>87
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
とめどなく怒りが溢れ出てただ目の前の男を殴り殺す事しか頭になかった。今冷静になって思い返してみれば、ここまで明確な殺意を抱いたのは生まれて初めてだったと思う。
怒りのあまりに自分さえも見失ってしまいそうな、本当の本当に最後の瞬間――みさきの笑顔が脳を過ぎった。こんな他人を傷付けるような行為、みさきが望んでいる訳がない。だけど俺の身体が素直に言う事を聞いてくれるはずもなく。
「(……畜生……ッ)」
――だとしたら、俺は一体どうすればよかったってんだ?
――俺はただ、みさきに無邪気に笑っていて欲しいだけなのに……
気が動転し、ほんの一瞬だけ腕の力が緩んだ隙を臨也は見逃さなかった。振り上げられた右手にはナイフが握られており、ギラリと鈍い光を放つ。瞬間的に危機を予感し咄嗟に後ろへと跳び退くと、次の瞬間視界に鮮明な赤い血が飛び散るのを見た。胸部を浅く斬りつけられたのだと分かった。
改めて臨也との距離を取り至って緊張感を保つ。止血の為に片手で傷口を圧迫すると、流れ出た鮮血が俺の右手を赤く染めた。傷口自体が浅いとは言え、今着ている白シャツはもう到底使い物になりそうもない。
「油断したねぇ、シズちゃん。中途半端に理性を保っていようとするから、だから君は化け物のままなんだ」
「……」
「何を思ったのかは知らないけどさぁ、その一瞬の隙が命取りだって事……肝に銘じておくといいよ!」
――斬られる!?
――クソッ、このタイミングじゃあ避けきれねぇ……!
どうせ斬られても死なない身体なのは知っていた。多少屈辱ではあるが避ける事を諦め、攻撃を真正面からまともに受けようと身構えた直後。ザクッ、と。鋭い鋭利が肉を勢いよく突き刺す音がした。
やはり、痛くはない。このまま臨也を殴ってしまおうかと考えた。閉じていた瞼を開き、目の前の状況を確認する。血不足になると面倒だから、なんとか止血だけはしておかなければ。
「……みさき?」
気付くと目の前にはみさきの小さな背中が広がっていた。ポタポタと、真っ赤な血がナイフを伝って地へと落ちる。感覚は疎か、痛くも痒くもないのだが妙な違和感を感じるのだ。まるで俺を守るように目の前に立つみさきの腹部からは、じわりと滲むものがあった。
目の前でみさきの身体がゆっくりと崩れ落ちる。まるでスローモーションのようだと思った。ナイフが突き刺さったままの腹部の傷口からは、やはり流血が止まる事なく。地面に赤い血が広がってゆくのを、俺はただ呆然と眺めていた。何1つみさきに出来ぬまま。
――……血?
――みさき、の……?
