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とりあえず急いで自宅に戻ったものの、やはりみさきの姿はない。いつもならすぐに出迎えてくれる足跡も声も全く聞こえない。静寂に包まれたその部屋は誰もいない事を物語っている。
嫌な考えがぐるぐると回る頭を抱えていると玄関から小さな物音がした。急いで玄関へと向かう。案の定そこにはみさきがいた。自らの腕を掴み、俯いたまま。
「みさき!! ……つか、こんな時間まで何してたんだよ!朝もいつの間にいなくなってたし……」
「……うん」
「……なんか、元気なくねぇか?」
「……」
「みさき?」
いつもと雰囲気が違う事に不安を覚え、そっと頭を撫でてやる。途端にビクリと震える肩。それはまるで何かに怯えている様にも見え、思わずすぐに手を離す。
「何か、あったのか?」
みさきはただフルフルと頭を横に振った。それでも口を開こうとはせず、視線を下へ向けたまま。いつまで経っても俺を見てくれないみさきをもどかしくも感じ多少強引ではあるが俺はみさきの顔に両手を添えると無理矢理上へと向かせた。
「! ……お前、」
「……ふ……」
みさきは――泣いていた。ずっと我慢していたのに突然気が緩んでしまったのかみさきの大きな瞳から絶え間なくボロボロと零れ落ちる雫。俺はその涙を拭ってやる事もできずみさきの肩に両手を載せ、顔を覗き込むようにして屈み込んだ。
みさきのほんの少し赤く腫れた目が、俺の目をじっと見つめ返す。まるで何かを無言で訴えかけるように。
「なんで、泣いてんだよ」
「……」
「なぁ、何があった?やっぱり俺のせいなのか?それとも……"また"俺に言えねぇような事なのか!?」
「……」
「ッ、 答えろよ!!」
何故だか無性にムカついた。どうしてみさきはいつも何も話してくれないのだろう。みさきをこんなにしている原因は何だ?犯人が分かり次第すぐにでもそいつを殴りに行こうと思ってた。そのくらい俺の身体は怒りに震え、それこそ自分で自分を壊してしまう程に。
つい、カッと頭に血が上り――「つッ!」みさきの小さな悲鳴で我に帰った。気付いたら俺はみさきの両肩を力いっぱい掴んでいた。
「……痛いよ、シズちゃん」
「! わ、悪ぃ……」
慌てて両手を離し、距離を置く。こんなにも近くにいるのに何故だか今はみさきが遠くに感じられた。抱き締めてやる事さえも出来なくて、自分の無力さを改めて噛み締める。今ではもう触れる事すら……怖い。
罪悪感や束縛欲。純粋な愛情と歪んだ愛情。さまざな感情がせめぎ合い、自分でも上手くコントロールが出来ない。自分は結局どうしたいのか、それさえも分からなくなっていくようで。
「違う……違うの、シズちゃん」
「……」
「違うの……」
嗚咽を漏らしながらも確実に言葉を紡いでゆくみさき。ただ「違う、違う」とだけ告げるみさきの震える背中を俺は遠慮がちに撫でてやった。今の俺には、そうする事しかできなかった。
「落ち着いたか?」
温かいミルクティーの入ったマグカップを両手で包み込むように持ったまま、みさきが小さくコクリと頷く。目はまだ腫れてはいたけれど、ちゃんと冷やせば明日までには治るはずだ。
「……さっきは、悪かったな。怒鳴っちまって」
「……うん、大丈夫」
「明日、学校あるのか?」
「ん」
「行くのか?」
「……ん」
本当は無理せずに休めと言いたかったけれど、なかなか言い出す事ができなかった。恐らくみさきにも俺の言いたい事は伝わっているはず。それでも行く事を選んだのには、きっと何か目的があるからなのだろう。
「なあ、」
――今日はどこへ行っていたんだ?
