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この少女と出逢うのは、今日が初めてではなかった。
だからと言って親しい仲でも話した事も今までにはない(はずだ)。ただこの少女について知っている事と言えば、あの静雄の想い人であり、かつての同居人であったという事くらいだろうか。今は事情により別々に暮らしているらしいが――あれから2人の仲がどうなったのかは定かではない。
『で、どうなんだ?新羅』
「大丈夫。薬品を多く吸い過ぎたせいで今は気を失っているけれど、特に命に別状はないよ」
『そうか。ならよかった』
この少女を作業着の連中から救ったはいいものの、何やら怪しい薬の作用で気を失ってしまったらしい。そのままにしておく訳にもいかないので、とりあえず家に連れて帰り、(一応)医者である同居人の新羅に、少女の様態を看てもらった。
何処にも異常がないと分かり、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。新羅は眼鏡を指で押し上げると、深刻そうな顔をして口を開く。
「だけど、少し……気になる事があってね」
『? どうした?』
「それがね、……この子の身体、あまりにも傷跡が多過ぎるんだ。それも2ヶ月以上にできたものや、つい最近できたもの。まさに千差万別の傷跡が、ね」
『そんなに酷いのか?』
「完治するまでに時間は掛かるだろうけれど、全部綺麗に消える事はないだろうね。この子、そんなに酷いやられ様だったのかい?相当、極悪非道な奴等だ」
この子を路地裏で見かけた時の事を思い返す。今日はやけに作業着を着た怪しい連中を見掛ける事が多くて、それを不審に思い、池袋の街中の様子を見ておこうとシューターで走り回っていたのが良かった。
偶然見掛けたから良かったものの、もし私があの場にいなかったら少女は大変な事に巻き込まれていたかもしれない。最近池袋で勃発している『人拐い事件』と何か関連性はあるのだろうか。想像したくもないが。
『いや、暴力は振るっていなかった……と、思う』
「……そっか」
『とりあえず、静雄にでも連絡してみるか?』
「……」
静雄の名前が出た途端、新羅が何か言いたげに静かに腕を組む。新羅の言いたい事には、何となく私にも見当がついていた。彼女の身体に刻み込まれた無数の傷跡。あの連中の仕業でないとすれば、他に考えられる残された原因は1つだけ。
「もしかしたら、この子の傷は静雄が……」
『! そんな訳ないだろう!いくらなんでも、そんな事あるはずがない!!』
「セルティ。静雄を庇いたい気持ちは分かるけど……今からちょうど2ヶ月くらい前に、静雄が口にした言葉、覚えているかい?」
『……ッ!』
「……こんな事になるくらいだったら……みさきを誰の目にもつかないような場所に……」
「逃げられないように縛り付けて、閉じ込めて、」
『……覚えてる。覚えてはいるが……!あいつは、そんなやつじゃない!』
「うん、僕も勿論知ってるよ。静雄は、好き好んで人を傷付けるような馬鹿な奴じゃあない」
『……だったら、そんな事……冗談でも、言うな』
画面にはそう打ち込むものの、内心新羅と全く同じ事を考えていた。だからこそ、それを必死に否定したかった。静雄は確かに馬鹿力だけど、根は真面目で優しい奴だって事も知っているんだ。それを知る友人として、私は何が何でも静雄を庇わなきゃいけないのに。
ベッドに横になった少女の顔をチラリと見る。かなり疲れているらしく、起きる様子を全く見せない。まだこんなにも若いのに――彼女はその小さな身体に、一体何を背負って生きていると言うのだろう。人間じゃない私には、分からない。
『……やっぱり、静雄には知らせなくちゃ駄目だ』
「……セルティ」
『分かってる。場合によっては……』
その先からは言えなかった。再びシューターを車庫から呼び戻し、跨がる。本当はメールか電話でも良かった。だけど、あの子の今の状態を知った静雄がどんな顔をするのか、この目できちんと見ておきたかった。
別に静雄を責めようだとか罵ろうだとか、そんな事は微塵も考えちゃいない。静雄の確実な"変化"を既に2ヶ月も前から気付いていたにも関わらず、それを止めようとしなかった私達の責任でもあるのだから。
♂♀
その夜は隣にみさきがいる安心感からか、久しぶりにぐっすりと眠れた。だけど目が覚めるとみさきの姿は部屋のどこにも見当たらなくて、慌ててベッドから飛び起きた。そこには俺しかいない、1人だけの空間。
昨夜の出来事は夢だったんじゃないかって、みさきがいなくなっちまったんじゃないかって。情けない話だが、物凄く怖くなった。そんな矢先だった。セルティが俺の家を訪ねにやって来たのは。身支度を整え、すぐに玄関へと向かう。
「セルティ?」
『悪い。起こしてしまったか?』
「いや、別に構わねぇけどよ。それより……どうしたんだ?わざわざ家にまで来るなんて」
『……それがな、』
セルティは言いにくそうにしばらく視線を落とした後、やがて決心したようにPDAへと再び文字を入力していく。目の前に突き付けられたその画面には、恐らくみさきの事であろう内容が含まれていた。
『ほら、以前に静雄と一緒に暮らしていた子がいただろう?その子が今、私達のところにいるんだ』
「! ……つー事は、新羅んちにいるって事か!?」
『ああ』
聞きたい事は、山ほどたくさんあった。どうしてそんなところにいるのか、だとか。そもそもみさきはセルティや新羅と何の接点もなかったはずだ。以前にセルティと顔を合わせた事はあるかもしれないが、恐らくその程度でしかない。
セルティに『詳しい事は後で説明する。それより今は、私と一緒に来てくれないか?』――そう言われ、俺はヘルメットも被らずに急いでバイクに跨がった。ここから新羅んちまでの距離は、バイクでそう時間は掛からなかった。目的地に着くなりバイクから降りるとエレベーターで階を昇る。
「新羅!」
「やあ、静雄。久しぶり。随分と早かったねぇ」
「……みさきは?」
「ああ、あの子の事かい?それなら、奥の部屋で眠っているよ」
新羅の言葉にほんの少し安堵しつつ、奥の部屋へと真っ先に向かう。ベッドに横になっていたのは、静かに寝息をたてているみさきの姿。「……良かった」みさきがいて、本当に。
「それがね、全然良くなんかないんだよ」
「……はあ?」
振り返ると、いつもより真剣な表情の新羅がすぐ後ろに立っていた。思わず聞き返してしまう。「何が?」俺には全く理解できない。
「君は気付いているのかい?」
「だから、何が。勿体つけずに早く教えろよ」
「……その子の、傷だよ」
「傷?」
「やっぱり、君は何も知らないんだね」
「ッ、うっせぇな。意味分かんねーような事ばっか言ってると殴るぞ」
「それは嫌だなあ」
――なんなんだ?
