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爽やかな朝とは程遠い、薄暗い朝の空。相変わらず今日も雨だった。今感じているこの憂鬱な気分もきっと雨によるものだ。みさきの顔さえ見られれば、吹き飛んでしまうに違いない。とりあえずトムさんと別れた俺は、始発電車の切符を買うと真っ先にみさきの元へと向かった。早くみさきに会いたい。会って謝って、抱きしめたかった。そして今夜こそ鍋にするんだ。

みさきんちが近付くにつれ俺の足取りは自然と速くなっていた。思わず顔が綻ぶ。みさきは俺を怒るだろうか?それはそれで仕方がない。ただ、警察署での短いようで長かった時間を考えると大した時間ではないはずなのに、すっかりみさきに依存してしまった俺にはとてもじゃないが耐えられなかった。俺、頑張った。



「(……ん?)」



玄関のドアノブに合鍵を差し込み、カチリと鳴らないそれに違和感を覚える。鍵が掛かっていないのだ。

うっかり者のみさきの事だ。鍵を掛け忘れていたに違いない。まったく、物騒な世の中だってのに本当にマイペースなヤツだ。ましてや俺のいない時に、きちんと注意させなければ。やっぱりみさきには俺が付いてやらなくちゃ駄目だな。



――そう、ただそれだけ。

――……それなのに、

――どうしてこんなに胸騒ぎがするんだ……!?



胸がザワザワと落ち着かない。何だか嫌な予感がした。空き巣だとか泥棒が入ったんじゃないかとか――いや、そういうんじゃない。もっとヤバいような気がする。根本的な何かが。玄関のドアを勢いよく開き、思わずみさきの名前を呼んだ。返事がない。ああ、そっか。みさきはきっと寝ているんだ。まだこんなに早い時間なのだから、俺が早く起こしてやらないと。

本当は、とうに気付いているんだ。この部屋の空間自体の違和感に。玄関に入った途端に分かってしまった。あるはずのみさきの靴がなかった事に。それでも俺は信じたくなくて、なかなか帰って来ない俺に怒ったみさきが悪戯しているんじゃないかって、



「……!」



リビングのテーブルの上には――バースデーケーキがポツンと置いてあった。周りが寂しく見えるせいか1つだけ浮いて見えるそれは、より一層その華やかさを見る者に印象付ける。多分これは、お菓子作りが大好きなみさき自身の手作りケーキ。その証拠にケーキの傍にはメモ用紙が置いてあり、みさき特有の綺麗な文字で『誕生日おめでとう』とだけ書かれていた。

ふと台所が目に入る。ケーキ作りに使われたであろう道具は既に全部洗われていて、食器乾燥機に綺麗に並べられている。几帳面なみさきらしい。器具が乾ききっていない事を確認し、みさきがまだ近くにいるかもしれないと考えた俺は急いで部屋を飛び出した。



♂♀



みさきがどこにいるのか定かではないが、何となくは感じ取る事ができる。臨也に対する『怒り』と同じくらい――いや、もしかしたらそれ以上の強い感情を抱いている対象であるみさき。臨也の居場所がすぐに分かるようにみさきの居場所も特定できる。2人に共通する点は、俺にしか分からない"におい"がある所だ。

大嫌いなヤツと大好きな人に共通点があるなんて、これ以上ないくらいに皮肉めいちゃいるが……これは本能だ。だから何処にいようと必ず見つけてみせる。



――ほら、見つけた。



特に走り回る事もなく、聴覚や勘だけを頼りに行き着いた先は、人通りの少ない路地裏。雨が降っているというのも加え、ただでさえ常に薄暗いそこは誰もいないように見えた。だけどみさきはそこにいた。



「あんな馬鹿デカいケーキ、1人で食えってのかよ」



投げ掛けられた言葉に、みさきの足がピタリと止まる。やがてゆっくりとした動作で視線をこちらへ向け小さく俺の名前を呼んだ。



「……シズちゃん」



お互い傘を持っていないせいか、俺もみさきもびしょ濡れだった。傘を持って来れば良かったかと後悔するが、慌てて出て来たのだから仕方がない。ただ、雨の中傘も持たずに歩いていたみさきの行動は正気の沙汰ではない。早足でみさきの元へと寄り、腕を取る。



「なんで傘持ってねぇんだよバカ!」

「……うん」

「ほら、風邪ひいちまう前に早く帰るぞ!」



そのまま腕を引いて行こうとみさきの腕を引っ張るが、みさきは下を向いたままピクリとも動かない。



「……どうした?」

「……」

「どっか悪ぃのか?」

「……」

「……」

「……」



成り立たない会話。目を合わせようともしないみさき。明らかに様子がおかしい。これは確かなみさきの拒絶。頭ではそう分かっているのに、この腕を離す事ができない。今みさきを引き止められなかったら2度と会えないような気がして、



「ごめんね。私もう……シズちゃんと一緒にはいられない」



ばいばい、と、みさきの口が確かにそう動いた気がした。声は聞こえなかった。俺が聞きたくなかっただけで聞こえないフリをしているだけなのかもしれない。だけど、受け入れがたい現実はあまりにも残酷過ぎて、