――……どうして……、
口にしようとして、すぐに止めた。みさきが無理に笑っている風に見えたから。
結局みさきからは何も聞き出せず、気持ちが晴れずにモヤモヤとしたまま俺は浅い眠りに就いた。寝ている間にみさきがまたどこかへ行ってしまいそうな気がして、その度に眠りから覚めてはみさきの姿を見、ひたすらその繰り返しだった。
♂♀
次の日 池袋
来良学園 渡り廊下
昨日もほとんど眠れなかった。それはもしかしたらシズちゃんも同じかもしれない。昨夜はお互いの寝息すら耳にする事もなく、それでも時間はお構い無しに無情にも新しい日を告げる。
その日の放課後。1人で廊下を歩きながら頭の中で考えを巡らせていた。そういえば定期テストも近いっけ、なんて憂鬱な事を考える。それでも臨也さんとの昨日の情事による身体中の鈍痛を忘れる事は出来ない。どうして臨也さんがあんな行動を取ったのかは、未だに理解出来ぬまま。きっとあの人にとって昨日の行為は、ただの『お遊び』でしかないのだろう。
「……?」
背後から肩をポンと叩かれ振り返ると、そこに立っていたのはあの那須島先生だった。以前の事もあった手前、正直顔を合わせづらかった相手だ。思わず後退るが、逃げられそうもない。
「せ、んせい」
「よぉ、苗字。具合が悪そうだって聞いたぞ?テストに向けて一夜漬けでもしたのか?」
「あはは……まあ、そんなとこ、です」
一体そのような情報はどこから仕入れて来るのだろうと素朴な疑問を抱きながら、那須島先生の言葉に笑って誤魔化す事に成功した。
この人は私を見掛ける度に毎回と言ってもいい程、何かと声を掛けて来る先生だ。元々ボディタッチの多い教師だという事は知っていたし、真偽のあやふやな怪しい噂が生徒の間で密かに流れている事も事実。例えば――女子生徒の中に幾人かの候補がいて、教師らしからぬ良からぬ事を考えているのだとか。しかし最近の那須島先生の発言には正直困っており、おまけに私が1人の時を狙ってくるものだからタチが悪い。
「そういえば苗字。この間の礼儀のなっていない男子生徒は……苗字の、その、恋人なのか?」
恐らく『礼儀のなっていない男子生徒』とは臨也さんの事なのだろう。臨也さんに関する話の内容に内心動揺しつつ、私は出来るだけ顔に出さぬよう、言葉を濁して素っ気なく返した。
「いえ……そんな関係では……」
「そ、そうだよなあ!駄目だぞ、あんな男は!まったく、一体どこのクラスの生徒なのか……見つけ次第俺が直々に説教してやる」
那須島先生がいくら必死に校内を捜し回ろうとも見つけられるはずがない。何故なら臨也さんはここの学校の生徒ではあったが、それは過去の話であり、今は既に卒業しているからだ。
そんなややこしい話を受け流しながら、何とかして切り抜ける話題はないだろうかと頭の中を模索し始める。しかし那須島先生は気を取り直したかと思うと、次の話題を持ち掛けてきた。
「そうそう。お前、英語が苦手とか言ってたよなあ」
「えッ」
――そんな事、那須島先生に話した事はないはずなのに……
――どうしてそんな事まで知っているのだろう?
「先生が教えてやろうか?俺だって新任でも教師だからな。少なくとも苗字に教えられる学力くらいは備わっているはずだぞ?」
「でも……あの、私だけって言うのは不公平ですし」
「いいじゃないか別に。先生はな、苗字が少し心配なんだ。苗字は努力家だからなあ、このまま一夜漬けばかりしてちゃあ身体がもたないだろう?」
「……」
――それって、教師として全然良くなんかないんじゃ……
そんな事を思いつつも口には出さず、いよいよ事態が怪しい方向へと進み始めた時――「おや」那須島先生が小さく声を上げた。
思わず那須島先生の視線を辿ると、そこには少数の女子生徒(恐らく1年生)が1人の女子生徒をぐるりと取り囲んでいる光景が広がっていた。無意識に私は裏庭まで来てしまっていたらしい。つい那須島先生のペースに呑まれていたようだ。
「いかんなあ、いじめなんて。よし、先生が止めてきてやろう」
助けに行ってあげようかと身を乗り出すも、那須島先生の手によってそれを遮られてしまう。そしていかにもわざとらしい台詞を残し意気揚々と向かう彼の背中を私は呆然と見送った。確かに私なんかが行くよりも先生が行った方が立場的に効果はあるかもしれない。
柄の悪そうな女子生徒達が那須島先生の存在に気付き、慌ただしくバタバタと逃げていく中――ある1人の女子生徒だけが残る。恐らく、取り囲まれて苛められていた張本人なのだろう。
「……先生」
「大丈夫か?贄川」
那須島先生が「贄川」と呼んだその生徒は長い黒髪を靡かせた、自分なんかよりも大人びた少女だった。私も何か声を掛けるべきだろうかと目を向けた途端――ふいにお互いの目が合う。
――あ、れ?
――この感じ、前にも……
「待たせたな、苗字」
「ぇ……、 あ、はい」
「どうした、ボーッとして。もしかして先生の頼り甲斐のある姿に見惚れてたか?……なんてなぁ」
得意気な那須島先生の言葉に返す言葉も見つけられず、そんな事よりも私は贄川という名の少女の方に興味があった。目が合った瞬間に感じたザワザワとした嫌な感覚。まるで"あの時"に感じたような――
そして、別の違和感。
「ありがとう御座いました。……隆志先生」
那須島先生を下の名前で呼び、恭しく頭を下げる彼女の目がほんの一瞬だけ――赤く紅く染まっていたのを私は見逃さなかった。彼女が私を嫉妬と憎悪に満ちた目で見ていた事も。
確信する。彼女は那須島先生に好意を抱いているのだ。それも純粋な憧れなんてレベルじゃない程に強く。
下校時に校門を潜ると、腕を組んで塀に寄り掛かったシズちゃんが私の帰りを待っていた。私の姿を見つけるなり安心したような笑みを浮かべるシズちゃん。まるで、飼い主を見つけた瞬間の犬のようだと思う。シズちゃんはゆっくりと此方へ歩いて来ると、私の頭をポンポンと撫でた。
「随分と遅かったな」
「わ……びっくりしたあ。もしかして、ずっと待っててくれてたの?」
「べ、別に……たまたま通りかかったら、迎えに来てやろうと思っただけだ」
口こそは強がっているものの、耳まで真っ赤にするシズちゃんを見て思わず笑ってしまう。そんな私を見てシズちゃんは、照れ臭そうに頭をわしわしと掻いた。
心の底から笑う事ができたのは、久方ぶりの事のように感じられた。