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「(……遅いなあ)」



これで時計を見るのは何度目だろう。ついつい視線を向けてしまうその先には、9時を回った時計の針。こんな時間になってまでシズちゃんが帰って来ないという事はまずあり得ない。ましてや連絡がないなんて。

今夜鍋にしようと言った途端「それじゃあ今日は早めに帰って来るな」なんて嬉しそうに話していたシズちゃん。「約束だよ」って返したら笑って頷いた。「俺が約束破った事なんて1度もねぇだろ」自信満々にそう答えるシズちゃんは私の頭をわしゃわしゃと撫でる。私の頭はすっかりぐしゃぐしゃ。ちょっぴり乱暴なところがシズちゃんらしい、今ではすっかり馴れてしまった撫でられる感覚。心地良さすらをも感じた私は満更でもなかった。



――きっと帰って来る……よね?



時間が進むと共に、芽生えてきたのは小さな不安。やがてムクムクと膨れ出す。もしかしたら何かトラブルが起きたのかもしれない。……何か厄介な事件に巻き込まれた?都心部なのだし可能性は十分にあり得る。

考えても考えても浮かぶのは不安な事ばかり。メールを試しに送ってみた。いつもは早い返信が来ない。電話を試しに掛けてみた。呼び出し音だけが無情に響く。シズちゃん、電話にはすぐに出てくれる人なのに。あのシズちゃんの事だから、きっと何食わぬ顔して帰って来るに違いない。そしたら私は笑いながら文句を言ってやるんだ。「どうして早く連絡してくれなかったの」って。

コタツに入ったままシズちゃんを待ち続けて早1時間。それでもシズちゃんが帰って来る気配はなく、急激な睡魔に襲われた私は、いつの間にか机に突っ伏したまま寝てしまっていた。朝起きて残ったものは、身体の節々に生じる鈍痛と積もりに積もった良からぬ不安。そして携帯には臨也さんからの呼び出しのメールが届いていた。



♂♀



「へぇ。あのシズちゃんが、ねぇ」



メールの内容は至ってシンプル。今日は仕事が多いから、早めに来て欲しいというものだった。そういえば臨也さんと約束していたのって、明日だったっけ。

臨也さんは、私とシズちゃんの関係を知る数少ない人間だ。色々な事情があって知り合った仲だけど、私は多分彼の事をそれなりに信用しているんだと思う。第一印象は『よく分からない人』だったが。シズちゃんが昨夜から帰って来ない事をありのまま話してみると、臨也さんは椅子の背もたれに全体重を片寄らせながら口を開いた。



「もしかすると、他の女の所だったりして」

「!」

「だってさぁ、考えてごらんよ。シズちゃんだって一応男なんだし、それなりに性欲なんかは人並みに……あ、あるいは風俗だったりして」

「……」



ふいに、チャット仲間に似たような事を言われた時の事を思い出した。その上『性欲』だとか、そういった事に全く興味のなさそうな臨也さんにまで言われてしまい、この意外な反応には正直、驚いた。



「男の人って……そんなものなんですかね……」

「健康的な男子なら、そのくらいは普通でしょ。女に発情しない奴なんて、よほど脳が二次元に浸かった奴か同性愛者くらいだね」



妙に説得力のある臨也さんの言葉が胸に突き刺さる。臨也さんは何も知らないはずなのになんだか責められている気分だ。こんなの、ただの被害妄想だなんて分かってはいるんだけれど。

やっぱり私はシズちゃんに無理をさせていたんだ、と、改めて再認識すると同時に、ただ、今はシズちゃんと話したいと思った。今まで避けてきた事だけど、私たちはきっと、1度真剣に話し合う必要がある。



「明日は1月28日、か」



臨也さんが壁に掛かったカレンダーを目に、ふいにそんな事を口にする。まるで独り言のようにボソリと呟かれたそれに、私は反射的に視線を上げる。



「1月も終わるね」

「……そう、ですね」

「……何の日か、君は本当に知らないようだね」

「え?」



――『何の日』?

――何かの祝日だったっけ?



「あの、臨也さんと約束していた日、ですよね」

「うん」

「……他に何かあるんですか?」

「んー、別にいいんだよ。聞かされていないのなら」

「?」



臨也さんは勿体振ったような口調で意味深な言葉を告げる。私には何が何だか分からなくて、だけどもしかしたら明日がとても大切な日なんじゃないかと必死に頭を巡らせた。だけど何も思い浮かばなくて、むしろ不安要素だけがどんどんと私の中に蓄積されてゆく。

そんな極限な状況だからこそ、気付く事ができたのかもしれない。――いつもと違う彼の変化に。



「臨也さん、何か知っているんじゃないですか?」

「どうしてそう思うんだい?」

「だって臨也さん、さっきから……笑ってるじゃないですか」



それも、微笑んでいるなんてものじゃない。それはとても愉快げに、おかしくて可笑しくて堪らないといった様子で、



「……あは、失礼。あまりにも君たちが"面白くて"」

「ッ!?」

「いやぁ、悪気はないんだよ?ただ、やっぱり君は俺が愛すべき人間に値するくらいに、愛しくて愛しくて仕方がない」

「……な……ッ」



臨也さんが音もたてずに、ゆっくりとした動作で椅子から立ち上がる。口端に笑みを張り付かせたまま。

私の脳が危険を感知する。警告。警告。今、目の前にいるこの男は危険性アリ。今まで培ってきた臨也さんの印象が、一瞬にして塗り替えられる程に。



「……うん、俺は知ってるよ。シズちゃんが今どこにいるのか、を」

「ど、何処にいるんですか!?」

「今頃警察署でお世話になっているんじゃないかな」

「け……警察!?何で!」

「それは、君が1番よく知っているんじゃない?」



――私と関係のある事?

