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「やめて!シズちゃん!」



刹那、シズちゃんの拳が男の目の前――まさに鼻先に到達する寸前で、その動きは完全に停止した。物凄い勢いで流れていた空気が強制的に停止され反動でぶわり、と強い風が私の前髪を大きく揺らす。もしこの拳が男の顔面にめり込んでいたら頭蓋骨が粉砕していてもおかしくないような、そのくらいの威力が今の一撃にあっただろうと見て取れる。シズちゃんの動きには無駄がなかった――というよりも、相手に対しての一切の容赦が全くなかったのだ。そして今もやはり容赦も躊躇もなく。

その気迫に滅入ったのだろうか、拳の矛先である肝心の本人は口をだらしなく開けたまましばらくポカンと呆けていた。しかしようやく時間を掛けて自分の状況を理解出来たのか、すぐ目の前にあるシズちゃんの拳に男は一瞬たじろぐと足元をふらつかせて後ろに倒れた。尻餅をついても尚後ろに両手をついたまま、ただジリジリと怖じ気づいたようにその場から立ち去ろうとする。まるで、それこそ世にも恐ろしい化け物に命乞いをするかのように。



「……ひッ、あぁあ!」



狂ったような叫び声をあげながら、身を翻して逃げ出そうとするブルースクウェアの男。しかし逃げる前にその襟首をシズちゃんの長い腕によりむんずと捕まれ、いよいよ逃げ出す事が出来なくなってしまった。

物凄い形相で男に殴りかかろうとするシズちゃんの身体を背中から抱きしめ、何とか彼を思い止ませようと必死になって食い止める。



「てめ……!逃げるんじゃ……」

「シズちゃん!もういいから!」

「うるせぇ!こいつをぶっ殺さねぇと俺の気が済まねーんだよ!!」

「シズちゃん!!」



一際大きな声で、私は私の知っているいつもの彼の名前を呼んだ。私としては複雑な気持ちを抱えながらも、ここは男達に少しでも早くこの場から逃げてもらう事が懸命だと瞬時に判断したのだ。このままだとシズちゃんがその手を汚してしまいそうだから。それだけは嫌だ。だから決してこの男達の為ではないのだ。「助けてくれてありがとう」そう言わなくちゃいけないのに、「もう大丈夫だよ」――平気なフリを装って笑ってやらなくちゃいけないのに。さっきまでのシズちゃんは紛れもなくシズちゃんであって、私の知っているシズちゃんではなかった。

正直不安だったのだと思う。ただ少しでも早くシズちゃんを安心させたくて、うまく出ない言葉の代わりに私はシズちゃんを引き止めようとした。そして鋭い鈍痛が片腕全体を走る。



「痛ッ」



途端、その一言にシズちゃんの身体が敏感とも言える反応を見せる。身体をビクリと大きく強張らせて。

この感覚からして、私はどうやら腕の骨を男にへし折られてしまったらしい。赤く腫れ上がった部位にシズちゃんの腕が当たってしまったようだ。引き止める事をひとまず諦めると、うずくまるようにしてじんじんと痛む片腕を抱える。そこでようやくシズちゃんが男の襟首から手を離し、男がドスンと床に転げ落ちた。ゲホゲホと足元で座り込んだまま咳き込む男の姿を憎悪の目で見つめながらもシズちゃんは何も口にしようとはしない。その態度や何から何まで、彼がいかに憤りを感じているのかが私には分かる。ただその爆発的な感情が私の為によるものであってそれが何だか申し訳なかった。



「ち……畜生!出直すぞ、てめぇら!」

「えっ、で、でも……」

「いいから早くしろ!」



逃げるように次々と逃げ惑う青色の男達を尻目にシズちゃんは何か言いたげな顔をしてすぐに口を紡いだ。

拳をゆっくりとした動作で下ろし、だらんと力無くぶら下げる。ふいに目が合うとシズちゃんはほんの少し悲しそうな顔をした。まるで「どうして止めたんだ」と私に訴えるかのように。



「………」

「………」



沈黙。周りが騒々しいにも関わらず、2人の間ではただ気まずい雰囲気だけが静かに緩やかに流れる。

青色が疎らになり始めた頃暫く無言の時が工場内を支配したが、最初に耐えかねたのはシズちゃんだった。耐えかねたというよりはむしろ、決意したと言った方が正しいのかもしれない。



「悪ぃ」



それだけ言って、シズちゃんは自分の着ていた白シャツを脱ぐと私の肩にかけてくれた。上半身裸のシズちゃんの姿に羞恥心からか一瞬目を背けるが、よく見るとシズちゃんは身体中が以前よりも傷だらけだった。それも、どれも新しくできたばかりの生々しい傷跡。

確かに喧嘩の強さはシズちゃんが圧倒的ではあったものの、あれだけの人数を相手にして当然ながら無傷で済む訳がない。それでも見る限り目立った外傷はなく、ほんの少し安心した。



「俺がみさきのすぐ傍にいれば、こんな事には……」

「……え?」



次に出て来たのは謝罪の言葉。予想外の展開に驚きつつ、常にシズちゃんの紡ぐ言葉1つ1つには正確に耳を傾けていた。



「でも……」



そこまで言って、シズちゃんはゆっくりと私の方へと歩み寄る。時折ジャリ、と砂利を踏みしめる小さな音を響きかせながら。ゆっくりと、ゆっくりと。

気付いたら周りには誰もいなかった。ついさっきまでは数十人の人間が群れていた工場内も今や2人のみ。



「あいつらは絶対、俺がぶっ殺してやるから」



まるで自分自身に言い聞かせるかのように。

シズちゃんは憤りと悲しみを足して割ったような、複雑な表情をしていた。



「今はみさきを綺麗にしてやらなくちゃな」

「……シズ……」

「大丈夫」



私の声は遮られ、変わりにきつく抱き締められる。強く強く、それでいて割れ物を扱うような手つきで。

シズちゃんは笑っていた。だけど目は笑っていなかった。その瞳に今や映らぬ者への怒りを燃やしながら。



次の瞬間、ぐらりとした衝動に足元をふらつかせる。頭が痛い。今日は色々な事が起こり過ぎた。疲労を蓄積させた私の身体は既に限界を越えてしまったらしい。前のめりに倒れかけたところをシズちゃんに支えられ、倒れる事は免れたものの立ち上がる気力さえ今の私からは喪失していた。



――…ああ、眠いなあ。



「俺が守ってやるから」



決意するかのような力強い口調。それはシズちゃんが時折私に見せる、私の知らない男の人の顔だった。

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