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トムさんから切り裂き魔の話を聞いた。
「そういや静雄。今日の速報見たか?」
事故現場は俺のアパートのすぐ近くだと聞いた。被害者も加害者も今は行方不明らしい。そしてその被害者が女子高生だという事も。
そんなはずはない。みさきのはずがない。そう言い聞かせてみたけれど、不安で不安で仕方なかった。仕事を早々と早退して、慌てて自宅へと向かう。頭の中で最悪の事態を想定しつつ。
――……おいおい。
――まじでシャレになんねーぞ、コレ……!
帰り際に通りかかった事故現場にはたくさんの野次馬で溢れ返っていた。パトカーなんかも数台止まっている。黄色いテープで囲まれたそこには、あちこちに飛び散った血痕の数々。
その光景に思わずゾクリと血の気が引いた。あの血が仮にみさきのものだったりなんかしたら、と。
「切り裂き魔……前にもあったなぁ、こんな事件」
「あの時の犯人も、まだ見つかっていないんでしょう?」
「怖いわねぇ」
そんな野次馬たちの会話があちこちから聞こえてくる。とにかく今はみさきの無事を確認しようと、歩く足のスピードを更に速めた。
みさきの無事を願った。だけど、そんな俺を待っていたのは――無情にも静まり返った部屋。他は何1つ変わらないのにみさきはいない。まるで今まであったものが切り取り線で切り離されてしまったかのように。
「……クソッ!」
再び部屋を飛び出して、池袋の街中に身を置いた。以前みさきが出て行ってしまった時とは違う。何も感じられないのだ。みさきの気配を……この池袋の街で。
――……畜生ッ!
――どこに行っちまったんだ……!?
その後、俺はひたすら街中を探し回った。ただ自分の勘だけを頼りに。歩いて歩いて歩きまくって――それでも結局みさきの姿を見つける事は叶わなかった。大丈夫。あいつの事だ。きっと明日にでもヒョッコリ笑いながら帰って来るだろう。そしたら俺も笑いながら本気で叱ってやるんだ。
明日も明後日も明明後日もみさきが現れる事はなかった。俺はただ帰りを待ち続けた。時の流れに身を委ねながら。みさきのいない毎日は退屈だった。たまにニュースで切り裂き魔の事が騒がれていたが、そんな具合で気付けば日が経ち――ニュースから切り裂き魔の話題が消えた頃、受け入れがたい現実を噛み締めた。
「本当に、いなくなっちまったのか……」
物凄く――今更に。涙は出ない。それはきっと心のどこかでみさきの存在を信じているから。気配も何も感じられないし、根拠なんてものもない。みさきの安否すら断言出来ない。それでも、不思議と悲しくはない。フワフワと、まるで夢を見ているかのような感覚。ぽっかりと心に大きな穴が空いた感覚。ああ、そうか。これはあの時見た悪い夢の続きなんだ。そのうちきっと目覚めるだろう。
その日、1通のメールが届いた。今夜この場所に来て欲しい、と。直接話したい事があるから、と。
♂♀
PM8:00
池袋 某ビル屋上
「なんで手前がいるんだよ」
みさきに会えると思ってここまで来た。そんな期待はすぐに打ち砕かれる結果に終わる。月明かりに照らし出されたその人物を見るなり俺は小さく舌打ちした。
いつもそうだ。こういう時に顔を合わせるのはいつだってコイツ。それが俺を更にイラつかせるんだ。期待していただけに、落胆も大きい。よりによって、どうして臨也なんかがここに。
「あは、やっぱり来た」
「手前……なんでみさきからのメールの内容を……」
そこまで言いかけて、臨也の手に握られているものを見てハッとした。見覚えのあるキーホルダーに、白い機体。間違いない……あれは確かにみさきの携帯だ。
みさきは携帯を滅多に手離そうとしない。ならば尚更どうして臨也なんかがみさきの所有物を持っている?
「……それ……」
「どうしてお前がそれを持っているのか?……て顔してるね。確かにこれはみさきちゃんのもの"だった"けれど、今は俺のものだよ」
「なに訳の分からねぇ事言ってやがる……貸せ」
「やーだよ。シズちゃんに渡しちゃったら、絶対に返してくれないじゃない」
臨也はみさきの携帯をズボンのポケットにしまい込むと、座っていたフェンスの上から飛び降りる。
「それに、言ったじゃんか。今は俺のものだって。俺が君を呼び出したのさ」
「……」
生憎、ビルの屋上には投げつけられるようなものは見当たらない。ここは素手でいくしかない。両手を組んでボキリと鳴らすと、臨也は待ったの手振りを取った。
「おっと、その前に……みさきちゃんの事、知りたくない?」
「……あ?」
「ほらぁーシズちゃんってさ、いつも一緒にいた割にはみさきちゃんの事なーんにも知らないじゃない?だから俺が親切心で教えてあげるって言ってんの」
「手前がみさきを語る?笑わせんな」
「困ったなぁ。俺は結構本気(マジ)なんだけど。言っとくけど俺……情報に関しては信頼度の高い情報屋さんだからさぁ。そこを否定されちゃあ困るよ」
クスクスと笑いながら、俺に少しずつ歩み寄る臨也。
「知ってた?みさきちゃんの上京して来た理由(ワケ)」
――……理由?
――そんなもの、初めからあったというのか……?
