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みさきが帰って来た。傘もささずにずぶ濡れで、小さな身体を震わせて。まるで捨てられた子猫のようだと思った。「おかえり」俺はそんな彼女を正面から優しく抱きしめる。みさきの身体は、思っていたよりも小さかった。両手で軽く包み込んでしまえるくらいに。



「随分と遅かったねぇ」

「……」

「シズちゃんと、ちゃんと別れて来れた?」

「……」



みさきが無言で俯く。それは確かな肯定の意味だという事を俺は誰よりも知っている。今のみさきのようにどこか壊れてしまった人間を、俺は今まで何度も見てきたのだから。だから今のみさきは他の何よりも儚くて脆く、壊れやすいという事もよく知っている。

俺がみさきに告げた条件は1つだけ。「どうする事が1番の最善策なのか、自分で考えて行動してごらん」だからみさきはシズちゃんと別れる事を選び行動した。責任感の強いみさきの事だからこう考えたのだろう。「私はシズちゃんにたくさん迷惑を掛けてしまった。だから私はシズちゃんといるべきではない」てね。



――ここまでは予定通り。



「大丈夫だよ」そう言って優しく頭を撫でてやる。みさきがゆっくり俺の背中へと腕を回すのを確認すると、内心ほくそ笑みを浮かべた。みさきは完全に俺を信用しきっている。そして誰よりも真っ先に俺へと助けを求めた。……ああ、なんて心地が良いだろう!



「ほら、俺の所へおいで。君の気が済むまで、ずーっといて貰っても構わない。……1人の夜は、寂しかっただろう?」



泣き崩れるみさきの肩をそっと抱き、ベッドで眠るよう促すと俺はすぐ隣の席へと腰掛けた。そして、暫く泣き止む事のなかったみさきがようやく泣き疲れ眠りに就いたのがほんの数十分前。涙で濡れた頬を軽く拭ってやった。そんな少女の姿を見て思う。どうしてみさきはシズちゃんなんかにここまで執着していたにも関わらず、自分から別れる事を選んだのだろうか。想定外だったのは、シズちゃんを『平和島静雄』だと知っても尚、みさきがアイツを怖がらなかった事だ。シズちゃんの正体を知り恐くなったみさきが、俺の元へ逃げて来る事を狙っていた当初の計画は見事に覆された。……ま、何はともあれ結果的には俺の元へ来たのだからいいんだけれど。

ブルースクウェアにみさきの情報を提供したのは、みさきにシズちゃんの正体を気付かせるキッカケを作るため。チャットでも『平和島静雄』の悪いイメージを少しずつ吹き込ませていたはず。それなのにみさきはシズちゃんが恐くないのだろうか?いや、もしくは今だに気付いていない?



「(……まさか、ね)」



――恐らく彼女はシズちゃんの正体に気付いている。

――さすがに気付いていないという事はないか。



様々な考えに頭を巡らせるも結局は答えが出る事もなく、とりあえずみさきが目を覚ますのを待つ事にした。本当は今日、あの事件の事も踏まえて話をするつもりだったのだが、みさきの今の様子を見る限りは明日への延長に終わるだろう。

俺だって決して遊んでばかりいた訳ではない。独自に調べ、その存在を知り、そしてとある事件まで行き着いた。それが元々今日みさきに詳しく話を聞くはずだった、埼玉で起こったあの血生臭い事件。一部では別名『埼玉連続無差別通り魔事件』とも呼ばれている。同時に、少女の事を本気で気遣っている自分がいる事に思わず笑いが込み上げて来た。自分はいつからこんな風になってしまったのか。過去の行いを考えれば、少なくとも善人とは言い難いこの俺が……ねぇ。



「好きなのかな?……君のこと」



普段の俺ならそんな質問は愚問だと自ら切り捨てているだろう。俺は全ての人間を心の底から本気で愛している。だから人間であるみさきを愛することは必然的であって、聞くまでもない当然の事なのだけれど、何故だか口にしたくなった。何らかの形にしたかった。

眠ったままのみさきの頬を優しく撫で上げ、上唇をなぞる。その唇の弾力のある柔らかい感触を味わいながら、俺は1つの明確な事実を自分の中に導き出した。



――それにしても、なんだか妬けるな。

――シズちゃんなんかがみさきと一緒に暮らしていたなんてね。



ふいにみさきの両腕の手首へと視線を落とす。そこには縄のようなものできつく縛られたような、痛々しい傷跡。傷口が深くはないものの酷い内出血をしており、青白い痣がくっきりと鮮明に残っていた。左腕の骨には亀裂が大きく入っているらしい。その証拠に左腕の関節あたりが大きく腫れ上がっている。