自分のものではない、他人の血。何よりも大切な人が俺の目の前で傷付けられた事への衝撃があまりにも大きすぎて――
「……おい……」
呼び掛けるが返事はない。
みさきは苦痛に顔を歪ませながらも俺の言葉に応えるべく顔を向ける。そして俺の顔を見るなり、安心したように静かに微笑むのだ。
「シズちゃん……大丈夫?」
「……っ!!」
俺は守られたのだ。俺が守ると決めた、何よりも大切な人に。
――守れなかった。
――何も出来なかった。
俺はなんて無力なんだろう。好きな女を何度も何度も傷付けて、守ってみせると大口を叩いた割には全然守れてないじゃないか。こんなにも近くで、すぐ目と鼻の先にいるというのに。
みさきは確実に俺の正体を知っていた。それなら尚更何故庇う必要があったのだろう。あのまま俺が刺されたとしてもどうせ大した事にはならなかっただろうに。刺さらないか、もしくは軽傷程度。俺みたいな身体は例外でもみさきみたいな普通の生身の身体じゃあナイフは致命傷にもなりうる立派な凶器だというのに。
「おまッ……、人の事より自分の身体を心配しろよ!」
それでもみさきは困ったように微笑み続けた。「大丈夫だから」と。全然大丈夫そうに見えねぇ。変なところで意地を張っているのが彼女らしいが、今は無理をされるのが逆に心に痛い。
俺が怪我を負うべきだった。俺が刺されるべきだった。いざという時に守れなくて、何の為の身体だというのか。こんな時に使い物にならない身体なんて――
「ははッ」
「……手前、なに笑っていやがる」
臨也は、笑っていた。その顔が俺を嘲笑っているようで、だけど何も言い返せなくて、やり場のない怒りを込めて拳を思い切り壁に叩き付けた。その拍子にピシリ、とコンクリートに大きなヒビが入る。割れた拳からは新たな血が流れ出た。
こんなもの、全然痛くなんかない。みさきの負った傷と比べてしまえば。
「理解出来る訳がないと思っていたけど……シズちゃんの気持ちが今、初めて分かったような気がするよ」
「ぁあ?それ以上意味分かんねぇ事言ってると……」
「おっと。ストップストップ。そんな事より、みさきちゃんの傷。早く止血しないと……死んじゃうかもよ?」
「!!」
――死ぬ……?
――みさき、が……?
「……チッ」
ヘラヘラと笑う臨也を一瞥し、急いでみさきの傷の具合を確認する。……出血が酷い。ナイフを抜いてやろうとして思い止まった。下手に抜いてしまうと返って出血が酷くなってしまう。
縁起でもないが、このままでは本当に死んでしまうかもしれない。急いでみさきの身体を抱え込み、その場をすぐに離れた。今、ノミ蟲なんかに構っている暇はない。すぐにでも手当てをする必要性を感じ、ひとまず自分の家へと向かった。血だらけの格好のままでは外を出歩けないからだ。信じられないような光景を目の前に頭の中では無意味な自問が繰り広げられ、その一方で俺は臨也の嬉しそうな声を耳にした。
「本当に、楽しいねぇ」
そう、一言。
家に着いて、どうするべきなのか考えた。自分で怪我の手当てをする事が少ない為かどうすればいいのか分からない。気持ちばかりが変に焦って、だけど話したい事はたくさんあって。
「……大丈夫、だよ?シズちゃん……傷、そんなに深くないから……」
「分かったから、喋んな」
「……うん」
どうして俺なんか庇うんだよ――そう言い掛けてから、すぐにやめた。
みさきの言う通り、見た目が派手な割には傷自体それほど深くないようだ。電話で事情をざっと説明すると新羅はすぐに来てくれた。
「悪ぃな。わざわざ来てもらっちまって」
「構わないよ。僕もセルティもみさきちゃんの事は心配だったんだ。それにしても、臨也のヤツ、まさか一般人にまで手を出すなんて……静雄が相手なのと訳が違うんだから」
溜め息混じりに新羅が言う。だけど俺は自分が原因だったという事もあった手前反論も出来ず、何も言えなかった。セルティが俺の背中を軽く叩く。どうやら新羅と一緒に来たらしい。
『気にするな、静雄。お前のせいなんかじゃあない』
「セルティ……気持ちは嬉しいけどよ、今回ばかりはどうしようもねぇわ」
