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「どんだけ皮膚頑丈なのさ。死んでくれたらラッキーって思ってたんだけど……ま、一般人の常識を今更押し付ける気はないよ」



やがてビルの屋上から降りて来た臨也が、俺の顔を覗き込む。心底可笑しげに。



「……て、め……ッ」

「喋らない方がいいんじゃない?流石にダメージはあるんだろうし……いや、むしろ俺を罵りながら死んでくれたって、俺はいっこうに構わないけど。そんな事したら、あの子が悲しむだろうけどねぇ」



みさきの携帯が入っていない方のポケットをまさぐり、臨也は一本の注射器を取り出すと俺の腕に宛がる。

薄い緑色をした、得体の知れない薬液。注射器が傾くと同時に中で薬液が音を立てて、チャポン、と小さく水のはねる音が木霊した。



「あの子って……みさきの事かよ……」

「そうだよ。他に誰がいるのさ?……ま、もうじき全て忘れられるよ」



本能的に、嫌な予感がした。すぐにでも起き上がろうとしたけれど、どうやら足の骨を折ってしまったらしい。俺が動けない事をいい事に、臨也はゆっくりと更に言葉を紡いでゆく。



「……んだよ……、それ」

「『忘れ薬』とでも言っておこうか。屋上から落ちても死なない身体に人並みに効くかは別として……きっと楽になれるよ。簡単な話さ。君がみさきの事を忘れてしまえば、全てが元通りになる。シズちゃんがみさきの事で苦しむ事は、もうなくなるんだよ?それって……素敵な事じゃない」



――楽になれる。

――この痛みから……解放される?



もしこの痛みがみさきを想うあまりに引き起こされたものだとしたら、確かに俺がみさきを忘れない限り癒える事は到底ない。それを注射器1本でいとも簡単に、強く歪んだ感情を断ち切る事ができるというのか。

みさきのいない世界を夢想する。それはとても色褪せた世界。俺がその選択を選んだとしたら、みさきは幸せになれるだろうか?もしそうだとしたら……いっそのこと忘れてしまうのもいいかもしれない。薬にでも頼らない限り、俺はみさきを手離せないと思うから。



「……」

「怖いのかい?」

「……いや、なんも感じねぇな。ただ……俺はみさきを絶対に忘れねぇって確信はある」

「へぇ、随分と強気だねぇ。……忘れるよ。何もかも。君の中から、みさきの存在が消えるのさ」



みさきのいない池袋での数日間でさえ、こんなにも辛かったというのに。この先のまだ長いであろう人生にみさきがいない事を考えると、じんわりと目頭が熱くなった気がした。情けねぇ。本気で泣けてきた。だけど臨也なんかの目の前で絶対に泣いてはやるものか。

臨也を睨み返すフリをして必死に込み上げてくるものを堪える。正直、『忘れ薬』なんて都合のいいものがこの世にあるとは思えない。コイツは俺を脅したいのか?真意が全く読めない。



「手前は……なにが目的だ?」

「滑稽な事を聞くねぇ。ないよ。そんなん。今の俺の行動は彼女の意思であって、俺の意思じゃあない。もし俺のやりたい風にやっていたら、きっとこの一生に一度のチャンスを生かしてシズちゃんを本気で殺しにかかるよ」



――ああ、本気(マジ)か。

――俺はみさきを忘れるのか。



今の少ないやり取りで確信した。嘘や冗談なんかじゃない。コイツは本気で言っているんだ。彼女――恐らくみさきの意思に従って。

みさきは……俺を忘れたいのか。全て忘れて、埼玉での新しい生活を始めたいのだろうか。それを「薄情者」と言って罵るつもりはないし、その無情な行動に悲しむ事もない。何も感じないと言ったら嘘になる。それがみさきの選んだ道ならば俺は素直に従おう。今の俺に出来る事なんて、きっとそんな些細な事だから。