――それって一体……。



考えて考えて考えて「もしかしたら」と予感が頭を過る。この間のブルースクウェアとの抗争……後で分かった事だけど、どうやらかなり大きな規模になってしまったらしい。警察が動いているのも何度か見た。

もしかしたら……もしかしたらシズちゃんは、私のせいで捕まってしまった!?



「そんな……私のせいなんです!私が捕まったりなんかしたから……シズちゃんはただ私を助けようとしてくれただけで!」

「ああ、そうだねぇ。君を囮にしてブルースクウェアの連中がシズちゃんを呼び出した。……だよね?」

「!」



――私がまだ話していない事を……

――どうしてこの男は知っているの……?



臨也さんと初めて出逢った時の、あのなんとも言えない嫌な感覚が身体全体を駆け巡る。そして、何もかも見透かしたような紅い瞳。

この男は全てを知っている。そんな認識が頭に浮かんだ。それこそ人の心の中を読めるような能力があれば可能かもしれないが――いずれも人外の成す術だ。



「そういえばさぁ、みさきちゃん。あの日連れ去られたバンの中に、なにか忘れ物しなかった?」

「ぁ、……え?」

「ひどいなぁ。忘れたの?俺がせっかく貸してあげたのになぁ」

「……!! す、すいませ……?」



突然切り替えられた話題にすぐに頭が対応出来ずにいたが、臨也さんに借りた黒いコートの存在を思い出し――またもや不思議な違和感を覚える。臨也さんの言う通り、連れ去られた際にバンの中に置いてきてしまったはずの黒いコートが何故か"ここ"にあるのだ。



「臨也さんが回収してくれたんですか……?で、でもどうして場所まで……」

「まだ分からない?……ずっとね、聞いてたんだよ。あの時の会話も、全部」



「まぁ、このコートは他にも何枚か持っているんだけど」そう言って臨也さんはその『私に貸してくれた』黒いコートを右手で持ち上げ、左手でそのポケットの中から何かを取り出した。

それは刑事ドラマで幾度か見た事のあるような、黒くて小さな物体。それが盗聴機なのだと判明するのにそう時間は掛からなかった。『不安』がいつしか『戸惑い』に変わり、やがて『恐怖』に変換される。目の前が真っ暗になる感覚。それなのに頭の中は真っ白で。



「……どうして……そんな人を監視するような……」

「監視なんて、言い方がよくない。……俺はね、人間を深く愛してるんだ。人種なんて無関係に……あ、シズちゃんだけはどうしても好きになれないけどね」



恐怖が身体を支配し震える足で後退る。しかし途中ソファがそれを妨げ、足が縺れ、そのままストンとソファに座り込んでしまった。

それでも、臨也さんの歩みが止まる事はない。徐々に縮まる臨也さんとの距離。



「まぁ、全人類が好きと言っても、それこそ誰彼無しに『性欲』なんてものを感じる訳でもないんだけどね。みさきちゃんだけは……違うんだ。俺が今まで人類に抱く事のなかった感情が、何故だかフツフツと湧いてくるんだ」

「わ……、たし……?」

「なんでだろうねぇ、俺にも分からないよ。ただ、1つだけ言える事は……君がもし俺の言う事を聞いてくれたら"今までの事件"に関してのシズちゃんの無罪だけは証明してあげられる」



 今までの事件?

  シズちゃんの無罪?



ああ、だけどやっぱりシズちゃんは何も悪くなんかないんだ。何でも知っている臨也さんが言うんだから、それはきっと本当なんだ。



――……よかった。



それじゃあ今度は、私がシズちゃんを助けてあげる番。いつも私は自分の気持ちにすら気付けぬまま――いや、もしかしたら気付いていないフリをして、実はとうに気付いていたのかもしれないけれど――私はいつもシズちゃんに助けてもらってばかりいたから。

「で、どうする?」目の前で笑顔の臨也さんが、私を見下しながら再度問う。迷う必要なんてもうなかった。ただ、私が首を縦に振れば良いだけの事……。



「……本当に、シズちゃんを助けてくれるんですよね?」

「勿論。ただ…――」



臨也さんはそこまで言うと細長い両腕を伸ばし、私の頬を両手で包むとそのまま視線を自分と合わせた。温かいシズちゃんのとは違うほんの少し冷たくて、ひんやりとした臨也さんの手。私が頼れるのはこの人しかいない。その確信を胸に、私は敢えて黙り込んだまま彼の紅い瞳を見つめた。



「あとは、君次第」

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