――俺が知らないような事を、どうしてこいつらが知っているんだ……?
イライラする。みさきの事は俺だけが知っていれば良いはずだ。それなのに、何故だか俺以外の人間が秘密を共有し合っているようで。疑心暗鬼に囚われかけている自分に気付く度に、そんなはずはないと首を振る。頭が割れるように痛い。
「……俺は馬鹿だからよ、お前らが一体何を言っているのか、正直さっぱりだ」
『……静雄』
「教えてくれないか?みさきの事なんだろう?……みさきに関する事なら、なるべく知っておきてぇんだ。こいつ、いつも自分の中に溜め込んで、なかなか打ち明けてくれないからよ」
それを聞くなり、新羅はセルティにそっと耳打ちをする。その後新羅は静かに退室し、セルティは相槌を打つようにゆっくりと頷くとあろうことか眠るみさきの衣類を脱がし始めた。思わず動揺してしまい、反射的に視界を片手で覆う。
「な…ッ!何してん……」
『静雄、これを見てくれ』
「……?」
セルティに手招かれ、ゆっくりとベッドに近付く。「な、なんだよ……」改めてみさきの身体を見るとなると、何だか緊張して思わず声が上擦る。格好悪ぃ。
だけど、そこにあったのは――俺が思っていたよりもずっと、残酷な現実だった。みさきの身体に刻み込まれていたのは、まるで暴力を受けた後のような酷い傷跡。引っ掻き跡のようなものや、青白く変色した青痣。その酷いやられ様に、思わず自らの口元を覆う。
「……ひでぇ」
『誰がやったのか、覚えはないか?』
「誰って……こんな真新しい傷。誰も……」
――あ、れ?
――ちょっと待て。
思い返せば返す度、嫌な汗が滲み出る。俺は昨日、みさきに何をした?自販機の件だけじゃない。その日の晩も、俺は自分の力に加減ができなくて、ただひたすらに自分の欲望を――
「俺のせい……なのか?」
――俺がみさきを、こんなにも傷付けているのか?
――俺がみさきを、こんなにも追い詰めていたのか?
こんな傷、今までに見た事も聞いた事もなかった。ただ目につく傷しか見てなかった。その傷を見て、俺は何を思った?……後悔なんてものじゃない。支配欲と達成感だ。これが俺の所有の証なんだって、それだけを信じて疑わなかった。
俺はただの、最低な男なんじゃないのか?みさきを守るだとか口先では言っておいて、結局はこの手で、この力で、好きな女を傷付けて傷付けて。その度に自分だけが満足して。全然守れてなんかなかった。むしろ傷付けてばかりだった。それなのにみさきは俺を恨むどころか、俺を見て優しく微笑んでくれて――
「――俺は……ッ!!」
俺はただ、みさきを手離したくなかっただけで。
俺はただ、みさきに離れて欲しくなかっただけで。
俺はただ、みさきとずっと一緒にいたかっただけで。
ああ、結局俺は自分の事しか考えちゃいなかったんだな、なんて。今更気付いても、もう遅い。
その後セルティからは色々な話を聞いた。みさきが何者かに狙われているという事。路地裏で襲われているところを、間一髪で助けたのだという事。みさきを助けてくれた事に対しての礼を告げ、俺はソファからゆっくりと立ち上がる。みさきの顔が見れなかった。それは、罪悪感からのものではない。今の自分が、尚も支配欲に囚われていたから。人の愛し方なんて知らない無知な俺は、どうしたら良かったのかなんて分からない。罪悪感こそはあるものの、不思議と後悔はしていない。やっぱりこれが俺なりの精一杯の愛し方だったのだと、今、改めて理解した。
『どこに行くんだ?』
「新宿」
『……臨也、か?』
「あいつの仕業である事以外、どうにも俺には考えられねぇ」
今の自分ができる事は1つだけ。みさきを拐おうとした黒幕を潰す事だ。みさきを散々傷付けておいて、俺が言える台詞ではないが。
「みさきに手出しする奴は誰だろうと許せねぇんだよ。例えそれが、自分でも」
『……』
「悪いな、セルティ。みさきの事……よろしくな」
今、思い返せば、みさきは1度も俺を拒んだりなんかしなかった。あいつの口から拒絶の言葉なんて、1度も耳にした事はなかった。ようやく気付けたみさきの優しさに触れて、何だか無情に泣きたくなった。
泣いたって許される事のない罪。それを俺は、償い切れるのだろうか。それでも消えない欲望をどこに向けたらいいのだろう。1度歪んでしまったら、もう元通りには直せない。これを言葉にするならばきっと――