「これで、みさきの事が好きな君は"死んだ"……て事にでもしておこうか」



注射針は思っていたよりも呆気なく俺の皮膚へと突き刺さった。何か特殊な素材でできているのだろう。新羅の使っている一般人向けの注射針なんかだと、刺さるどころか折れてしまう。

普通の注射も刺さんねぇし高いビルから落ちても死なねぇ。そんな俺に死ねる方法が1つだけあるのだとしたら、それは多分――



「どうせ忘れるんだろうからさ、最後にいい事教えてあげる」



だんだんと虚ろになってゆく意識の中、俺は臨也の声を聞いた。透き通っていてそれでいて大嫌いな声を。



「みさきがいなくなったのは……シズちゃん。君のせいでもあるんだよ」

「……?」

「みさきは君が好きで好きで……本当に大切に思っていたんだろうねぇ。どうしてシズちゃんなんかを好きになっちゃったんだろうねぇ。……そうしたらみさきも、あんなに苦しむ事なんてなかったのにねぇ……」



やけに感情の隠った声だと思った。その言葉を素直に受け取るべきなのか、喜ぶべきなのか悲しむべきなのかも――分からない。

ゆっくりと、しかし確実に薄れてゆく意識。注射針の細い先端から滲み出る液体が、血液と共に身体中を巡りゆく感覚。そうか、これが『忘れる』って事なのか。よく分からねぇけれど。



「ばいばいシズちゃん。次会う時は……『池袋最強』で頼むよ」



薬の効果に抗う事も出来ず俺は意識を手離した。



♂♀



数日前 新宿某所
高層マンション最上階


バタン、とドアが開かれる音。この部屋のドアを開ける事が出来る人間は、現時点で俺を含め2人しかいない。きっと"彼女"だろう。

飲みかけの紅茶をデスク隅に置き、俺はゆっくりと椅子から立ち上がった。しかし俺が玄関まで出迎えに行くよりも先に、この部屋の扉が荒々しく開かれる。何事だろうと視線を向けると、そこには今にも倒れそうなみさきの姿――



「みさき……?」



いつもは『ちゃん』付けで呼んでいるのにも関わらず、思わず呼び捨てにしてしまった。そのくらい珍しくも焦っている自分がいる。優雅な昼時にやって来た彼女は――血だらけだった。

あまりにも無惨なその姿は何かの事件に巻き込まれたのかと思わせるくらいに酷い。腹部あたりから滲み出る赤。押さえつけたみさきの手が、これ以上の出血をかろうじて防いでいる。



「一体、何が……」

「だ、大丈夫ですから……そんな事より、私、臨也さんに話があって……」

「分かったから。とりあえず……座って、ね?」



口では大丈夫だと言い張るみさきを無理矢理ソファに座らせて、急いで救急箱を持って来た。仕事上怪我をする事はしょっちゅうだったから、簡単な手当てになら多少の自信はある。一瞬新羅の元に連れて行こうかと考えもしたが、そう告げるとみさきは首を振った。



「そうしたらきっと……新羅さん、シズちゃんに連絡しちゃうと思うから……」

「……」



どうやら内密な話らしい。今はみさきの身体の方が心配だったけれど、とりあえず彼女の意思を尊重する事にする。みさきの呼吸が荒い。まるで何かから逃げて来たかのようにも見える。俺は出来るだけ冷静な態度を崩さずに、静かに問う。



「何があったんだい?」

「……私は、確かな罪歌の情報を持っています……」

「……?」

「取り引きを、しませんか?」



――……取り引き?

――こんな時に、何を?



