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その週末の日曜日。私は沙樹が入院している病院――来良総合医科大学病院へと向かった。私が出掛けると聞いてシズちゃんはあまりいい顔はしなかったけれど友達のお見舞いなのだと言うと渋々了承してくれた。
――沙樹、元気かな。
直接会うのはいつぶりだろうか。沙樹との日々が遠い昔の事に感じる。沙樹のいる病室の扉の前で一旦足を止め、深呼吸をする。
いざ扉を開けようと右手を伸ばした途端――突然目の前でガラリと扉が開いた。
「!」
「……て、あれ?」
病室の中から出て来た人物は、私の姿を確認するなり両目をぱちくりとする。
「みさきちゃんじゃない」
「い、臨也さん!?どうしてここに……」
「なんたって俺は、沙樹の保護者みたいなものだからね。そんな事よりもみさきちゃんがここに来るなんて、随分と珍しいねぇ」
「……えぇ、まあ」
「とりあえず入りなよ。廊下で立ち話ってのもなんだし、沙樹に会いに来たんだろう?ほら、俺は一旦退室するからさ」
「ありがとう御座います」
小さく頭を下げてお礼を言うと、臨也さんは右手をひらひらさせながら廊下を歩いて行ってしまった。ほんの少し開いたままの扉に今度こそ手を掛け、開く。
そこは白い部屋だった。取り囲むもの、敷かれているもの、掛けられているもの全てが『白』。まるで雪のようだと思う。ただただ限りなく広がる白が、眩しいとさえも錯覚してしまう。
「久しぶりだね、みさき」
薄暗くも広い部屋に設置されたベッドの上には、こちらを見て弱々しく微笑む沙樹の姿がそこにあった。
「……そっか、そんな事があったんだ」
私が全てを話し終えると沙樹は「頑張ったね」と言って、私の手を軽く握り締めた。体温の低い彼女の手はひんやりとして冷たい。
私は今までの事。そしてまだ誰にも話していないこれからの事を沙樹に全て話した。ただし、罪歌と臨也さんの事を除いては。沙樹を厄介事に巻き込みたくないし臨也さんとの事はあまり彼女に話さない方がいい。
「だけど、みさきはやっぱりシズちゃんさんの事が好きなんだよね」
「……うん」
「そっか。……ねぇ、みさき。窓の外、見て?」
「まど?」
沙樹が指差したのは、この病室に唯一あるベッド脇の大きな窓。ここから外の景色を一望できるらしい。沙樹に促され、疑問に思いつつも窓のすぐ傍に立つ。
目の前に広がるのは、ここら周辺の池袋の街並み。窓の縁に手をつき、視線をそのまま下げて見ると――ふいに1人の中学生らしき男子の姿が目に入った。明るい色で染めた髪が一層彼の存在を際立たせている。
「あの人、私の彼氏」
沙樹が嬉しそうに言った。
――あの人が、例の黄巾賊のリーダー……紀田正臣。
――そして、沙樹の恋人。
「毎日お見舞いに来てくれてるの?」
「ううん、1度も」
「え?」
「いつも正臣、あの場所で止まっちゃうの。……ふふッ、正臣ったら、可愛い」
「……」
確かに彼の立場上、沙樹と直接的に会う事は難しいだろう。結果として沙樹に怪我を負わせてしまったのは間違いなく彼の責任でもあるのだから。だけど私には彼の気持ちが分からなくもない。だからこそ私には彼を責める事は出来ない。
彼はじっと病院を見つめたまま、やはり中に入って来ようとはしない。一瞬だけ互いの目が合ったような気がして、私は慌てて視線を目の前の風景へと戻した。
「あ、そうだ。正臣ね、1度だけ来てくれたの」
「何か言ってた?」
「別れようって」
「……そっか」
「でも別れないよ。ううん、別れられない。正臣は過去から逃げられないの。誰だって同じ。みさきも、正臣も。そういう運命なの」
