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自分の身体を見る度に蘇る記憶。傷痕は勿論の事、それに負けじと付けられた紅い痕はしばらく消えそうもない。そんな憂鬱な気分を紛らわすように深く湯船へと身体を沈めると、あちこちの傷痕がお湯に滲みた。
あれからもう何日も経つというのに未だに傷が完全に癒える事はない。臨也さんとはまた今度改めて落ち合う事になっている。多少気まずくはあるが、罪歌についての情報を手に入れる為だから仕方がない。その情報と引き換えに、私はあんな事までしたのだから――
――……あーあ、
目を伏せ、色々な事を思い返す。考えれば考える程口から出るのは深い溜め息ばかり。痛んだ長い黒髪の毛先を指先でくるくると弄る。こんな時でも頭の中に思い浮かぶのは、いつだってシズちゃんの顔な訳で。
――……。
――最低だなあ、私。
言葉は浴室内で何度かエコーし、やがて自分へと再び降り掛かる。まるで自分ではない別の人間から言われているようで、あまりいい気はしなかった。
お風呂から上がり、髪を乾かす気力もなく濡れた髪のままベッドへと向かう。勿論シズちゃんの家にベッドは1つしかない。しかしシズちゃんちで同棲する事になった今、普段シズちゃんはソファで寝、私はベッドを借りて別々で寝ている。ちなみに新宿で暮らしていた時も、そんな感じだった。私がベッドで、シズちゃんはすぐ隣の敷布団。当時意識していなかったにせよ、やはり男女だからというのもあって決して一緒に寝たりはしなかった。
「シズちゃん、上がったよー?」
バスタオルを巻きながらそう呼び掛けるが彼からの返事はない。不審に思い部屋の中をドアの隙間からヒョコッと覗き込むと、シズちゃんはベッドの上でぐっすりと眠ってしまっていた。
ベッドの縁に屈み込み、シズちゃんの寝顔をじっと見つめる。出逢った時と何の変わりもない可愛らしい寝顔。その整った顔つきについ見とれていると、急にシズちゃんの腕が伸びて来て私の頬をそっと撫でた。
「!!」
「……ンあ、悪ぃ。寝ちまってたか……?」
「い、いいよ、そのまま寝てて!今日は私がソファで寝るから!」
ほんの少し寝惚けながら起き上がろうとするシズちゃんを押し返し、再びベッドに寝かせてあげる。
「いいって。みさき絶対ぇソファから落ちるだろ」
「そんな寝相悪くないです!ほら、良い機会じゃない?いつも私ばっかり悪いなぁーって思ってたし」
「お、俺は男だからいいんだよ」
「今時古いよ、その考え」
「……」
それでもシズちゃんは自分の意見を曲げようとはしない。それが私の為なのだという事には気付いていたけれど、私には逆に申し訳なく思えてしまったのだ。
どちらも「自分がソファで寝る」という意見を変える様子を一切見せない。このままじゃラチが明かないと判断した私は、仕方なしに1つとある提案をした。
「それじゃあ、一緒にベッドで寝よ」
「!?」
シズちゃんがピタリ、と動きを止める。
「……は?お、おま……一体なに言って……」
「? 何って……」
「そ、そんなこと無理に決まってんだろ!」
――……別に変な意味で言ってる訳じゃないけど、
――普段はこうも無駄に純情な人なんだけどなあ。
内心そんな事を思いながら小さく溜め息を吐く。顔を赤くしてあたふたするシズちゃんに、私はとうとう止めの一言を口にした。
「じゃあいいよ。私は床で寝るね。それなら私がいくら寝相が悪くても、ソファから落ちる事もないしね」
「!!」
――とは言ってみたものの……
いくら大人用のベッドだからと言っても、所詮シングル。私達2人が一緒に寝るには少しばかり狭過ぎた。なんたってシズちゃんは185センチ近くあるんだし、いくら私が小さいからと言って少々無理がある。
結果、普通に並んで寝てはベッドから落ちてしまう為かなり密着した体勢へと落ち着いた。お互いギクシャクとしたまま言葉を交わす。今までにもっと恥ずかしい思いをしてきたはずなのに、やはりこういう行為に馴れる事はきっとない。
「お、お邪魔します……」
私がおずおずとシズちゃんの胸に顔を埋めると、初めは戸惑っていたものの両腕を私の背中へと回し、優しく抱き締め返してくれた。
だけど、この間からシズちゃんの様子がおかしい事には薄々と気付いていた。触れる時も以前よりも増してより慎重になったと言うか、今も全く腕の力を感じられないのだ。まるで割れ物を扱うように。
「……シズちゃん?」
思わず問い掛けてしまった。途端にシズちゃんの心拍数がほんの少し早くなったのが伝わってくる。
「……みさきは、さ」
「ん?」
「俺が、怖くねぇのか?」
――?
