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火照った身体を冷やすように、私は冷蔵庫からスポーツ飲料の入った500mlのペットボトルを取り出すとそのまま一気に飲み干す。
それでも身体から火照りが消えてはくれなくて、シズちゃんの着せてくれたシャツの裾を思わずギュッと握り締めた。シャツからはシズちゃんのにおいがした。
「……私って、」
誰に聞かせる訳でもなく、空っぽになったペットボトルを見つめながらポツリと小さく言葉を紡ぐ。今日はたくさん私の知らないシズちゃんを見た。多分、私は今動揺しているんだと思う。胸に手を置く。鼓動の速度がいつもより早い。
脱力感。それと同時に、私はシズちゃんに関してあまりにも無知過ぎたのだと改めて感じた。シズちゃんが今まで私に色々と打ち明けてくれなかったのも、きっと私の無力さ故になのだろうか。そう思うと、今までの私は本当に無神経な人間だと思った。何も知らずに、ただ――呑気に笑っていた。
「……ッ」
片手で握っていた空っぽのペットボトルが、ベコリと音をたててヘコむ。
シズちゃんはまだ浴室にいた。何をしているのかは分からないけど、特にかける言葉も見つからないのでそのまま1人にして来た。シズちゃんに本気で怒られたのは初めてだった。そしてあんなに儚くて壊れてしまいそうなシズちゃんを見たのも今日が初めてだった。
今日の出来事がまるで走馬灯のように頭の中を駆け巡る。全く現実味のないような――だけど、夢じゃない。それは確かに現実だった。
シズちゃんは、やっぱり何か大事な事を私に隠し続けている。これは確定。そして『化け物』と呼ばれ恐れられている『平和島静雄』の正体は定かではない。もしかしたら、とも思うが、確信がないから分からない。私に全く関係のない人かもしれないし、いずれにせよ真実はシズちゃんの口から直接聞きたいと思ったのだ。
人は誰しもが秘密を抱えて生きている。それは私にだって言える事だし、現に臨也さんとの事も"あの事"もシズちゃんに未だに打ち明けていないのだから。ただ、思い詰めたようなあのシズちゃんの顔が今でも忘れる事ができない。
「(……離れたくない)」
もはや「離れる」という選択肢は私の中に存在しなかった。ううん、別に打ち明けてくれなくたっていい。ただ私には――私の日常にはどうしてもシズちゃんの存在が不可欠なのだ。
いつからこうなってしまったのだろう。胸がギュッと締め付けられるように痛い。恋慕とも言えないこの感情の名を私は知らない。
「……みさき?」
用を済ませて浴室を出て、リビングに戻るとみさきが俺の着せてやったシャツ1枚姿のままでソファの上に寝そべっていた。勿論下には何も履いていないだろうし、かろうじてシャツの丈がほんの少し長いくらい。
やっとの事で落ち着いたというのに、ああもう、なんて美味しいシチュエーションだよコレ。
「(……仕方ねぇな)」
落ち着いた身体が再び疼くのを押し殺しながら、みさきの身体に毛布をそっと掛けてやるとみさきの肩がピクリと動いた。そしてやがてゆっくりと瞼を開く。
「あ……シズちゃん?」
「お、おう」
毛布にくるまったまま身体を起こすみさき。俺は今更になって純粋な性欲が沸き上がってきたのを感じ、やや顔を背けながら短く言葉を返した。
みさきが一瞬悲しそうな表情をした気がして、慌ててみさきに向き直る。だけどその顔を見てしまった次の瞬間――心拍が更に激しくなった気がした。みさきの様子がいつもと違う。どうしてだ。そそるような際どい格好に、ほんのり染まった頬だとか――いや、違う。それだけじゃない。いつもと違って表情がやけに色っぽいだとか。
――誘ってんのか……?