そのままみさきの身体をコンクリートの壁に押し付ける。みさきが痛みに顔をしかめても、今の俺には何も感じる事が出来なかった。



「『ばいばい』つったって……あれ、お前んちだろ」

「……あれはもう、明日までには引き払ってもらうから」

「……なに、言ってんだよ……意味分かんねーよ。他に行く場所なんて……あるのかよ」

「……」

「理由は何だ?何か言ってくれよ……なぁ!!」



続けざまにみさきへと問い詰める。拒絶の声なんて、聞き飽きた。ましてやみさきの口からなんて聞きたくなかった。みさきの声で聞きたくなかった。

頭なら嫌と言う程覚めている。これが夢ならどんなにいいか。みさきは相変わらず口を開こうとしない。俺と目を合わせようとしない。完全なる俺への拒絶だ。



「……納得いくかよ。こんな、いきなり……」

「……」

「……みさき……」



みさきの名前を口にして、そこでようやく初めてみさきが小さく反応を示す。そして口を開き「   」みさきの瞳から一筋の雫が流れ落ち、頬を伝った。雨なのか涙なのかは分からない。唯一分かる事といえばみさきが俺の目を見て確かにこう言葉を紡いだ事。一言だけ、『化け物』、と。

俺の中の何かが、壊れた。それはまるで今までグラグラと崩れそうになるまで積み上げられてきたものが何らかの拍子で次々と崩れていくような、そんな感覚。



「……ッ!」



カッと頭に血が上り、俺はみさきの両肩を思い切り掴むと衝動的に口を塞いだ。



「む!……ぅ……」

「……」

「……〜〜ッ!」



みさきが必死に抵抗しようと身体を捻るが、俺がそれを許さない。いつもは受け入れてくれていたみさきが今は俺を拒絶しているような気がして、その態度が余計に腹立たしかった。そして何よりも、愛しかった。大好きだったのに。大切だったのに。みさきだけは他のヤツらとは違うんだって思っていたのに。そんな鬱憤をぶつけるように、俺は荒々しい口づけを繰り返す。左手でみさきの両手を拘束すると、包帯の巻かれたみさきの左腕がミシリと悲鳴をあげた。だけど今度は前みたいに容赦はしない。

空いている右手でみさきの口より上全体を覆うように塞いでやると、鼻で呼吸が出来なくなったみさきが必死に酸素を取り込もうと顔を背けた。俺はそれを一切許さず小さく開いたみさきの口に再び舌を入れる。逃げる舌を絡め取り、止まる事を知らない雨に身体を打たれながらも、ただひたすらに口内を犯し続けた。



「……ン、ふ……!!」



――そろそろ限界、か。



長い長い口づけの末、みさきの身体が息苦しさに耐えきれず次第にフルフルと震え出す。本当の本当に限界を迎えてから俺は唇を解放してやった。ケホケホと噎せかえるみさきの背中を、俺はもう擦ってやる事が出来ない。いくらみさきが涙を流そうと、俺はその涙を拭ってはやれない。

「……はは、」涙よりも先に、自分の滑稽さに思わず笑った。俺は今まで一体何をしていたのだろう。どうせ最後は拒絶されると分かりきっていたのに、こんなにもみさきを好きになっちまって。今でも手放すのがとてつもなく惜しい。



――なにやってんだか。

――本当に俺、馬鹿みてぇ。



「……ごめんなさい」



みさきは涙を流しながら何度も何度も謝った。どうしてみさきが泣いているのか今の俺には分からなかった。「ごめんなさい」「ごめんなさい」繰り返される謝罪の言葉はもはや俺の心には響かない。謝罪の言葉が欲しい訳じゃない。そんな自分の気持ちを誤魔化すように、ただただ何度もキスをした。言葉なんて要らないくらいに、絶え間無く。



「ン……シズちゃ……、」



――……はは、泣きたいのは俺の方だっての。

――どうしてこいつがこんなに泣いてるんだよ……。



何かが込み上げてくる衝動を抑え、幾度も唇を交わした後、俺はゆっくりと唇を離す。そして名残惜しくその身体を、離した。永遠とも思える時間が過ぎ、それでも朝日が辺りを照らし出す事はない。相変わらずの曇り空が池袋の上空に広がっている。みさきは口元を両手で覆い、崩れ落ちるようにそのまま壁を背に座り込んでしまった。俺はそんなみさきの姿を静かに目で追う。髪の毛先からポタリと雫が滴り落ちた。



♂♀



雨の中ぼんやりとみさきと出逢った頃を思い出す。フワフワと、懐かしむように瞳を閉じた。何も言わずに置いて来てしまった、みさきの方を振り返らずに。



――こうしなくてはいけなかったのか。



嫌いだからという最低な理由ではない。嫌いになどなっていない。なれるハズがない。上手く言い表せない言葉の代わりに、くしゃりと濡れた前髪を掻き上げた。きっと今辛いと思うのはみさきと過ごした時間が余りにも幸福過ぎたから。俺はふっと微笑み、曇り空を仰いだ。やはり思い出は幸せな事ばかりなのだ。

瞳の中にポツリと雨粒が落ちる。一筋だけ瞬きと同時に涙を零した。心の奥底に感じるこの痛みは当然の事。今までの俺への、罰。



『!……静雄!?お前こんな所で何してるんだ!?』

「……セルティ」

『どうしてこんな雨の中に……とりあえずウチに来い!新羅もいるし、このままじゃあいくらお前でもぶっ倒れるぞ!』



悩んだ。毎日思い詰めた。何故だろうと考えた。

それならばいっそ幸福を手放そうと、俺は――

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