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視界の端に、見事にひしゃげた道路標識の無惨な姿が目に映る。じりじりと背中に感じる視線が痛い。今思っている事が全て嘘であって欲しいと願った。だけど現実は私が思っている以上に残酷だ。



「……なぁ、臨也。俺は確かに言ったよなぁ?次みさきに手ぇ出したら、そん時は容赦なくぶっ殺すってよぉ?」

「……シズちゃん」



臨也さんの口から彼の名前が紡がれた途端、サァッと血の気が引いてゆく。背筋が凍りつく感覚。臨也さんは相変わらず私を抱き締めたまま動かない。まるで敵から身を庇うかのように。

私は何をしているの?目まぐるしい展開に頭がついていけない。だけど唯一理解できる事は、今のやり取りをシズちゃんに見られてしまったという事――



「いつからいた訳?覗き見なんて、決していい趣味とは言えないなぁ」

「黙れ。そして今すぐみさきから離れやがれ……!」



シズちゃんが小さく唸る。

彼を本気で怒らせてしまったらどうなるのかをこの人はよく知っているはずなのに、それでも至って挑発的な態度を崩さない。



――こんなシズちゃん、あの時以来だ。



殺気に満ちた瞳。今にも爆発してしまいそうな、ピリピリとしたオーラ。顔こそは笑っているものの、それが相手を安心させるにはむしろ逆効果となっていた。

次の瞬間――シズちゃんが道路標識を片手に勢いよく地を蹴り跳躍する。臨也さんは私に危ないから下がっているように促すと、シズちゃんと向かい合うようにして立った。右手にはいつの間にか、鋭い小型ナイフが握られていた。道路標識とナイフが交じり合い、小さな火花が散ると同時に金属同士が交じれ合う鈍い音が響き渡る。どうやら臨也さんがナイフで道路標識を受け止めたようだ。ただ者ではないと思っていたけれど、まさかあのシズちゃんと互角にやり合えるなんて……!



「暴力、か。口先では勝てないからって、すぐ力で捩じ伏せようとするクセ、改めた方がいいよ?」

「うるせぇ……手前は今すぐマジで殺す!」



ギギギ…と嫌な音を立ててナイフと道路標識が擦れ会う。耳を塞ぎたくなるようなその音を機に、私は次第に状況を理解出来るようになってきた。すぐ目の前で繰り広げられているのは、普通じゃ考えもつかないような現実味のない光景。

臨也さんが素早く後ろへと跳ぶと、支えをなくした道路標識がシズちゃんの腕力と重力に従って、アスファルトの地面へとめり込んだ。ついさっきまで臨也さんのいたその場所に。もし避けていなかったら即死レベル。一見対等そうに見えても、やはり力ではシズちゃんの方がかなり優位だ。



「やれやれ。日本語が通じないようだねぇ。それなら俺も、強行手段といこうかな?」



気が付くと臨也さんは私のすぐ隣にいた。「みさきちゃん」と名前を呼ばれ、反射的に顔を上げる。臨也さんは"いつもの顔"に戻っていた。口端を歪ませて笑い、私の顔に両手で包み込むようにして優しく触れる。

声を発する余地もなく、次の瞬間――



「……!」



ふに、とした柔らかい感触。後ろでシズちゃんが息を飲むのが分かった。臨也さんは私の唇に己のそれを重ね合わせていたのだ。触れるだけじゃあ済まない。にゅるりと舌が口内に入ってくるのを感じ、咄嗟に逃げようと試みるものの、臨也さんに両腕で強く抱き締められていて逃げられない。

頭の中は未だに混乱していて、それでも周りの状況は常に移り変わってゆく。たった1人――私を置いて。



「い、ざやさ……ッ、今は……ンむ!?」



逃げようとして、再び舌を絡め取られた。シズちゃんの本能的な荒々しいキスとは違う。臨也さんはかなり巧い。経験が多いのか、もしくはそういった知識やテクニックを多く備え持っているのだろうか。

思わず腰が砕けそうになるのを臨也さんの右手に支えられ、必死に臨也さんの身体にしがみついた。そうでもしないと自分の身体が自分のものじゃなくなるようで、怖くて恐くて――



――……見られてる。

――1番見られたくない人に、



「や、……やだッ!」



思わず臨也さんの身体を両手で強く突き飛ばした。臨也さんは多少よろめくものの、すぐに体勢を整える。余裕の表情は崩さぬまま、ペロリと己の唇を舐めた。

唇にそっと触れる。そこに残る感触は今でもとても鮮明で。『見られてしまった』という変わらぬ事実。決して見られてはいけなかった――いや、シズちゃんだけにはあんな姿絶対に見られたくなかったのに……。辺りがシンと静まり返る中、道路標識がカランと音を立ててシズちゃんの指からすり抜けて落ちた。



♂♀



別にみさきにずっとついて回っていた訳ではない。極限1人で出歩かせたくはなかったのは確かに事実だが、友達の見舞いだと言うから仕方なく許可してやった。それに、みさきを信じていたかったから。みさきは俺を簡単に裏切るような女じゃあない、と。

相変わらず今日も仕事の俺は、いつもの池袋の街中を歩いていた。取り立て先に向かいながらこの間の事を考える。仕事のついでに立ち寄った新宿で、臨也と交わした会話の内容を。毎度の事だがこの前も本能のままに動いた結果、面白いくらいに早く臨也を見付け出す事が出来た。



