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昨日 新宿某所
高層マンション最上階
探し物を捜しに行ったきり、結局みさきがその日のうちに帰って来る事はなかった。この部屋の雰囲気が何処かいつもと違う事を肌で感じつつ、天井を仰ぐ。
「やあ、また俺の声が聞きたくなったのかい?」
受話器の向こうにいるであろう人物にそう声を掛けると、その人物はクスリとも笑いもせず、いかにも不機嫌な声で吐き捨てた。つくづく感じの悪い女だ。……ま、いつもの事だけど。
『誤解を招くような言い方はやめてくれる?』
「相変わらず、ひどいなあ。もう少し愛想良くできない訳?せっかくの美声なのに、毒ばっかり吐いてちゃ勿体無いよ」
『あなたに言われても、嬉しくも何ともないわね』
――何の面白味もない女だ。声音1つ変えないとは。
――頭の良すぎる女ほどつまらないものはない。……ああ、実に不愉快だ。
内心舌打ちをしながら、それでも顔の笑顔は崩さぬまま、落ちないように受話器を肩と耳の間に挟むと、ゆっくりと椅子から立ち上がる。窓から新宿の街並みを見渡しながら。
「どう?あのリスト、上手に活用してくれているのかな?」
『お陰様で。実験としては日本人がもう少し欲しいところだけれど……』
「そうだねえ。それじゃあ家出少女だとか、居場所が特定出来ない日本人なんてどう?消えてもおかしくない人間なんて、この池袋にはたくさんいる」
『……それは、可能なのかしら』
――ほらみろ。
――やっぱり食い付いて来た。
「(計画通り)」
内心ほくそ笑みながら、俺は彼女――矢霧波江にある提案を持ち掛けた。彼女は大抵ほとんどの事に興味を示さない。例えそれが、矢霧製薬の存続に大きく関わる事柄だとしても。もし彼女が躍起になって食い付くとしたらそれは、尋常じゃないくらいに溺愛する弟君か――あるいは、"首"か。彼女の言う『実験』というのは、生身の人間を使って薬の効能を調査する――所謂『人体実験』とかいうやつだ。勿論、そんな事が許される訳がない。それを承知で、しかも表情1つ変えずにやり遂げる事のできる冷淡な女――それこそが彼女、矢霧波江だった。
さて、ここからは取引だ。コホンと咳払いを1つして、敢えて口調を変えて話す。取引先には常に尊敬の意を持っていなくてはならない。それが例え、うわべだけの感情だとしても。
「俺の条件を飲んでくれれば、情報はお渡ししますよ?矢霧波江さん」
『……いくら必要なのかしら』
「あっはは、やだなあ。金じゃないですよ。まぁ、簡単な話、ある人物を捜し出して、ここに連れて来てもらえればいいんです。なに、貴方の会社じゃあ人間1人かっ拐うくらい、お手の物でしょう……?」
『嫌味な人ね』
「最高の誉め言葉ですよ。……さて、どうです?」
矢霧波江が首を縦に振るまでには、そう時間は掛からなかった。電話越しで話しているのだから、直接見た訳じゃないのだけれど。彼女の悠然とした態度そのものが、言わずとも肯定の意味を表している。
『……で、人物のデータくらいはあるんでしょうね』
「今FAXで送信しましたから、そちらを見て下さい」
『……』
「なにか不備でも?」
『いえ、……逆に完璧過ぎて怖いくらいだわ。一体どこからこんな情報、仕入れて来るのかしら』
「それは、企業秘密ってやつですよ」
『……まぁ、いいわ。気は乗らないけれど、やるしかないんでしょう?』
互いに取引する時は常に電話で、俺は今までに1度も矢霧波江と直接顔を合わせた事はない。それでもこんな依頼が出来るのは、長年に渡って培って来た信頼感と――彼女の会社が、そういった面にも特化している事を俺は知っていたから。
不法入国者リスト。彼女達はそのリストを利用し、高額の金に物を言わせ人拐いを雇っては、夜な夜な人体実験の為の新鮮な"材料"を集めている。まさに非道な手段をこなしているのだ。
『その前に……1つだけ聞いてもいいかしら』
「なんです?」
『あなた、この子をどうするつもり?』
――随分と踏み込んで来るなあ。
――今更、人間に情でも湧いたのか。それとも勘が良いだけなのか。
「どうするって、どうもしませんよ。この子は私の取引相手です」
『ふぅん。いたいけな女子高校生がねぇ……』
「情でも湧きました?」
『別に。ただ聞いてみたかっただけよ』
――もしくは、最愛の弟と歳が近かったから、感じるものがあったのだろうか。
「それでは、くれぐれもよろしくお願いします」
最後に「ああ、傷物にならない程度にお願いしますよ?」と、思い出したように付け足して通話ボタンの電源を切った。手駒をいかに有効活用できるかが、俺の腕の見せ所。利用できるものはよりよく、使える所まで使い切らなくては。
再びこの部屋に沈黙が流れる。今思えば、みさきのいた生活はそれなりに退屈しなかったかもしれない。1人でいる事なんて、どうって事ないのに。改めて1人になってみると、心に穴が空いた気持ちになる。
「馬鹿馬鹿しい」
大丈夫。明日までには帰って来るはずだ。そうすればこの空虚な何かもきっと満たされる。そしてみさきが帰って来たら、たくさんたくさん愛でてあげよう。
「あの子を、化け物なんかにやってたまるか」
♂♀
――おかしい。
――おかしい。
――やっぱり今日の池袋は何かがおかしい……!