「そんな話、1度も……」
「ほぉら、やっぱりなにも知らない」
「ッ うっせぇな。だからなんだってんだ」
「……本当になんにも話してないんだ」
一瞬だけ、心底意外そうな表情を見せた後、臨也は更に顔を近付けてくると耳元で小さく言葉を紡いだ。まるで小さな子ども同士が内緒話をする時のように。
「みさきちゃんは……埼玉での切り裂き魔事件の被害者の、唯一の生き残りなんだよ」
「……は?」
切り裂き魔事件?被害者?生き残り?聞き慣れない単語に思わず戸惑う。こいつの言う事なんて、どうせ99%が嘘と作り話に決まってる。聞き流してしまえばいいものを……みさきに関する話は全て事実なのではないかと錯覚してしまう。
思えば、俺はみさきの事を何も知らない気がしてきた。みさきは自分を語る事がほとんどなかった。だからこそ臨也の言葉を鵜呑みにしてしまう自分がいる。
「何を、言ってやがる?」
「俺は真実しか語らないよ?少なくとも、今は」
「……もし、仮にそれが事実だとして……なにか理由と関係があんのかよ」
「つまり、みさきちゃんは過去にフッているのさ。彼女の愛を拒絶したんだ。だからこそ……生き残れた」
「彼女?」
「アイツはしつこいからねぇ。1度フラれた事を根に持っているのさ。きっと!だから今日、みさきちゃんを……」
意味が……分からねぇ。臨也の言う、みさきがフッた『アイツ』とは?そもそもソイツは本当に人間なのか?頭が混乱する。理解出来ない事があまりにも多い。
「つまり、みさきちゃんは過去から逃げて逃げて、池袋(ここ)に行き着いたのさ。人を愛する事を恐れて」
「……全然分かりやすくもなんともねぇな」
「ま、何も知らないんなら尚更そうだろうね。じゃあさ、みさきちゃんの命に関わる事だって言ったら……どうする?」
「!!?」
「みさきちゃんを愛しているのは、人間だけじゃあない。……刀だよ」
「刀?」
「『罪歌』っていうんだけどね。みさきちゃんのもう1つの理由は、罪歌と話をする事だったんだ。もっとも、それはあまりにも無謀過ぎたけどね」
「……刀は、人間を好きになると……斬るのかよ」
「それが罪歌の愛情表現さ。少なくとも独占欲の強い誰かさんよりは、幾分か可愛げがあるけどねぇ?」
「! てめ……ッ、そんな事まで……」
――……あ、れ?
刹那、駆け巡る違和感。
みさきの身体の傷に気付く事ができる人間は、そういう関係でない限り目にする事はないだろう。もしかしたら、俺以外にみさきとの身体の関係を持った男というのが、コイツ――臨也なんじゃないのかって。
「みさきと……ヤッたのか?」
「あは、バレちゃった?いやぁ、あの日は激しかったなぁ!みさきちゃんの身体って感度良すぎて、流石の俺も久々に性欲に火が点いたというか……」
「……!」
――……そうか。そうかそうかそうか!
――考えてみれば、コイツが1番怪しかったじゃねぇか!!
――どうして俺は、もっと早くに気付けなかったんだよ……!!
ギリ、と歯を食い縛る。今だけは必死に殺意を押さえつけた。握り締めた拳からじわりと血が滲み出る。今は……まだ我慢しろ。みさきの事をより知る為にも。
「ありゃ、拍子抜け。怒らないの?」
「……みさきは今、どこにいるんだよ……」
「……ま、いっか。教えてやっても。どうせ、すぐに忘れちゃうだろうしねぇ」
それだけ言うと、臨也はくるりと身を翻して屋上の端へと歩いて行った。俺も数歩後ろからそれに続く。フェンスを飛び越え、あと一歩で落ちるという所まで極限端の方まで近付く。「あそこだよ」――そう言って臨也の指す方向は、遠い彼方の向こう側。「あっち」
初めはふざけているのかと思った。臨也だけが全てを知っているようで、それに対して何にも知らない自分が嫌になる。みさきはどうして俺に話してくれなかったのか。よりによって最後に頼った相手が臨也なんて……そんなのって……
ドン、
――……は……?
身体が、重力に従って落ちてゆく。何者か――つってもこんな事出来るのは臨也ぐらいだが――に背中を押され、下へ下へ。まるでスローモーションのように。
落ちる
堕ちる
墜ちる――…
そういえば、このビル何階建てだったっけ?確か……数十階程の高さはあった気がする。なかなか死なない身体だけど、この高さから落ちたら死ねるだろうか?だけど今はまだ死にたくねぇな。あいつに言いたい事やしたい事、まだまだたくさんあったってのに。思い返せば俺はいつだってみさきから貰ってばかりいた。
逆に俺は何かしてあげられていただろうか?……本当はずっと以前から考えていた。気付いていたけど、認めたくなかった。俺なんかがいない方がみさきはきっと幸せになれる。俺よりもいい男と結ばれて、普通の高校生らしい気軽な恋愛が出来たんじゃないかって。
「(ああクソ、もう地面かよ)」
いくら数十階あるとは言っても、落ちてしまえば大した距離ではない。随分とあっという間の高さなんだな。次第に近くなる固そうな地面をただぼんやりと眺めながら色々な事を考えた。
人間って不思議な生き物だ。自分が死ぬかもしれないって時なのに、妙に頭の中は冷静だ。抗う事の出来ない現実だと予め知っているから、自然と本能的に受け入れてしまっているのか。
「(……ま、落ちちまったもんは仕方ねぇし……)」
他人事のように考えていると、勢いよく叩きつけられる衝動に襲われた。グシャリ、となにかが潰れるような音。とりあえず仕返しに臨也を殴ろうかと思った。
大丈夫だ。俺はまだ死なない。少なくとも臨也の野郎をぶっ殺して、みさきとの約束を果たすまでは――
――あーもう、痛ぇな畜生……
――どうして、こんなに心が痛むんだよ……
こんな痛み、初めから知りたくなんかなかった。