きっと沙樹は何かを知っている。敢えて口に出さないだけで。しかしこれは沙樹と彼の問題であって、私なんかが中途半端に介入してはいけないと思った。
「私達はまだしばらく足踏みの段階だろうけれど……みさきなら、きっとすぐに前へと進めるよ」
そこで看護婦が沙樹の言葉を遮るように病室へと入って来た。患者との面会時間が限られているらしく、既に終了時間を過ぎてしまったらしい。もう1度だけ窓から外を覗き見ると、紀田正臣の姿はもうなかった。
帰り際に彼女は言った。「言葉にしないと伝わるものも伝わらないよ」――確かに、私は自分の中に溜め込んでばかりで大切な事をシズちゃんに話せていない。だけど、もう遅い。自分に残された時間は少ないのだと嫌でも実感する事が出来る。物凄く嫌な予感がするのだ。出来る事なら、どうかこの悪い予兆が的中する事なく外れますように……
「どうだった?沙樹は」
看護婦と入れ替わるように廊下に出ると、壁に寄り掛かって立っている人物がいた。顔を見なくてもすぐに臨也さんだと分かった。
「思っていたよりも元気そうで……安心しました」
「そりゃ良かった。何を話していたんだい?」
「ガールズトークの内容はむやみに聞いちゃいけないんですよ」
「あはは、肝に銘じておくよ」
もしかしたら聞かれていたのではないかと不安が頭を過るが、きっとそれはないだろう。何より病室の音が筒抜けになるはずがない。
病院そのものを出た後も臨也さんは何故かついて来た。フードを頭にすっぽりと被りポケットに両手を突っ込んで。……鼻歌なんかも暢気に歌っちゃってるし。
「……どこまでついて来るんですか」
「んー、どーしよ。俺、ぶっちゃけ今日暇なんだよねぇ。みさきちゃんはこれから予定ある?」
「特には……」
「じゃあさ、どっかでお昼でも食べようよー。ああ、ほら、そこの角曲がって」
「……」
そしていつの間に彼のペースに巻き込まれている事に気付き、私は小さく溜め息を吐いた。特に断る理由もなければ予定もないし。時間的にも丁度お昼過ぎだ。
臨也さんの言う通りにして見慣れない道を進んで行くと、気付いたらお馴染みのサンシャイン通りにまで足を運んでいた。振り向くと臨也さんは両手を真っ直ぐ水平に広げ、器用に歩行者用道路の仕切り(塀)の上でバランスを取りながら歩いている。臨也さんは少しでも人より高い所を好む傾向にあるらしい。
「どこに向かっているんですか?」
「着いてからのお楽しみって事にでもしておいてよ。そろそろ着くと思うからさ。……ほら、見えて来た」
臨也さんが右手を横にして額につけ、遠くを眺めるようにして目を細める。彼の視線の先には――あの一際目立つ、風変わりな店。
あの店は色々な意味で有名だ。サンシャイン通りに面した位置には『露西亜寿司』という名のツッコミ所満載のお寿司屋さんがあって、皆に「サイモン」と呼ばれる大きな黒人が度々客引きをしているという話は引越し早々から知っていた。ただし、学生には少々高い値段になっており、勧誘されるはいいが金銭的にやむを得ずに諦める事も今までにしばしばあった。特にあそこは寿司のネタの種類に長けているらしく、マトリョシカ巻きやチーズ寿司、カラアゲ寿司などなど試してみたい味もたくさんある。
「ハイ、みさき。今日コソスシ、イイヨー」
「(うわぁ、出た……!)」
「やぁ、サイモン。君たち知り合いだったんだねぇ」
「オー。寿司ネ、タベル、ミンナ私ノマブダチヨー」
「……以前に1度だけ学校の友達と来た事あるんですよ……ここ」
「へぇ」
「2名サマ、ゴアンナーイ」
そのままサイモンに引き込まれるようにロシア王宮の宮殿のような建物を潜り、派手な装飾品で飾られた店内を改めてぐるりと見渡す。臨也さんが個室をオーダーするとサイモンが部屋まで私達を案内してくれた。