――いきなりこんな事聞いて来るなんて、一体どうしたんだろう。
シズちゃんの顔をじっと見つめる。シズちゃんは泣きそうな顔をしていたような気がした。今の表情は見えない。目が合った瞬間すぐに顔を造られてしまったから。
しばらくの沈黙の末、私はじゃれるようにシズちゃんの胸に頭を擦り付ける。顔を見ると何だか照れ臭いから下を向いたまま言った。
「別に。 ……嫌いだったら今も一緒にいないよ?」
シズちゃんはどこか安心したような笑みを見せ「そっか」と小さく呟いた。そして「お前、俺の弟と似たような事言ってんな」と面白そうに言う。
実際にシズちゃんの弟さんを見た事はないけれど、様子から察してどうやらシズちゃんは弟思い――というよりブラコンに近い(?)らしい。きっとお互い仲の良い兄弟なのだろう。
「そういえばシズちゃん、前にも弟さんの話してたよね」
「そうだったっけか?」
「昔、よく髪を乾かしてあげてたって」
「ああ、そういえばそんな話前に……つか、みさきの髪少し濡れてねぇか?」
「乾かすの面倒になっちゃって」
「お前なあ……髪、痛むぞ。俺みたいに」
「シズちゃんは脱色なんかするからだよ」
「まあ、そうだけどよ」
「見たかったなあ、黒髪のシズちゃん」
「俺はどっちかっつーと昔から茶色かったかな」
「へえ、茶髪かあ」
脱色とは髪本来の色を脱いてしまう事だ。1度脱色してしまうともう2度と元の色には戻らないらしい。例えいくら染め直そうとも。「もう戻れないんだね」そう言ってシズちゃんの金髪を撫でてやると、シズちゃんは気持ち良さそうに目を細め、ほんの少し間を置くと納得したように呟いた。
「ああ。 ……1度変わっちまったら、もう2度と戻れねぇもんなんだな。……髪も、心も」
「?」
「もう、どうしようもねぇんだよなあ」
そう言ってシズちゃんは更に私を引き寄せると、私の額に口づけ、音を立ててゆっくりと唇を離した。恥ずかしくて慌てて額を両手で隠すも、次は頬、次は首筋へと次々にあらゆる部位に口づけられてゆく。
「ひゃッ、な、なに?シズちゃん」
「……なんでもねーよ」
――この顔は嘘、だ。
――全然なんともなくなんかないんだ。
どうしてシズちゃんがこんなにも悲しそうな目をするのか、今の私には理解出来なかったが、わざとらしく唇を除いた部位へと次々に口づけていく中、とうとう唇に到達した時には、もう何も考えられなかった。触れるだけのキスを何度も角度を変えて交わし、そのうちシズちゃんが遠慮がちに舌を入れてくる。お互いの舌と唾液が絡み合って、真っ暗で静かな部屋にはやらしい水音だけがピチャピチャと響き渡った。
――……やばい。
――気持ちいい……かも、
「……ンあ、」
お互いの唇が離れた瞬間銀色の糸が名残惜しげにツツ、と引くのが分かる。「もっとキスをしていたい」と一瞬でも思ってしまった自分が何だか自分じゃないような気がしてきて、
――今まではこんなんじゃなかったのに。
――欲情してるのは、自分?
そう考えるだけで自然と羞恥が込み上げてきた。シズちゃんはその後も瞼や目尻にキスをし、その度に私はそれらを受け入れていた。この感覚がくすぐったくて、けれど心地よくて。私は再びシズちゃんの胸へと顔を埋めると、そのまま静かに眠りへと就いた。
♂♀
昨夜は一晩中みさきのにおいがした。甘くて優しくて、いいにおい。女特有の柔らかな感触や温もりが酷く俺を安心させた。密着していたからこそ、嫌な不安に駆られる事もなかった。
時刻は朝の6時。いつもより早く起きてしまったようだ。みさきは俺の胸に顔を埋めたまま、しがみつくようにして眠ったままだった。可愛らしいみさきの寝顔を見ているだけで自然と頬が緩んでいる事に気付く。
「俺、お前の事……すげぇ大切にするから」
そして今は、触れるだけの優しいキスをした。起こしてはいけないと思い、物音を立てぬようゆっくりとした動作でベッドから出る。今までに比べれば、ここ最近は朝の空気も暖かくなってきたような気がする。それでも身体が冷めてしまうといけないので、みさきの身体には薄い毛布をそっと掛けてやる事にした。
改めてみさきの顔を見て、それでもまず込み上げてくるものは紛れもなく独占欲だった。本当ならばここに閉じ込めて、首輪やら鎖で繋ぎ止めておくのもいいかもしれないと思った程に。その感情を邪魔するのが僅かに残った理性。だけどたまに――本気でぶっ飛んでしまいそうな事が最近本当に増えて来た。この傾向は自分でもヤバいんじゃないかと思う。それでも俺にはどうする事も出来ない。
――歪んでゆく。
今では怖いくらいに、その感覚が理解できる。きっと今の俺が望んでいる事は普通じゃあ考えもつかないような、ただ自分の私欲を満たすだけの行為なのかもしれない。どんなに罵られようと、否定はできない。
みさきと少しでも好意を持って言葉を交わすような男には、つい殴り殺したくなるような衝動すらをも感じてしまう。いっそのことみさきを喋れないようにしてしまえばいい。みさきは俺の名前だけを呼べばいい。そうだ、俺以外の男を見る瞳も、俺以外に触れる腕も、俺から離れて行ってしまう足も――いらない。
「……ん、シズ……ちゃん?」
みさきが眠たそうに目を擦りながら、モゾモゾと毛布の中で身をよじらせる。ハッと我に帰った俺は、そんな歪んだ感情を振り切るように小さく首を振った。
ああ、今日もまたこんな気持ちで1日が始まるのか。