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それから2時間程かけて昼食を摂り、店を出たのは丁度14時頃だった。
「あ、あの、お金……」
「いいって。奢るって言ったのは俺なんだし」
「あ、ありがとう御座います」
「いえいえ。それよりみさきちゃん。マトリョシカ巻きって、どんな味だった?」
「……マトリョシカ巻き?わ、私、そんなもの食べてました!?」
「覚えてないのかい?確かにみさきちゃん、何だか上の空だったよねぇ」
「うわぁ……なんか、すみません」
「顔も真っ赤だったしね」
「……!」
流石、情報屋。人間観察はお手のものらしい。すぐに感情を顔に出してしまう私とは相性が悪すぎた。
「本当に可愛いなあ、みさきちゃんは」
「そんな事……ないです」
――駄目だ駄目だ。
――また顔に出てしまう。
下唇をきゅっと噛み、必死に感情を圧し殺す。この人に少しでも隙を見せてはいけないのに。酷い事もされたのに。彼の本性を忘れてはならない。それなのに、
結局個室で一緒に昼食を摂ってしまった時点で、既に隙だらけなのだが――今回"は"臨也さんを信じよう。
「そういえばみさきちゃん――」
臨也さんが何かを言い掛けたその瞬間。「とりゃあ!」――と、可愛らしい掛け声が木霊した。振り返るよりも先にガバッと身体へ抱き着かれる衝動を覚える。
「!?(何事!?)」
下を見ると、なんと何者かの腕が腰に絡みついているではないか(!)恐る恐る背後を向くと、そこには黒い空手着を身に纏った中学生らしき眼鏡の少女が私の背中にぴったりとくっついていた。勿論知らない子だ。
隣で臨也さんが「うわぁ」と心底嫌そうな顔をした。顔が青い。何がそんなに嫌なのか、こんなにひきつった顔をした臨也さんを見るのは初めてかもしれない。
「……お前ら……」
「えっへへー。こんなに可愛い女の子を独り占めするなんて、そうはいかないよ!イザ兄!」
「……羨」
――……ん?
――今、この子『イザ兄』って言った……?
――イザ兄……兄……
――え……ええええ!!?
「い、妹さん!?」
「ううん、知らない子だよ。迷子かなぁ、可哀想に」
「ちょ……ッ、イザ兄。真顔で嘘吐くのやめてくれる?しかも可哀想なんてちっとも思ってないくせに!」
「酷(ひどい)」
「……はぁ。ていうかお前らこそ、こんなところで何やってた訳?」
「なにって、習い事の帰りだけど?」
「……迂闊だった。この道がお前らの帰り道だって事をすっかり忘れていたよ」
余程嫌なのだろう。笑顔が心なしかひきつって見える。それでもお構い無しに臨也さんの可愛らしい妹達は私の周りをクルクルと回ったり、興味ありげに私の顔を覗き込んで来たりした。
「へぇ、この人がみさきさんかぁ……イザ兄の言ってた通り、可愛いね!」
「同(ね)」
――言ってた通り!?
――臨也さん、この2人に一体何を吹き込んだの!?
そう慌てるのも束の間、お下げ髪の少女はニヤリと不適な笑みを漏らすと「えいやっ!」と、またもや可愛らしい掛け声を上げた。
今度はムギュリ、と揉まれる感覚。背後から伸びた少女のか細い腕は、私の両胸を思い切り鷲掴みにした。
「ひゃあッ!!!!!?」
「ねーねーみさきさん!これから『みさき姉』って呼んでいい?いいよね?ていうかみさき姉って、イザ兄と付き合ってるの?」
「……疑(本当)?」
「つ、つつつつつ付き合ってないよ!!?」
――なんでそういう解釈なの!?
――そ、それよりも早く手を……!
