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ズキズキと刺すような痛みが続く。だけどそれは身体の傷の痛みではない。こんなもの、時間が経てば勝手に治ってくれるだろう。

心が……痛い。普段は優しいシズちゃんを、あんなになるまで傷付けてしまったのは間違いなく私だ。だからといって本当の事を言う訳にはいかなかった。彼との関係を口にしてしまったら、臨也さんにも迷惑を掛けてしまう事になる。言い訳なんてしたくなかった。



――ううん、それだけじゃない。

――シズちゃんに……罪歌の事を話さなくちゃいけなくなる。



それだけは避けたい。シズちゃんを危ない目に遭わせたくなかった。それはブルースクウェアの件から感じている負い目にある。私のせいでシズちゃんは警察にまで目を付けられてしまい、仕事も失った。あの時の申し訳なさが未だに忘れられない。そして2度とシズちゃんには迷惑を掛けまいと心に誓っていた。これは誰からの強制でもない。

どうしてこんな事になってしまったのだろう。だけど見離されるよりは良いとさえ思う。私は確かに取り返しのつかない酷い事をしてしまった。それでもシズちゃんは私を必要としてくれている。それが何よりも嬉しかった。人に必要とされない事は、あまりにも哀し過ぎる事だから。

今更過ちを悔いたところで仕方のない事だし、誰かに責任を擦り付けるのも、責任転嫁するのも良くない。



「みさき」



こうやって私を呼ぶ時のシズちゃんの声は優しい。あの日以来、初めは気まずかったものの以前までのように優しく接してくれるようになった。すぐに駆け寄れば、シズちゃんは優しく私の事を抱き締めてくれる。

そして私の首筋に残った歯形を見る度に「ごめん」と言って念入りに傷跡を舐め上げるのだ。それがいつの間にか毎日の習慣になっていた。ほんの少しくすぐったいけれど、不思議と全然嫌じゃない。――だけど、



「! ……ちょッ、シズちゃんってば」



甘えるように顔を埋めてはそこからどんどん行動がエスカレートしてゆく。自重というか、遠慮をしなくなったというのか。日々上書きさるように付けられていく何かしらの痕は、もう身体から途絶える事はない。

軽く甘噛みされたかと思えば当然噛み付かれたり――もどかしい愛撫を与えられ時にはそれだけで済まされなかったり。シズちゃんは私の弱いところを知り尽くしているのか、いつもそこばかりを執拗に攻めてきた。



「ン……、耳、くすぐったいから……ッ」



耳の中まで丹念に舐め回され、思わずフルリと身体が震える。シズちゃんの熱っぽい吐息を感じ、その次の瞬間ガブリと首筋を強く噛まれた。ピリリと首筋から走る痛み。脳が「痛い」と感じると同時にシズちゃんは首筋から歯を離した。

見なくても分かる。"また"痕を残されたのだ。シズちゃんはいとおしそうに歯形に合わせて指を這わせると満足げに両目を細めた。



「自分のものには、他の奴が見ても分かるように目印付けとくのが普通だろ」



そう言われて、冷蔵庫の中のプリンの存在を思い出す。『おれの、くうな、しずお』――私が無断で食べる訳がないのにな。



♂♀



『最近、どう?』



シズちゃんが仕事の時間帯を見計らったのか、彼の不在中に臨也さんが携帯に電話を掛けて来た。彼の声を聞くのは随分と久々だ。



「すみません。最近連絡取れなくて……」

『ま、一応元気そうで安心したよ。最近学校にも登校してないらしいじゃない』

「……」

『ふぅん、"やっぱり"。アイツ、そんなんになっちゃったんだ』



笑いを含ませた臨也さんの楽しそうな声が受話器越しに聞こえてくる。私は妙に引っ掛かる部分があったものの特に動揺もせず、出来るだけ平然とした態度で言葉を紡いだ。



「……あの、何か重要な話でも?」

『ああ、ごめんごめん。全然そんなんじゃないから。そんなに構えてくれなくても結構だよ。ただ……君が心配になっただけ』

「? 私は、別に何ともありませんよ?」

『そう』



心の底から安心したように臨也さんがフゥ、と溜め息を漏らす。どうしてそんなに心配されていたのだろう?「何かあったんですか?」と訊ねてみると、臨也さんはほんの少し間を置いてから事情を語り始めた。



『俺、この間シズちゃんに釘刺されちゃったんだよねぇ。みさきにちょっかい出すなってさ』

「! ……そう、だったんですか」



私の知らない所でそんな事があったなんて。一瞬、シズちゃんにバレてしまったのではないかと内心ビクビクしていた。だけどもし本当に確信を持って気付かれていたとしたら、きっと警告なんかじゃあ済まない。

自惚れている訳ではないけれど、もし私が他の男の人と少しでも関係を持ったりもしくは臨也さんとの事がバレてしまったら、今のシズちゃんはきっと物凄く怒るだろう。相手の男に対しても、私自身に対しても。



『あの場はなんとかやり過ごしたけどね。……ふははッ、あんなに"冷静"なシズちゃん、初めて見たよ。逆に気持ちが悪かったなあ』



臨也さんは独り言のようにそう呟くと、「ねえ」と言葉を続けた。電話越しに椅子から立ち上がる音が聞こえた。



『歪んだ愛情は狂気を生む』

「……なにが、言いたいんですか」

『分かってるクセに。……アイツは歪んでるよ。確実にね。それは君が1番よく分かっているはずだ。そしてそれはつまり……みさきちゃんの責任でもあるんだよ』

「……」

『君の事を強く想う気持ちがアイツを狂わせたんだ』



――私の……せい?