「次みさきに手ぇ出したら、マジでぶっ殺すからな」



今でも鮮明に記憶している。アイツと交わした会話の1つ1つを。いつもの俺だったら視界の端にでも映った瞬間すぐに殴り掛かっていただろう。殺したいほど大嫌いな男を目の前にしているというのに、頭の中はいつもに増してやけに冷静だったのを覚えている。

臨也の反応は実に単純なものだった。まるで不思議なものを見るような――それでいて不愉快そうな目で。



「は?なに言ってんの?とうとう頭の中までやられちゃったみたいだね」

「俺はいつだって本気だ」

「……ああ、みさきちゃんの事か」



大袈裟に肩を竦め、呆れたように溜息を吐く。そのわざとらしい態度に内心イラッとするものの出来るだけ感情を顔に出さぬよう努めた。怒るよりも先に、今は話しておきたかったのだ。



「手前が裏でみさきと繋がっている事くらい、もう分かってんだよ」

「別に隠していたつもりじゃないんだけどなぁ。そもそも、君に話す必要なんて微塵もないじゃないか」

「……臨也。手前、なにを隠してやがる」

「シズちゃんには関係ないよ。第一話したところで、君には到底理解の出来ない話だろうからねぇ」

「ンなの……実際に聞いてみねぇと分からねーだろ」



――ああ、激しく気に食わねぇ。

――こいつが俺の知らないみさきのなにを知っているというのか。



「みさきの事は、俺だけが知ってればいいんだ」

「プッ……あッはは!すっかり愛しちゃってるねぇ!あんなに人を愛する事を恐れていたくせして、もう吹っ切れたのかい?化け物のくせに!」



これだけ散々罵られようと不思議と怒りは込み上げて来なかった。正直、自分自身が1番驚いている。ただこれだけ単刀直入に『化け物』と呼ばれ、それをムキになって否定しようとは思わない。そんな事を言われなくても、俺が誰よりも1番自覚していたのだから。



「……へぇ、怒らないんだ」



いかにもつまらなそうに臨也が言う。その瞳には冷たい色を湛えさせて。



「化け物なりに少しは成長したって事かな?……いや、もしくはみさきの影響、か」



独り言のように呟かれたそれに俺は敢えて言葉を返さず、ただ黙って臨也を睨んだ。これだけで大人しく言う事を聞くような奴ではないという事くらい理解している。ただ、こうでもしないと俺の気が済まなくて、





――……は?

――なにが、起きている?



今は突き付けられた現実にただ愕然とし、上手く言葉にできなかった。発したくても言葉が出ない。止めさせたくても身体が動かない。足が地面にぴったりと張り付いて、指一本たりとも動かす事が出来ないのだ。

目の前のみさきは何故か臨也と唇を交わしてた。どうしてこうなったのか理解に苦しむ。事の成り行きについていけない。気が付いたら臨也がみさきを抱きしめていて――なんだこれ。目茶苦茶な夢にも程がある。



「や、……やだッ!」



みさきは臨也を突き飛ばすと、口元を両手で覆ったまま身体を小さく震わせた。そこでようやくみさきが泣いているのだと分かった。

みさきの涙が乾いた心にじわりと染み渡ってゆく。動く事をやめた脳がようやく回転を再開した頃、まず初めに知れ渡った情報は受け入れ難いものだった。信じたくなくて、信じられなくて、それでも受け素直に入れる事が出来なくて――



「……ほら、これで冷静じゃあいられないだろう?」



ガンッ、と音が響く。

次の瞬間俺の右手は、目の前の憎くき相手の胸倉を掴んでいた。そのまま近くの壁へと押し付け、腕の力を更に加える。



「へぇ……どうやら死に急いでいるらしいな。だったら俺が手助けしてやんよ」

「……ははッ、余計なお世話だねぇ」

「し、シズちゃん!?私は大丈夫だから……だから、臨也さんを……!」



――臨也"さん"?

――なんだ。こいつら、そういう仲だったって訳かよ。



「シズ……」

「うるせぇ!!」



言いかけた言葉を途中で切り捨て、容赦なく睨みつけた。みさきの肩が怯えたようにビクリと震える。そう、それでいい。みさきは俺の言う事を黙って聞いていれば良かったんだ。

だけど、もう遅い。



「みさきが大丈夫でも、俺が全然大丈夫じゃねぇんだよ……」



以前にも似たような事があった。心が締め付けられて、はち切れそうで。痛くて痛くて堪らない。それでも決して癒える事のない深い傷が再び疼き始める。



――なぁ、誰でもいいから助けてくれよ。

――この歪んだ感情を忘れる事ができるのなら、俺は何だってしてみせるから。



じわりじわり、と。悲痛なる叫びは心に留まり傷を更に広げていった。心のどこかでは分かっていた。もう既に、中途半端には終われないという事を。



「……みさき。こいつぶっ殺したら、後で話があるから」

「わ、分かった……。分かったから!……手、離しなよ……」



みさきが俺の背中に掴まりながら、今にも泣き出しそうな声で懇願する。にも関わらず、臨也はやはり表情を一切崩さなかった。その悠然とした態度が更に俺をイラつかせる。「困ったなぁ。見逃してよ」なんて口先だけ。こいつの事だ。もしかしたら俺の反応を分かっている上で、ただ楽しんでいるだけかもしれない。

もし仮にそうだとしても俺は――とことん最後まで自分を貫き通してみせる。誰の忠告も聞かない。もう後悔などしないように。あんなに苦しくて辛い思いをするのは、もう嫌だから。

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