あたふたとされるがままの私を見越して、臨也さんが盛大な溜め息を吐きながら「おい、舞流」と呆れたように彼女を諫めた。どうやらお下げ髪の眼鏡少女は『舞流』という名前らしい。
流石に自分が妹という立場上、兄の言葉には弱いのだろう。舞流ちゃんは「ちぇー、もうちっと触らせてくれたっていいじゃん!減るモンじゃないし」と口を尖らせながらも渋々手を引き私の身体を解放してくれた。それまでほとんど無言だったショートヘアの少女が、心配そうに私を見る。
「(し、初対面でいきなり胸揉まれるとは……)」
「健(大丈夫ですか)?」
「う、うん。ありがとね。……えーと」
「……九瑠璃」
「クルリ……ちゃん?2人共、珍しい名前なんだね」
「……肯(はい)」
すぐ横で「それを言うならイザ兄もだよね!」と舞流ちゃんが声を大にして言うと九瑠璃ちゃんも小さく頷く。2人はとても仲が良いのに対し、臨也さんの実の妹達への態度や言動はどこか他人行儀に見える。
「なぁんだ、付き合ってないの?だったら私と付き合わない?私、女の子とだったら何人でもイケるよ!」
「え……、ええ!?」
「……色(女たらしなんだから)」
「あ、勿論1番好きなのはクル姉だよ!でもみさき姉も捨てがたいなぁ。……ねぇ、どうしよう?私、どうすればいい!?」
「とりあえずみさきから離れろ。舞流」
「えーなんで!?だって別にイザ兄の彼女さんじゃないんでしょ?だったら私が手出したって口説いたって、私の勝手じゃん!みさき姉はイザ兄1人だけのものじゃないんだから!」
私がポカンと呆気に取られている横で、折原家による華麗なる口喧嘩(?)が繰り広げられている。なんだか不思議な光景だ。道行く人々も不思議そうな目で、こちらの様子を伺っている。
「……静……(そろそろ黙って)……困……(みさきさん困ってるから)」
「え?う、うーん……クル姉がそう言うなら……」
あれだけ騒がしかったというのに、九瑠璃ちゃんのたった一言ですぐに大人しくなった舞流ちゃん。
私はようやく我に帰ると臨也さんの方をチラリと見た。まだ中学生だと思われる妹達に翻弄されっぱなしの彼の横顔がいつもに増して不機嫌そうで、いつもより子どもらしくも見える。
「それじゃあ私達は、これから幽平さんのサイン会に行ってくるから!うっひゃー楽しみ!」
「……早(先着順だから)……即(早く行かなくちゃ)」
「あッ、そっか!いけないいけない!……と、その前にみさき姉。ちょっとだけ耳貸して?」
「? 耳?」
何をされるのか身構えつつ耳を傾けると、舞流ちゃんは内緒話をする時にするように口元に手を添え、臨也さんの方を一瞬だけ見ると小さな声で言った。
「イザ兄ねぇ、昔からいつも女の子の取り巻き引き連れてたの!きっと女の子達を片っ端から口説きに口説いて、百人斬りにでも挑戦していたのかなぁ?」
「……非(舞流じゃないんだから)」
「私だって"まだ"挑戦した事ないもん!じゃあみさき姉を百人中の記念すべき一人目にしてもいい?」
「おい、何の話をしているかは知らないけれど、途中から内容が聞こえてんぞ」
取り巻きの件になら、思い当たる節がある。沙樹の事だ。実際に見た事はないけれど、もしかしたら彼女以外にも似たような子達がいるのかもしれない。
舞流はすっかり興奮していて、今では声の音量を自重する事すらすっかり忘れていたようだ。「それでねそれでね!」舞流が続ける。今度は本当に小さな声で。
「前に聞いた事があるんだ。イザ兄に。取り巻きの中に好きな子いるの?って!なんて答えたと思う?『そういう感情は全くない』ってさ!もう、本当に信じられないよね!イザ兄は全国の恋する女の子達から嫌われちゃえばいいよ!だからみさき姉も気を付けた方がいいよ!?せっかく可愛いんだから、イザ兄にたぶらかされないようにね!」