首筋の傷跡を左手でそっと撫でる。触れただけで肌の凹凸が判断できた。



「わ、私は……」

『正直、シズちゃんがどうなろうと野垂れ死のうと俺の知ったこっちゃないけれど……分かってる?誰よりも危ないのは――みさきちゃん。君なんだよ』



――臨也さんは何を言っているのだろう。



声音を聞く限りは普段通りなのだが、どこかいつもと違う違和感を感じる。遠回しに何かを伝えようとしているみたいだ。だが特に思い当たる節もなければ、臨也さんの主旨が掴めない。



「……それでも、私はシズちゃんの事が好きなんです。だから、もし私のせいだというのなら……その責任は私がちゃんととります」

『……』



嘘ではない。そのくらいの強い覚悟が今の私にはある。臨也さんはしばらく無言のままだった。ただ、不適に小さく笑った気がした。



『――ふーん、へぇ、そう。分かったよ。もう救いようのないって事だねぇ、君も』

「……え?」

『1つだけ、忠告しておいてあげる。……歪んだ愛情を抱く人間は、最後に何をすると思う?』



『自分自身を、壊し始めるんだ』





背筋がゾッとした。既に通話の切れた携帯電話を尚耳に押し当てたまま、しばらくその場に立ち尽くす。

もしかしたら臨也さんは私をからかっているだけなのかもしれない。怖がらせて反応を楽しんでいるだけなんだ。そう必死に思い込もうとしても、頭がなかなか上手い具合に情報を受理してくれない。そのくらい彼の言葉には衝撃を受けた。



『特にシズちゃんみたいな化け物はね、どうなるかなんて分かったもんじゃない。感情だけは無駄に人間臭いけれど……それを制御出来ないくらいの力を発揮するのがシズちゃんだから』

「……ッ」

『みさきちゃんを傷付けたように、シズちゃんの意思とは裏腹に触れたもの全てを破壊する。……いや、もしかしたら"わざと"なのかな?だとすれば、もうヤツはとっくに……』




その先からを聞くのが怖くて、気付いたら右手の親指が既にボタンを押していた。プーッ、プーッ、と途切れ途切れに通話の切れた効果音だけが虚しく耳に木霊する。

私は何を恐れている?――答えは単純。自分の日常を壊したくないのだ。今度こそ幸せな日常を送れると信じて疑わなかった。……シズちゃんと一緒に。だからこそこの先を知ってしまったら、もう今までの日常に戻れないような気がして。



私は、酷い人間だ。



私は――自分の日常を守る為なら何だってやってみせるだろう。今までだってそうだった。結局は自分を守りたいがために……色々な事をやってきたのだ。

以前シズちゃんを釈放してもらう為に私が臨也さんにした事だって、結局は私が日常を取り戻したいと願った結果。『誰かの為にやった』――なんて、そんな大それた事じゃあない。



『……みさき?』



そのまま私は、臨也さんではない別の人物へと電話を掛けた。



『みさき……だよね?』



受話器の向こう側の人物はもう一度だけ私の名前を繰り返す。そして確信したかと思うと、嬉しそうに小さく笑った。



『なにか、あったのかな?』

「……うん」

『きっと深く悩み過ぎなんだよ、みさきは』

「そうなのかなぁ」

『ふふ、そうだよ。それに私はみさきを怒ってもいないし恨んでもない。……私ね、ずっと前から知ってたんだよ?みさきが学校帰りに私の所まで来てくれていた事』

「……!」

『お見舞いの花、届けに来てくれたのみさきだよね』



確かに以前、私は彼女の元へと度々向かう事はあったが、直接会う事はなかった。会ってはいけないような気がした。怖かった。助けに行けなかった罪悪感と過去を思い出したくない自分の弱さが原因の大半だ。



「知ってたの?」

『うん。臨也さんが教えてくれた』

「……」

『もう、いいの。私の事は。そんな事より、私はみさきが悩んでいる事の方が気になるな。だって私に電話くれるなんて、"あの時"以来でしょう?』



あの時――もう何ヶ月前の事だろう。あの時も私は彼女だけに打ち明けて、悩んで、そして相談して。ある意味で1番親身になって考えてくれた大切な友達。



「……沙樹」



今こそ、過去と向き合う時なのかもしれない。沙樹の声を聞いて、そう思った。

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