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来るんじゃねぇか来るんじゃねぇかとは思っていたが、まさかこのタイミングでその時が来てしまうとは。

当たり前の事が嬉しかった。みさきといるのが楽しかった。そんな幸せな毎日は、もうすぐ終わりを告げようとしている。俺が懸命に守り続けてきた日常は、いとも簡単に崩れ始めた。





つけられている気配。敵意が剥き出しの監視の目。今日はそれが、いつもよりやけに強く感じられていた。俺だって鈍感ではない。ずっと前から気付いてはいた。仕事先にまで既に監視の目が向けられていた事に。俺だけならまだいい。だけど、このままでは関係のない他の人にも迷惑が掛かってしまうだろう。だから俺は誰にも相談せずに、これは俺1人で決めた。



「……あの、マスター」



きっとマスターも、警察から色々と聞き込みを受けていたに違いない。だからこそマスターは、俺に心配を掛けないように今まで気遣ってくれていた。

だけど、それは以前までの俺を知らないマスターだからこそ、だ。マスターは新宿から派遣されて来た人だから、池袋での俺の悪い噂を知らなかったのだろう。そうでもない限り、俺なんかが普通に働けないだろうと自虐的に自身を嘲笑う。



「俺、仕事辞めます」



勿論理由を問われた。だから俺は「貯金が目標額に達したから」だと嘘をついた。マスターは「おめでとう」と笑いながら、恐らく最後になるであろう今月分の給料を俺にくれた。

深々と頭を下げてから店を出る。茶色い封筒の質量が身に染みる。なんだかいつもに増して重たく感じた。ああ、俺は結局大切な人との約束を破ってしまった。そして今、更に俺は大切な人との大切な約束をこれから破ろうとしている。



「(……鍋、食べれそうにないな)」



まさかこんな事になるなんて、それはあまりにも唐突過ぎた。この時が今日訪れると分かっていたなら、俺はみさきを抱き締められたのに。たくさんたくさん抱き締めたのに。

もっと色々な事をしておけば良かった。みさきと行きたい所、やりたい事、まだまだたくさんあったのに。



「無様だねぇ、シズちゃん」



臨也の声が耳元で響く。随分と久々に目にした臨也は相変わらずの黒を基調とした服に身をつつみ、頭には深くフードをかぶっている。途端にカッと頭に血が上り、俺の右手がほぼ反射的に標識を掴む。メキリと鈍い音をたてる道路標識。

無言でヤツを睨み付ける。臨也は全く怯む事なく、寧ろ挑発的に俺の目の前に顔を寄せて来ると、人差し指を唇に添えて言った。



「君に好きな人がいるなんてね」

「んな……ッ!」

「……あっはは!情報屋であるこの俺が知らないとでも思ってたの?甘いねぇ」



何もかも見透かされているこの感覚が気に食わない。

こいつのことが嫌いな理由は、始めからなかった。あえて言うのなら、俺は多分、こいつの偉そうな態度が気に入らないのだ。人を小馬鹿にしているような、この見下したような視線も全部。



「ま、今更シズちゃんと話したい事なんて何にもないよ。どうせシズちゃんは捕まっちゃうしね」

「手前……やっぱり手前の筋書き通りだったって訳かよ」

「まぁね。まさかこんなにうまくいくとは思ってもみなかったけど……」



だから、シズちゃんは単細胞なんだよ。そう言って笑う臨也に向けて、俺は言葉よりも先に標識を投げた。

臨也はそれを馴れた様子でヒラリとかわし、右手に忍ばせていたナイフを向ける。パサリとフードが取れ、そして不適に笑う。



「相変わらず短気だねぇ、……ああ、でもね、1つだけ俺にも誤算があったよ」

「そんな話聞きたくもねぇな。その口を開く前に、さっさと死にやが……」

「みさきちゃんの事だよ」

「!?」



臨也の口から出てきたのは意外にもみさきの名前だった。思わず言葉に詰まる俺を見て、臨也は心底楽しそうな表情を見せる。

同時に込み上げてくるものは、行き場のない怒り。



「ノミ蟲が……みさきの名前を軽々しく呼ぶんじゃねぇ」

「えー、なにそれ?彼氏面のつもり?みさきちゃんに肝心の事はなぁんにも話さなかったくせにさ!」

「黙れ!」



ああ、言おうと思ったさ。何度も何度も。だけど、やっぱり駄目だった。俺にはもう少し時間が必要だった。その残り少ない猶予が、既に自分には残されていない事を、俺はとっくに気付いていたのに。