ただの被害妄想だと思っていたのが甘かった。きっと私は、自分が追われているという緊張感に何処か欠けていたのかもしれない。「そんな事、常識的に考えればあり得ない」それだけで片付けてしまった。この池袋では、あり得ないと思う事こそが何よりもあり得ないのだと言うのに。
試しに、作業着の男の前を何食わぬ顔で横切ってみた。波江さんが話してくれた事が本当に事実なのかを、きちんと確かめておきたかった。男は、手に持っていた書類らしき紙と私の横顔を交互に見――疑心は、確かな確信へと変わった。
「ターゲット発見」
次の瞬間、近くに停車していたバンの中から次々と降りて来る複数の男達。それだけで恐怖を感じるのに、男達の手に持っているものが更に私の恐怖を煽った。
――スタンガン!?
――冗談じゃない!!
そして結果、私は再び池袋の街中で逃走劇を繰り広げる事となる。最近学校の体育もほとんど参加していなかった事も加え、私の今の運動能力は自慢じゃないが少なくとも「良い」とは言い切れない。おまけに激しい腰痛に見舞われて、走りにくい事この上ない。
昨夜の事を思い出し――ああ、腰痛ってこういう事か、なんて冷静な考えが頭に浮かんだ。本当なら恥ずかしさが込み上げてくるところなのだが、残念ながらそんな暇は与えてくれない。
――どこに逃げよう……
――そうだ!池袋駅なんかが丁度良い!
万が一の時は電車で遠くへ逃げてしまう事も可能だし、何よりあそこは人が多い。あんなに人の多い場所でなら、あの男達も手荒な行動は取れないだろう。
「確か、ここから行けば近いはず……」以前に通った事のある道を思い出し、道を曲がったその時だった。
「ッ!!」
ガバッと、鼻と口を布のようなもので覆われ、ツンとした臭いが鼻をかすむ。「ターゲット捕獲!」と、さっきの男とは違う男の声がどこからか聞こえたような気がした。何とか逃げようと身をよじるが、あえなく両手を捕まれてしまう。
うわあ、何だかやけに呆気ないなあ……なんて、この場にそぐわない呑気な事を思いつつ。それでも、臨也さんへの信頼は未だに捨てきれていなかった。あんなに優しかった臨也さんが、どうしてこんなにも手荒な真似で私を捕まえなくてはならなかったのか。臨也さんは、何をそんなに必死になっているのだろう。
「眠らせてから、例の場所へ連れて行け」
頭が次第にぼんやりとしていく中で、私は男達の会話を聞いた。
「例の場所?研究室ではないのか」
「今回のターゲットは研究素材の為ではないらしい」
「何でも、上からの直々の命令なんだとか……」
「そういえば、この間の人体実験の時には……」
大半の事はよく意味が分からなかったけれど、話を聞く限りじゃあどうにも穏便に済みそうもない。『研究素材』だとか『人体実験』だとか、理数系に疎い私でも、これだけは分かる。やっぱり、この状況はどう考えてもヤバい。
――……殺される?
――やっぱり、矢霧波江さんって人について行った方が良かったんじゃ……
とうとう最悪のパターンが私の頭を過った時――非日常は、すぐそこで起きた。
夜でもないのに、辺り一面が漆黒の闇に包まれる。まるで星のない夜空。「な、なんなんだコレは!?」周りの男達が慌てふためく様子を見ている限り、この連中の仕業ではないようだ。……いや、これが人間業であるはずがない。そこに現れたのは、影でつくられた巨大な漆黒の鎌。それを両手に持って構えた――
「首なしライダー!?」
そう叫んだのは背後にいる私に布を当て付けていた男だった。余程驚いているのだろう、パサリと布を落としてしまう。私はその一瞬の隙を生かし、その場を離れようと試みる――が、身体が思うように動かず、そのままペタリと地面に座り込んでしまう。
首なしライダー。彼(?)になら以前にも何度も見た事がある。時には下校中、買い物中。池袋に住んでいれば、嫌でも耳にする有名な都市伝説の1つだ。そして驚く事に、シズちゃんと親しげに話していたというのが、正真正銘この首なしライダーだったのだ。
「ぐあッ!」
「ひッ、ひぃぃぃ」
「に、逃げろ!」
目の前で男達が悲鳴をあげながら次々と倒れていくと言うのに、不思議と恐怖は感じられなかった。むしろその強さに感激し、ただ純粋に格好良いと思った。それは、シズちゃんに黄巾賊から救ってもらった時の感動にとてもよく似ていた。
巨大な鎌を振りかざしては男達を次々と斬る。だが、それは本当に斬っている訳ではない。血も、傷口も、倒れた男達の身体には何処にも見当たらない。失神こそはしているものの、どうやら完全に無傷のようだ。
「……格好良い」
思った事が、思わずそのまま口をついた。いつの間にか男達は慌ててその場を逃げ去り、そのうちの数人は地面に突っ伏している。まさに『電光石火』という言葉が似つかわしい、あっという間の出来事だった。
私の声に気が付いた首なしライダーが、ゆっくりとこちらの方を振り向く。ヘルメットで相手の顔は見えないけれど、初めてこの至近距離で目が合った。胸の高鳴りが増す。まるで、未知の生物と偶然にも遭遇した瞬間であるかのように。
「あ、あの」
何か喋ろうと口を開いた瞬間、目の前に文字の記された何かを突き付けられる。
『大丈夫?怪我はない?』
意思の疎通はできるらしい。どうやらPDAのようだ。都市伝説のような存在がこのような携帯情報機器を持っている事に内心驚きつつ、その言葉に答えるべく小さく首を縦に振る。
大丈夫です、と伝えたかった。だけど意識は次第に闇の中へと強制的に引き戻される。表情の見えない首なしライダーの顔を見つめながら――私の意識は、そこでプツリと途絶えた。