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部屋いっぱいに香ばしいカフェオレの香りが広がる。
「はい。ホットで良かった?」
「あ、ども……」
小さなテーブルに向かい合わせで座る。はいと言ってほんのりと温かいカフェオレの入ったマグカップを渡せば、男は頭を下げながら両手で丁寧に受け取った。
マグカップから漏れる白い湯気。砂糖を加えて甘味の増した、カフェオレ特有の香ばしい香り。生まれつき舌が猫舌な私はすぐには飲まず、スプーンで底に円を描くようにくるくるとカフェオレをかき混ぜ続ける。
「ん……うまい」
早くもベーコンエッグを口に入れて、口をモゴモゴさせる名前も知らない男。そんな光景が微笑ましくて私は思わず笑ってしまった。
「料理、うまいんだな」
「あはは、そんなベーコンエッグに大袈裟だよ」
「……でも、美味い」
「ん、ありがとう」
男の感想を素直に嬉しく感じてしまう自分がいる。自分の作った料理を他人に「美味しい」と言って貰える事がこんなにも嬉しい事だなんて知らなかった。そもそも独り暮らしという名のキッカケがなかったら、私は親の臑を噛じるだけで料理を作る機会なんてものも無かったのかもしれない。
マグカップの縁にそっと手をやる。まだ熱い、きっとまだ飲めない。猫舌の人間にとって飲み物や食べ物の熱さには慎重でなければ。
「えっと、まずは自己紹介だよね。私の名前は苗字みさき」
お兄さんの方が年上そうだし呼び捨てでも構わないよと付け足すと、男は小さく「……みさき」と私の名前を繰り返した。男の人特有の、低い、少し掠れた声。
なんか……無駄に良い声で名前呼ばれると緊張する。
「で、そっちは?」
「! 俺のこと、もう知ってるのかと思った」
「? ……もしかしてお兄さん、有名人なの?私あんま芸能人とかに興味ないから……ああ、羽島幽平レベルになれば私も分からない事もないけど」
「……あー」
私が自分の事を知らないと分かった途端、男は困ったように眉を寄せ頬をポリポリと掻いた。何か言えないようなことを隠しているのだろうか。名前を聞いても名乗るつもりは毛頭ないらしい。名前も名乗れない程の事情なんて、やっぱり家出……なんて事はないか。
何か思い詰めたようにベーコンエッグ(に添えてあるプチトマト?)をじっと見つめる彼を他所に、私はふと視界の端に落ちている小さな一枚のメモに気付く。
「?」
男の着ていた服のポケットから落ちてしまったのだろう、ハンガーの掛かった位置真下にそれは存在した。
興味本意で拾って見る。肝心の本文の方は雨でインクが滲んでて読めない。紙自体乾いてはいるものの、一度滲んだ文字までは元通りにならなかったようだ。かろうじて読める小綺麗な文字を、私は特に何の面白みもない無感情な声で読み上げた。だからこそ、男が過剰反応を起こした瞬間は本当に驚いた。何にって――
「……シズ、ちゃん?」
「! な、んでそれを……!?」
「え?だってこの紙に」
「!!」
何がこの男をそこまで驚かせているのか。
よく分からないが、とにかくこの様子じゃあ「シズちゃん」というのはこの男のことを指しているようだ。
「シズちゃん、て呼ばれているんですか?」
「う……ぁ、」
顔がやけにひきつってはいるものの、どうやらそれは肯定を意味するのだと私は勝手に解釈した。男はしばらく「いや、」だの「その、」だのを連呼していたが
「ああ、まあ、それでいいや……」
――と、やがて溜め息混じりに了承。
何はともあれ、私はこれから彼を「シズちゃん」と呼ぶ事にした。あだ名の方が親しみを込めやすいし、丁度良いのではなかろうか。
「それじゃあシズちゃん」
「……はい」
「改めてよろしく、ね?」
そう言って笑うとシズちゃんは顔をほんの少し赤くして自分のカフェオレをスプーンでくるくるとかき混ぜ始めた。変なの。もうしばらく時間が経っているのだから熱くはない筈なのに。
マグカップの縁に再び手をやる。ほどよい温かさ。ああ、やっと飲める温度だ。
「いい天気」
カーテンを押し上げて外を見ると、白み始めた明るい空が視界いっぱいに広がった。今日はきっと晴れるだろう。トーストの最後の一口を口に含ませたところでお風呂の沸ける音がした。
そういえばシズちゃんはお風呂に入れるのだろうか。あまりに高熱だと入らせない方がいいし、あとで体温計を探してみようか、だなんてすっかり私は男と馴染んでしまった訳だし。何はともあれ、今日からシズちゃんとの奇妙(?)な共同生活が幕を開けたのである。