『そんなに気を病めるな。お前がそんなんだと、みさきちゃんの治る傷も治らないぞ』
「……」
親切が嬉しかった。その言葉に甘えてしまいたかった。臨也に責任を押し付けてしまえばいいと、内なる俺が囁きかける。そんな事をしても俺の気が晴れる事は決してないというのに。
――……違う。
俺は嫉妬しているんだ。俺以外の人間がみさきの身体に傷を付けたという事に。
いくら他の男がみさきを好きになろうとも、そんな事が出来るのは俺しかいないと自負していた。にも関わらず、臨也はいとも簡単に俺にしか出来ないと思っていた事を出来てしまった。
「……最低だ……俺」
『?』
「俺、みさきの身体に傷が残るのが嫌なんだ」
『そんなの、普通の感覚じゃないか。みさきちゃんは女の子なんだし、身体に一生ものの傷が残るっていうのは嫌だろうな。私だって同じ事は考えるさ』
「違う。……違うんだ」
『違う?』
「臨也なんかが付けた傷がみさきの身体に残るって考えるだけで、凄ぇイライラするんだ……」
もし今回の傷跡が残ってしまったら。いくら月日が経とうとも、俺はみさきの身体を見る度々に思うだろう。「これは臨也の付けた印なのだ」と。俺のじゃあない。俺以外の……男の印。
そんな事ばかり心配していた。まずは真っ先にみさきの体調を心配するべきなのに、俺は自分の事ばかり考えている。自分がみさきを独占したいが為に。自分がみさきを愛したいが為に。裏を返せば、俺の印だけが残ればいいと思っているのだ。それこそこの先消える事ない一生ものの傷跡が。
「ねぇ、静雄」
みさきの怪我の治療を終えた新羅が俺を呼ぶ。みさきは腹部に包帯をぐるぐるに巻き付けて、ソファの上で静かに寝息をたてていた。
「確かに傷自体はそんなに深くないし、多分、運悪く斬り所が悪かったんだろうね。ただし、無理はさせない事だよ。出血量が多かったのは事実なんだから」
「新羅」
「なに?」
「傷、残りそうか?」
「ぶっちゃけ、その可能性は大きいと思うよ。みさきちゃんには悪いけれど、こればかりはしょうがないよね」
「……そうか」
――……残るのか。
――あんな奴の……
2人が帰った後もみさきの穏やかな寝顔を眺めながら考えた。臨也が憎い。俺のものに手を出すなんて。臨也に口づけられたみさきの唇も、臨也のぬくもりの残ったみさきの身体も、臨也の刻み込んだみさきの傷跡も――全てが全て、憎い。
「……シズちゃん」
目を覚ましたみさきの小さな身体を、一目散に抱き締めた。お互い何かしらの傷だらけではあったが、そんな事を考えていられるほど俺自身に余裕がなかった。
「みさき……ごめんな。俺がいたってのに、何も出来なくて」
「シズちゃんが謝る事なんて、ないよ。私が勝手に飛び出したんだもん」
そこまで言うと、次第に顔を歪ませていくみさき。俺がみさきの刺し傷に指先でそっと触れたからだ。せっかく新羅が綺麗に巻いてくれた包帯も、肌が見えるくらいにはだけさせて。
露になった傷を見て。憎い。全てこの傷がいけないんだ。こんなものが後に残ってしまわぬよう、俺はその傷口に己の舌を捩じ込ませた。『俺のもの』だと、傷を上書きするかのように。
「痛……ぁッ !」
最低な事をしているのは分かっている。それでも将来後悔するくらいなら――
お互いの血液や唾液が入れ交わって、お互い身体も傷だらけで、それでも赤く染まったみさきを綺麗だと思えてしまうのは、俺自身が狂っているせいなのか。臨也にキスされたみさきの姿を見た時から――俺は何かが欠けてしまったようだ。
「やっぱりみさきは、赤が凄ぇ似合うな」
傷口に小さくキスをした。
「もう誰にも邪魔させねぇし、逃がさねぇ」
捩じ込んだ舌先で、その傷口を舐め回しながら。
「……ッつ!」
痛みのあまり、目尻に涙を浮かべるみさき。その姿がとてつもなく愛らしい。
みさきを愛するが為に、俺は感情を棄てた。余計な感情は一切イラナイ。純粋にみさきを愛していこう。いつまでも、いつまでも。例えお互いが朽ち果てても。
「臨也なんかには、渡さねぇから」
耳元で吐息いっぱいに囁くと、みさきは小さな身体をビクつかせた。