきょうな声をあげると、苦笑まじりに呟いた。



「落ちたっつっても……これ、何階建てよ」

「まぁ、足が少し痛みますけど、特に異常はないんで多分大丈夫っすよ」

「そか?お前が大丈夫だって言うんなら、俺は別に構わねぇけどよ……」



腕を組んでビルを仰ぎ、両目を細めるトムさん。やがて何かを思い出したように、俺の方へと視線を戻す。



「おお、そうだ。静雄、この前仕事早退したの、みさきちゃんが心配だったからだろ?あんだけ事故現場が近けりゃあ、そりゃ不安にもなるわな」

「……みさき?」

「今更とぼけんなって!トムさん、分かっちまってんのよ?なんたって人生の先輩だかんな。そんで、何事もなかったんだろ?」

「……いや、あの、トムさん。俺、話に全然ついてけないんすけど」

「ん?」

「え」

「……」

「……」



暫し沈黙の時が過ぎ――「全然大丈夫なんかじゃねぇ!」何の事だかさっぱりだが、トムさんがいきなりそんな事を叫ぶので、思わず本気でビビってしまった。

それからは、やけに俺の頭ばかりを心配するトムさん。俺から言わせれば、頭よりも足が痛ぇ。トムさんが執拗に病院を勧めてきたので、仕方なく新羅のマンションへと行く事にした。痛む右足を引きずりながら。一度は新羅に拒まれるものの、ムカついたんで強制入室。部屋に入ると、セルティが快く迎えてくれた。



「あーあ、今日はセルティとの久しぶりの休日だから、欣喜雀躍としていたところだったのにさ!」

「そうか。悪いなセルティ」

「え、僕への謝罪はなし?」

『そんな予定はない!それよりも早く静雄を看てやれ!一応医者だろうが!』

「一応なんて酷い!僕はれっきとした医者だよ!」



そんな会話を交わしながらも、新羅に足を看てもらう。新羅はしばらく足の関節を曲げたり戻したりさせつつ、特に何てことのないケロリとした表情で告げる。



「あー、これは骨が見事に折れちゃってるねぇ」

「おーまじか」

『静雄が骨折なんて珍しいな。何があったんだ?』

「どうやらビルから落ちたらしい」

『は!?』

「……いや、確かに毎度毎度凄いなぁとは思っていたけど、まさかここまで化け物じみているとは。ていう事で解剖させてよ。多少のメスの犠牲は払うからさ」



足の手当てをしているはずが何故かメスを取り出す新羅。そんな新羅を軽くどつく……つもりが、案外力が強かったらしい。「へぶし!」と妙な叫び声をあげながら、ゴロゴロと部屋の端まで転がっていった。包帯の巻かれた右足を、試しにブラブラ動かしてみる。やはりビルから落ちるとなると、流石にそれなりの怪我は負うらしい。しかし先程よりは確実によくなってきているのが分かる。回復の早さには自信がある。

ふいにテレビ画面が視界に入る。アナウンサーが立っている場所に見覚えがあるような気がして、頭の思考回路を働かせてみる。



「ああ、まだ解決してないんだ、この事件。池袋も随分と多事多難な街になっちゃったもんだよね」

『被害者の女の子、大丈夫なのかな……無事だといいんだけど……』

「そういえばこの事故現場って、静雄んちからかなり近い場所じゃないか」

『ほ、本当だ……』



――言われてみれば、確かに……



見覚えのある風景。そこは、俺がよく仕事からの帰宅時に利用する路地裏だった。毎日通っているというのに、いざテレビに映ると違う場所に見えてしまうものだ。どうやら切り裂き魔事件が起きた現場らしい。



『なあ、静雄。大丈夫だとは思うが……みさきちゃんにも気を付けるように言っておくべきなんじゃないのか?』

「もしかしたらこの事件の犯人は、女子高生ばかりを狙う変態だって可能性もあり得なくはないからね」

『……』

「どうしたんだい?セルティ。そんな半信半疑な目で僕を見て」

『いや、変態と聞いて思い当たるのがお前しかいないなぁって』

「そんな!ああ、認めよう。僕は確かに変態だ!だけど僕はセルティ以外に興奮なんかしないし、そもそも人を斬るなんて手荒な真似は……」



ああ、まただ。俺の周りは知っていて、俺だけが知らない人物の名前。



「なぁ、さっきトムさんも言ってたんだけどよ……その、みさきって、誰なんだ?」



ギャアギャアと騒いでいた2人は同時にピタリと動きを止め、顔を見合わせ――



「ああ、どうやら静雄は頭を強く強打したようだね」





その後場所を移動し、強制的に脳のレントゲン写真とやらを撮らされたが、やはりどこにもそれらしき異常は見当たらなかった。

『そうだ!直接本人に会えば思い出すんじゃないか?』と言って部屋を出て行ったきり、セルティは未だに帰って来ない。ベッドに寝かされている俺は、ゆっくりと上半身だけ身体を起こす。何かが変なんだ。周りの態度も――俺の身体も。



「本当に覚えていないのかい?」

「だから、何をだよ」

「……参った。脳専門じゃあないんだよねぇ、僕」



頬をポリポリと掻きながらうーん、と困ったような顔をする新羅。一体なんだというのだろう。やはり、確実に何かがおかしい。それなのに、周りはまるで俺がおかしいとでも言いたげな目で見る。俺はどこもおかしくなんかないってのに。

しばらくして、セルティは1人で帰って来た。何故か緊張して強張っていた背中を丸める。なにを無意識に期待してたんだ、俺。



『駄目だ……どこにもいない』

「静雄。本ッッ当に何も覚えていないのかい?」

「だから、誰なのかも知らねぇ人間を思い出せって言われてもなぁ」

『「……」』



――だから、なにが何だってんだ。

――みさきって一体、誰なんだ?