「手前だって、どうせみさきに善人面して近付いてんだろ?臨也くんよォ」

「……ははッ、確かにそうかもしれないねぇ」



臨也は特に否定する事なくあっさりとそれを認めると、身を翻してこう言った。



「だからみさきちゃんには、これからは本当の俺を見てもらうつもりだよ?何もかも隠さずに、ね。本当に好きなら、隠し事なんてしないもんね……?」

「……臨也。手前、まさか……」



いいや、そんなはずはない。こいつは全人類を愛してるだとか抜かすヤツだ。俺の知る限り、今までだってそうだった。高校時代だって自分に好意を寄せている女だと知ればとことん自分のいいように利用したり、女を都合のいい道具のようにしか見ていなかったあの臨也が……みさきを?そんな事許される訳がねぇ。第一、どうしてよりによってみさきなんだ?みさきは俺だけのものなのに。

「……やっぱり手前は、今ここで殺しといた方がいいみたいだな」自分でもびっくりするくらいに、冷たくて低い声が喉を震わす。両手の指がゴキリと鳴る。それでも臨也は動じない。



「やだなぁ、シズちゃん。みさきちゃんは誰のものでもないんだよ?君がどうこう言う資格なんてないじゃない」

「……ッ!分かってる分かってる分かってる!手前が言いたい事はそれだけか!?ンなありきたりな事、聞きたくもねぇんだよ……!!」



――ああ、俺、格好悪ぃ。



臨也なんかの目の前で、どうしてこんな事言わなくちゃいけないんだ。答えは単純。みさきが大好きで――何よりも大切だから。

みさきのためなら俺は何だってできると思ってた。けど、それは違った。心の底では感じているのかもしれない。俺がみさきを想う事が、結果としてみさきや俺自身を苦しめる事になるという事を。俺がみさきの前から消える事が、最善の結末なんじゃないかと。



「ま、優しいみさきちゃんの事だから、もしかしたらシズちゃんを助けるために俺を頼るかもしれないね?……安心しなよ。みさきちゃんの頑張り次第で、シズちゃんの汚名は何とかなるかもしれないしさ!」

「! ふざけんな!」



みさきに何させるつもりだこのノミ蟲……!

逆に清々しいくらいの満面の笑みで逃げ出す臨也を捕まえようと曲がった先――カッと突如強い光が、俺の姿を照らし出す。たくさんのパトカーから次々に降りてくる強面の警官たち。



「平和島静雄発見!チームとの暴力事件、及びに未解決事件の重要参考人として逮捕する!」



意味分かんねぇ言葉をまくし立てられ、長い棒のようなもので背後のフェンスへと押し付けられ、身動きの取れなくなった俺を遠目に臨也は口端を歪めて笑う。

声が直接耳に届いた訳ではないが、何を言っているのかは口の動きだけで容易に理解する事ができた。



「ばいばぁい、シズちゃん」

「…………ッッッ!!」



邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ!

どうして俺の邪魔ばかりする?俺はただ、みさきと一緒にいたいだけなのに、それすらも許されないと言うのだろうか。……俺が化け物だからか!?みさきと違うから!?だったらくれてやるよ、こんな力……!!



「……うぜぇ……!」



うぜぇうぜぇうぜぇ!ノミ蟲の野郎も、この力も、俺の邪魔をするものは全て。

短気な俺の短い怒りボルテージは既にマックスを超えており、気付けば道端の自動販売機を頭の上で持ち上げていた。その威圧感に圧倒された警官たちが一瞬怯むが、すぐに気を取り直すと突撃体制へと移る。



「(……くそっ)」



――俺、何してんだろう。



これ以上仕事を転々としないために、弟の幽とも約束したじゃないか。あんなにバーテン服だけ貰っといて、俺はその約束を結果的に破ってしまったのだ。

「今夜は鍋にしよう」――みさきが言ってた。ガキみたいに楽しみで楽しみで仕方がなかったのに、今夜はどうやら無理のようだ。今日は早めに帰ってやろうと思ってたんだけど、な。

投げられた自販機は円を描くようにして軽やかに宙を舞い、パトカーの上に落下する。割れるガラス。溢れ落ちる缶ジュースの数々。



「なッ、まさか……!」

「本当にあれを持ち上げるなんて!」

「化け物か!?」



口々に言う警官たちの声は、もう俺の耳には届かない。逃げたって抗ったって、どうせ無理な事は頭で理解しているつもりだった。全ての元凶である――あの妙にすばしっこくて口先だけの、ウザさだけが取り柄のような――世界一大嫌いなアイツの名を、俺は夜空の月に向かって吠えた。怒りを声量に変換して。

今宵の月は紅かった。

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