恐らくシズちゃんのせいだろう。縄で縛ったのか――いや、アイツの馬鹿力でなら長時間に渡る人間の拘束など容易い。むしろ骨が折れなかった事が奇跡とでも言えるだろう。アイツなりのみさきへの加減なのだろうか。もっとも、みさきが重症な事には変わりない。



――君もまだ完全には諦めていないようだけど……しつこい男は嫌われるよ?シズちゃん。

――歪んだ人間が辿る末路を、俺が最後まで見届けてあげるよ。



「可哀想に」その言葉は化け物に愛された哀れな少女に対してでもあり――人間を愛してしまった哀れな化け物に対してでもあり。化け物のくせして、よりによって普通の少女に本気で恋をしてしまうなんて。「同情するね。……心から」皮肉を込めて吐き捨てた。



♂♀



「シズちゃん、相変わらず暴れてるみたいだねぇ」

「……そう」



あの雨の日から早くも2ヶ月が経った。『池袋最強』という名が新宿にも轟き始めたこの頃。以来、私がこの空間から出る事は沙樹の見舞い時以外極限なくなった。シズちゃんと会いたくないから、というのが正直な理由である。

学校にも行っていない。臨也さんが行かなくても良いよって私に言ってくれたから。校長先生も臨也さんの言う事全てに了解してくれた。なんだか怯えていた風にも見えた。きっと、臨也さんには誰も逆らえないんだと直感で思う。臨也さんは何でも知っているから。



「会いたくないの?」

「……」



臨也さんの問い掛けに応じずに、夕食の支度を続ける。本当は物凄く会いたかった。だけど今ここで本音を漏らしてしまったら、あの日の覚悟がいとも簡単に崩れてしまいそうで、私はそれが怖かった。こうする事がシズちゃんの為にもなるのだから。だから今は我慢しなくちゃいけないんだ。



「今はまだ、会えません」

「ふーん。……て言うかさ、敬語はやめろって言ったよね?みさきちゃん」

「……極力控えます」



シチューの入った鍋をぐるぐると回しながら、私は出来るだけ感情を込めずに言葉を紡いだ。「シチューってのは冬に食べるものじゃない?」て臨也さんには言われたけれど、いつだか前にシズちゃんと一緒に食べた夕食の事をふと思い出して今に至る。そのあたり、やはり私は無意識に、シズちゃんの事を完璧には忘れ去りたくないのだと思う。



「それ以前に、主の食事を作る事も秘書の仕事に入るんですか?」

「いいじゃない、別に。俺さ、君の作る料理が大好きなんだよね」

「……あ、ありがとう御座います」



顔の熱が上がるのを感じ、私はそれを悟られないように咄嗟に顔を床へと向けた。そんな様子を見ていた臨也さんは、テーブルに頬杖をつきながらどこか楽しそうに笑いを含ませて言う。



「君は本当に面白いね」

「か、からかわないで下さい」

「まさか!俺は嘘は吐くけれど、冗談なんかは口にしないよ?」

「……矛盾してません?」

「ふふ、どうだろう」



シチューがグツグツと煮えてきたのを確認し、私は慣れた手つきで高級そうな食器棚から底の深いお皿を2枚だけ取り出した。

本当はブロッコリーも入れたかったんだけど、最近買い物に出掛けていないせいか冷蔵庫の中からは探し当てられなかった。臨也さんが自分で料理する事はない。だから当然、料理の原材料が普段からあるはずもない。私が来るまでの食生活が若干心配でもある。



「そうそう、みさきちゃん。例の件だけど……だんだんと浮き彫りになってきたよ。"アレ"の事」

「!」



臨也さんの言葉に私は勢いよく顔を上げた。「おっと、その前に」目の前に右手を突き出され何か言おうと開きかけた口を早くも臨也さんによって静止される。



「忘れてないよね?約束。俺は君に情報を提供するけれど、その分の報酬は後できちんと頂戴するよ?」



そうなのだ。彼は情報を売りにする情報屋だから、勿論、それなりの代償を払わなくてはならない。だからと言って、今の私には払えるものなど何もない。生活だって臨也さんの所に転がり込んで、成り立っているというのに。さて困った。

トレイに乗せて、シチューの入ったお皿とスプーンをリビングのテーブルへと持って行く。「どうぞ」臨也さんに手渡して、自分も隣のソファに深く腰掛けた。



「……分かりました。でもその前に、教えてくれませんか?その……情報」

「本気かい?」

「知りたいんです。元々真実を知る事が、私の本来の目的でしたから」



思い出す。思い出す。あの出来事を、赤い瞳を。まだ熱くて飲めないシチューの湯気を、私はぼんやりと見つめていた。

そして、物語は動き出す。

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