――……。
――いやいや、まさか。
「ねぇ、シズちゃん」
沈黙を先に破ったのはみさきの方だった。両手で握り拳をつくり、そして視線を俺の方へと向ける。何故だか俺はこの状況に物凄く緊張していた。
「何を隠しているのかは分からないけど……でも、シズちゃんが誰だろうと、私にとっては変わりないから……絶対に追い出したりしないから……」
「……」
「だから……、 ……ッ」
最後の方は言葉にならなかったようで、視線を徐々に下げつつもみさきはとうとう俯いてしまった。身体を小さく縮込ませ、まるで小動物のように見える。
お互い何から話せばいいのかも分からず、ほんの少しの沈黙の後、自然と俺の口から漏れたのはほんの少し深い溜め息。そして安堵。
みさきが俺に不信感を覚えていない事が、素直に嬉しかった。どうやらみさきは未だに俺の正体には気付いていない。
「……ホントだよなぁ……ホント。みさきは本当に鈍感だ」
――まぁ、そんなところも全部ひっくるめて好きなんだけど。
俺は2度目の溜め息を吐くとみさきの目線の高さに合わせてしゃがみ込んだ。必然的にみさきと視線がぶつかる。互いの目が合う。
「どうせみさきは何も知らなかったんだろうなぁ」
「う……?」
「みさきに対して正直、卑猥な事を考えたりもした」
「ッ!?」
そして顔を一気に赤面させたみさきの頭を、ぐしゃぐしゃに撫で回してやった。
みさきが慌てて両手でそれを妨げようとするが、時すでに遅し。自分の気持ちを誤魔化すために俺はわざとおどけたフリをした。
「でも、みさきが考えてるのとはちょっと違う。確かに男なんて性欲の塊みてぇなモンかもしれねーけど、今なら何とか理性で食い止められる」
――そう、"今"なら。
人間ってのは欲深い生き物だ。常に更なる要求を求めて生きている。
始めは居心地の良かった関係にも、最近はだんだんと物足りなさすら感じるようになっていた。傍にいれるだけでも幸せだったのに、今ではその価値観すら変わってしまった。もっと触れたい。抱き締めたい。そして勿論その先の事もしたい。そんな願望に俺の身体は忠実過ぎた。
「だけど多分俺は……ほら、みさきも見ただろ?俺は普通じゃない。自分の力をコントロールできねぇんだ。今までは何とか抑え込んできたけれど、これから先抑えきれるかと訊かれれば……正直、自信がねぇ」
いつ言う事を聞かなくなるかさえ分からない、自分勝手な俺の身体。きっと俺はこの手でみさきを傷付けてしまう。ずっと前から恐れていた事がこれだ。
でも、今ならきっとまだ間に合う。これ以上俺の気持ちが歪む事もない。
「だから、もし俺を怖いと感じたなら――今、この場で俺を追い出せよ」
これは1つの賭けだった。
俺はみさきが願えばここに止まっている事もできるし、すぐに出て行く事だってできる。勿論、俺は前者の方だが自分の考えを押し付けるつもりは毛頭ない。
「……」
みさきはぐしゃぐしゃになった髪を手グシを整えるのをピタリと止め、ほんの少し下を向いてすぐに顔を上げた。
「私は……シズちゃんと一緒にいたい」
とても、とても静かな声。
それなのに、部屋の中でやけに響いて聞こえる。
「追い出すなんて、今更できないよ……」
それは、俺が1番願っていた言葉だった。
「本当の事なんて話してくれなくてもいい。シズちゃんが私を助けに来てくれた事には、変わりないから」
みさきは「何も言わなくてもいいよ」と言った。いつか言わなくていけなくなる日は来るのかもしれないけれど、それだけで俺の心は救われたような気がした。
少しずつ……少しずつでもいいから、俺はみさきに俺自身の事を知ってもらおう。やっぱり『平和島静雄』についてはしばらく話せそうにないけれど……それでもいつかは打ち明けよう。
「……いいのか?俺なんかがここにいて」
「うん」
「またなんか迷惑かけるかもしんねーぞ?」
「うん」
「……押し倒してもいいか?」
「う……うん?」
こんな会話前にも1度したっけな。以前とは立場が違うけど、なんて事を考えながら俺は心の底から笑った。「ウソウソ、冗談」と。まぁ、半分本気だったけど。
一瞬真に受けたのだろうか、みさきが口をパクパクさせる。単純なヤツをからかうのは本当に面白い。
「……」
「……みさき?」
「……」
「(やべ、怒ったかな)」
「……シズちゃんなら、」
「?」
「シズちゃんなら……別に、いいよ」
――……え?
――……えーと、
――えええええええ!!?
「お、おま……!女がそんなこと軽々しく口にすんじゃねーよ!」
「か、軽々しくなんかないし!」
顔がだんだんと熱くなる。さっきまでの余裕はどうした、俺。
ホント、みさきといると全然落ち着けやしねぇ。昔はこんなに笑ったり怒ったりしなかったのに――あぁそうか、これが振り回されているって事か。確実に自分のペースが崩されている。
――でも、嫌じゃないんだよなぁ。
「……じゃあ、みさきのお許しも出た訳だし?」
「! ……だ、駄目!今は駄目!今日は疲れたからもう寝る!!」
こうしてみさきは始終顔を真っ赤にさせながら、そそくさと毛布に潜ってしまった。そんなみさきを可愛いと思いながら、俺も電気を消してからみさきの隣で静かに目を閉じる。色々な事を考えた。俺は本当にここにいてもいいのだろうか、確実に歪んでゆくみさきへの想いを俺はどうしたらいいのだろうか。ただ、今は、もう寝よう。また明日も明後日もその先も、どうか幸せな日々が続きますように……。
眠りに落ちる直前まで、俺はそんな日常を夢見た。