小さな畳の和室へと案内されると目の前の机に湯飲みを置かれ、いかにも熱そうな日本茶を一杯に注がれる。(しかし臨也さんが一口飲むと「これはジャスミンティーだね」と訂正した。)
「ジャスミン?チガウネ、ココハ日本。サムラーイ、ジャパニズムネ」
「あーはいはい、分かった分かった」
「プッ……あはは、仲いいんですね」
「別に?ただ単に俺が大トロ好きなだけで、ちょくちょく足を運ぶだけさ」
呆れたようにサイモンを部屋からシッシと追い出す臨也さんが、いつもより人間らしくも見え、思わず吹き出してしまった。
臨也さんの言う事は難し過ぎて、たまに違う国の人と話しているようにも錯覚するのだ。だからこそ、こういった彼の行動や言動はとても新鮮なものに感じた。
「大トロなんて、随分と高級なもの食べるんですね」
「いや、そうとも限らないよ?前にも言ったかもしれないけれど、俺は作った人の個性が活かされている料理なら大抵は好きさ。極端に『全て』とは言い切れないけれど……少なくともみさきちゃんの作る料理は大好きだったなぁ」
頬杖をつきながら「また作ってよ」と無邪気に笑いかけてくる臨也さんの言葉に首を横には振れなかった。
今の彼の笑顔が、裏表のない純粋な笑みだったから。
「ほら、頼みなよ」
「えと……それじゃあ、このコースで……」
「なにこれ、1番安いコース?もっといいの頼めばいいのに。奢るよ?」
「い、いえいえ!私、これがいいので!」
「そ?」
それでも臨也さんはほんの少し不満げだったけれど、やがて注文した料理が早くも次々と部屋に運ばれてきた。美味しそうな定番メニューや見た事もない珍しい料理など、多種多様だ。
「……」
「? 食べないの?」
「あ、あの……私がこのまま食べてしまったら、臨也さんは見返りに何か求めて来たりするんですか?」
「……みさきちゃんさぁ、以前よりも増して更に慎重になったよね。安心してよ。今回はそんなんじゃないから」
「(……今回、"は"?)」
内心は警戒していたものの目の前で大トロを美味しそうに頬張る臨也さんを見て、食欲に負けてしまった。
大好きなサーモンを1つだけつまみ、それをパクリと食べる。「……美味しい!」ふいに臨也さんの方を見ると彼はニコニコと笑いながら私の顔を眺めていた。
「な、なんですか?」
「ん?いやぁ、みさきちゃんって食べてる時、物凄く幸せそうな顔するよねぇ」
「……そうですか?」
「うん。可愛い」
「! ど……どうも」
――なんだか、調子狂うなぁ。
臨也さんは、シズちゃんには言えないような恥ずかしい台詞をもサラリと言ってみせるけど、本当はいつも何を考えているのだろう?頬が赤いのを悟られぬよう下を向きながら、私はひたすら目の前の寿司を食べ続けた。変に緊張していたせいか、様々なユニーク寿司に挑戦してみたものの、味はよく分からなかった。
ひととおり食べ終え、最後に運ばれて来たのはまさかのフォーチュンクッキー。クッキーの間に紙が挟まっており、そこに自分の運勢が書かれているという、ちょっとした遊び心満載の、占い感覚で楽しめるお菓子だ。
【会者定離】
「かいしゃ……ていり?」
「『えしゃじょうり』、だよ。読み方。会った者とは必ず別れ別れになるのが運命であるということ……か。随分と辛口なんだねぇ、そのクッキー」
「……」
――ただの占いだもん。
――気にすることなんか何もない……よね?
決して良いとは言い難い結果に妙な違和感を感じつつも、私は出来るだけ平然とした態度で訊ねた。
「臨也さんはクッキー、もう食べたんですか?」
「ああ、クッキー?食べようとはしていたけど……うん。やめた」
臨也さんは自分の運勢が挟まっているであろうクッキーをヒョイと摘まみ取ると、そのままグシャリと握り潰してしまった。
「俺、自分の未来を予感されるのが大嫌いなんだ」