舞流ちゃんは一連の事項を息継ぎもせずに言い切ると私の耳元から口を離した。それからピョコンと小さく跳ね、再び九瑠璃ちゃんの隣へとポジションを戻す。
「それじゃあ、またね!みさき姉!ついでにイザ兄も!」
「……別(さようなら)」
「う、うん……。またね」
「行くよ!クル姉!」――途端に九瑠璃の右手を舞流が取り、仲良く手を繋ぎながら走り始める2人。その小さな背中を見送りながら、臨也さんが本日何度目であろう溜め息を吐いた。
実際の時間はそんなに経っていないのに、物凄く長い時間を過ごしたような気がする。まるで嵐が辺りを散々荒らし、颯爽と去って行ってしまった後のようだ。
「ただの観察対象であれば、観察しがいのある面白い奴らなのにな。あいつら」
「観察すればいいじゃないですか」
「いやいや、なに言ってんの。だって血の繋がった実の妹達だよ?身内の人間を追い回して、一体何が楽しいっていうのさ。嫌でも昔から知ってるってのに」
「でも、随分と仲の良い姉妹ですよね」
「双子だよ」
「え?」
「あの2人」
「ど、どうりで顔が似てるなぁ……と」
――臨也さんの妹の割には全然似てなかったなぁ……
心の中でそう呟きながら、私は更に言葉を紡いだ。
「あの、臨也さん。妹さん達に何話したんですか」
「まぁー、色々とね」
――はぐらかされた?
――……そんな事より、
「そうそう。俺、別にみさきちゃんをたぶらかそうだなんて考えてないから」
「! き、聞こえてたんですか!?」
「情報屋である俺が、例えくだらない話であっても聞き逃すと?甘いよ、みさきちゃん。第一、あいつは内緒話に向いてない」
「……」
舞流ちゃんは言った。臨也さんにたぶらかされぬよう気を付けた方が良いと。沙樹も、それ以外の少女達やもしかしたら臨也さんに好意を抱いている少女も。臨也さんにとっては、ただの都合のいい駒でしかないのだろうか。だとしたらそんなの……哀しすぎる。
そして、もしかしたら私自身も既に彼の手の内の駒なのではないか。情報という名の美味しい『餌』に釣られて、結局逆らう事すら出来ていないじゃないか。こんなのまるで操り人形だ。
「臨也さんは私の事……どう思ってるんですか?」
「愚問だなぁ。俺はシズちゃん以外の全ての人間を平等に愛しているつもりだけど?」
――ああ、やっぱり。
別に期待していた訳ではない。やはり彼にとっての『苗字みさき』は全ての人間と平等の価値しかないのだ。皆愛しているのだ。例え、つい先程すれ違った名前も知らない者や、非道な悪行を働いた者でさえも『人間』である事をやめない以上、彼からの愛を平等に受ける権利がある。そして私自身は彼にとっての『全ての人間』というカテゴリーの中の1人でしかない。
ならば彼は――私に一体何を求めているの?逆に私と関わる事によって、彼に期待できる利益はあるのか?
「……ははッ、だって、しょうがないじゃない。俺自身が認めてしまったら、もう元には戻れない」
ふいに彼が、小さく笑う。
聞き返すよりも先に身体を強く引き寄せられ、強く強く抱き締められた。
「臨也……さん?」
「みさきちゃんがいけないんだよ。初めはこんなつもりじゃなかったのに。……あぁ、想定外だ」
私の首元に顔を埋め、そして弱々しく微笑んだ気がした。いつもの人を見下すような表情じゃない。とても……人間らしい表情で。
「ねぇ、君は……俺が一言好きだと言えば、それを信じてくれるのかい……?」
刹那――すぐ近くで何かが破壊される、すさまじい音を聞く。まるで臨也さんの言葉を遮るかのように。
臨也さんは私を抱く腕の力を更に強め、私の背後に視線を向けたまま小さく舌打ちをしたのが分かった。なんだか後ろを振り向いてはいけないような気がした。