「約束通り、臨也さんにも情報は提供します。ですがある条件付きで」

「……何を言うかと思いきや。みさきちゃんもなかなかズル賢くなったよねぇ」



一体誰の影響なのか、なんて分かりきった事は置いといて。



「お願いがあるんです」

「いいよ。とりあえず内容を聞いてみよう」

「ありがとう御座います」



みさきは小さく頭を下げると、ゆっくりとその場から立ち上がり、自らの服に手を掛け――



「……えーと、俺は目を瞑っていた方がいいのかな?」



パサリ、と服が脱ぎ捨てられ、思わず視線をそらしてしまった。今更少女1人の半裸にこんなにも動揺するなんて、滑稽な話だ。

それに反してみさきは至って冷静に、次第に剥き出しになった傷だらけの肌に手を添える。ギクシャクとした動きで視線を戻し、まず視界に飛び込んできたのは一際目立つ腹部の生傷。



――あれ?この傷……



頭に浮かんだ疑問を投げ掛けぬまま、俺はみさきの顔を見つめる。



「ついさっき、罪歌に会いました。なんとか攻撃は避けたんですけど……その際古傷が開いてしまって」

「(……ああ、あの時の)」



――俺が、刺した。

――……まだ残っていたのか。



いとおしげに、再度傷跡に目を向けた。自分の残した跡が消える事なく残っていたのが、こんなにも喜ばしい事だなんて。俺も随分と歪んでしまったようだ。

あの瞬間――みさきを斬った時の感覚を思い出す。あの肉が裂ける感覚を。あの清々しくも感じた快感を。



「シズちゃんが異様に君に傷をつけたがる理由、分かる気がするよ」



俺は救急箱から包帯を取り出すと、その傷を覆うようにぐるぐる巻きにした。完全に傷跡を覆った後、包帯の上からそっとキスを落とす。小さな願いを込めて。

「それじゃあ、そろそろ本題に移ろうか」改めて彼女と向き合って座ると、みさきはほんの少し躊躇った後静かに言葉を紡ぎ始めた。



「今日にでも……池袋を出て行くつもりです。というよりは、東京自体を」

「……え?」

「もう、時間がないんです。早くしないと……罪歌がシズちゃんを……」



彼女は一瞬だけ俯き、そのまま言葉を続ける。



「……だから、どうか私がいなくなってもシズちゃんが動揺しないように……」

「ちょっと待って。どういう訳?みさきちゃんがここを離れなくちゃいけない理由がどこにあるんだい?」

「……すみません。巻き込みたくないんです」

「俺は既に深くまで踏み込んでいるつもりだよ。もしみさきちゃんが俺を心配しているのなら、それは有り難い事なんだけど……」

「罪歌の正体は、贄川さん」



俺の言葉を遮るように、彼女は真実を口にする。それは今回の件に置いて、最も価値のある重要な情報。どうやらこれ以上自分の事を話すつもりはないらしい。

フゥ、と1つため息を溢しソファの背もたれに身体を預ける。きっと俺が何を言ってもみさきはすぐにでも池袋を離れるだろう。何かを決心したようなその瞳が、俺に無言で訴えかける。



「……分かったよ。だけど手段は選ばないよ?きっとアイツは、既にみさきちゃん無しじゃあ生きられない程に歪んでしまっているんだから。それなりの強行手段が必要だろうし」

「はい」

「だから、もしシズちゃんが君を永遠に忘れてしまうような事があっても……君はそれに耐えられるのかい?」

「ッ ……は、い」



真実は本人しか知らず、か。そうまでしても守りたいのか、アイツを。何となくは察しがつく。敢えて言葉にはしないけれど。今それを言ったところでみさきの決断は揺るぎないだろう。



「最後に1つ、聞いてもいいかな」



一旦脱ぎ捨てた服を再び羽織りながら、みさきが顔だけをこちらに向ける。「君はシズちゃんの事を、どう思っていたんだい?」――彼女は特に迷う事なく、満面の笑みでこう答えた。



「大好きでした。……いや、今も。多分これからの人生で、シズちゃん以外に人を好きになれる事、ないんじゃないかなってくらい」










人になった化け物と、人を愛せない少女。そんな2人が相互に補完し合う事によって、より有効に目的が達成されるような――そんな補完財のような関係。きっと俺が思っている以上にその繋がりは強いのだろう。

そして一番滑稽なのが、そんな少女に恋心を抱いている俺自身なのかもしれない。チクリと胸が痛むのを誤魔化すように、俺は小さく嘲笑った。本当に愛したい人を愛せなかった、哀れな1人の情報屋の事を――

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