思い出そうとする度に、頭の奥がツンとして痛い。思い出したいのに思い出せない。なんてもどかしい話。だけど、どうしてだろう。『みさき』という名を口にするだけで、心臓を掴まれるみたいにギュッとする。『みさき』の姿を思い描こうとする度に、心の中がほんわかと温かくなる。

これ以上彼らの貴重な休日の邪魔をしては悪いので、お礼を告げてから早々とマンションを出た。肝心の右足は、もう歩くのに差し支えのないくらいにまで回復していた。ぼんやりと空を仰ぐ。今はまだ見えないけど、誰かが池袋の夜空を綺麗だと言った。この道を誰かと一緒に通った。とても大切な事なのに。再び思い出そうと試みるが、それでも肝心の部分が欠落していてどうしても思い出す事ができないのだ。まるで靄が掛かっているような――そんな感じ。



『兄さん、久しぶり』



そのまま1人でぼんやりとしていると、ふいにポケットの中の携帯電話が鳴り出した。すぐさまディスプレイを確認する。……幽だ。



「よ、よう」



何事もない風に言ってみたつもりが、ほんの少し裏返る声。押し寄せる罪悪感。



「どうした、何かあったのか?」

『いや、この間の通り魔事件、兄さんちの近くだったから……気になって』

「はは、俺の事なんかは心配すんなって。そんな事より、映画の撮影とかで毎日忙しいんだろ?」

『……知ってたの?』



一聞、機械のように変わりない幽の声音がほんの少し変わる。いつの間に知っていたのだろう、と純粋に不思議に思っているようだ。



――……ああ、そうだ。

――幽の撮影現場を見かけたにも関わらず、俺は顔も合わせずに逃げたんだ。

――罪の意識に耐えきれずに……



俺は幽との約束を守れなかった。仕事を長く続けられるようにって、俺はあんなに貰うものだけ貰っておいて――……て、あれ?本当に、それだけ?他にも誰かと約束を交わしたような、


「あ、そうそうシズちゃん!今日野菜が安かったからさー今度一緒に鍋でもやろうよ!」



「……ッ!」

『? 兄さん?』

「あ、あぁ……悪ぃ、何でもねぇよ」

『……』

「……なぁ、幽」

『なに?』

「その、別に深い意味はねぇんだけど、みさき、って名前に聞き覚えあるか?」

『……』

「……」

『……以前、ドラマで共演した大物女優に、そんな名前の人がいたっけかな』

「そ、そうか」



まさか俺みたいな一般人が大物女優と関わりがあるはずもないし。多分、周りの言うみさきとは全くの別人だろう。幽はしばらく電話も切らずに黙り込み――



「……幽?」

『兄さん、女の人の名前を話題に出すなんて、相当珍しいよね』

「え」

『それって、好きな人?』

「ッ!ば……ッ、そんなんじゃねぇって!」



何故か痛いところを突かれたような気がして、まるで好きな人がバレそうなのを必死に否定する小学生みたく。別に何とも思っていないのなら「そんなんじゃねぇよ」と笑って受け流せばいいものを。そもそも顔も知らない人物じゃないか。

好きも嫌いもあるものか。



『……この前の撮影日、兄さん、近く通ったでしょ』

「! き、気付いてたのか!?」

『あ、やっぱりいたんだ』

「……」



――……やられた。



短絡的な俺と違って、つくづく策士な奴だと関心しつつ、思わず言葉に詰まる。



『今度は、顔くらい見せてよ』

「……わ、悪ぃ」

『別にいいけど。なにか落ち込むような事、あったんでしょ』

「?特に思い当たる節はねぇけど……」



わしわしと頭を掻きながら最後に「多分」と付け足した。なんだか訳の分からない事ばかりで、だんだんと自分の事や記憶までが曖昧になってきてしまった。



『だって、今の兄さん、いつもと違うよ』

「……?」

『まるで兄さんが昔、落ち込んでいた時みたいだ』





きっと、誰よりも俺と長い関わりを持つ幽。そんな彼が言うのだから、俺は今悲しいのかもしれない。だけど原因が分からないから手の施しようがない。原因を知るにも記憶がない。そんな負の連鎖の繰り返しだ。だとしたら、俺はいつ悲しくなくなるのだろう?「もしくはこのまま永遠に続くのだろうか?」「この喪失感を代わりの何かで埋める事はできる?」そんな自問自答を巡らせながら、その度に頭を痛めながら――

自宅に着くまでの道のりで、たくさんの記憶の欠片達が頭の中に浮かんでは消えた。それはとても朧げで、思い出そうとすればするほど瞬く間に消えてしまう。どこか幸せな気持ちに浸りつつも俺は玄関の扉を開いた。1人の時間には慣れている。独り暮らしを始めてから、もうそれなりの月日は経つのだから。それでも空っぽの部屋を見て思う。



「(何かが、足りねぇ)」



そんなはずはない、と首を振った。だから今込み上げてくるこの感情も、きっといつかは癒えるだろう。

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