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「え、嘘!終電時間過ぎてる!?」
幸せな時間ほど時が経つのが早く感じるものだとよく言うが、今日ほどそれを実感した事はない。次に電車が池袋駅にやって来るのは数時間後の早朝だろう。みさきが嘆いてるすぐ隣で、もう暫くは電車が通る事のない線路を見つめながら俺は小さく身震いした。とにかく寒い、半端なく寒い。
東京の冬の夜は意外に厳しいものだ。次の電車が来るまでの時間を外で過ごすのはとてもじゃないが不可能ときた。俺だけならまだいい、だけどみさきにだけは寒い思いを極限させたくない。畜生あの不良共のせいで……!と、やはりあの時我慢せずに殴り殺していれば良かっただろうかと後悔の念を感じ始めた頃、俺の頭を1つの提案が過った。
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初めに言っておこう、別にあわよくばなんて下心がある訳ではない。断じてない――とは決して言い切れないのが本音。しかし終電を逃したせいで俺等の住む新宿のアパートには帰れないし、ここらの宿泊費は皆高い。況してホテルなんてもっての他。逆に下心丸出しだとみさきに勘違いされても可笑しくはないだろう。
「それじゃあ、さ」
始発が来るまで俺んちに来るかと試しに訊ねてみたところ、みさきは意外にもあっさりと行ってみたいと乗り気だったのだ。思い返せば随分と久々な俺の我が家だ。一応は追われている身でもある為、極限家には戻りたくなかったのだが幸い奴等に会う事はなかった。
おまけに、あれからかれこれ1ヶ月は経つのだから流石に待ち伏されてはいないだろうし、今夜に限ってそれは無いだろうと何の根拠もなしに考えたのだ。
「お邪魔しまーす……」
そういえば家に女を上げるのは生まれて初めての体験だったりもする。狭い玄関に綺麗に揃えられたみさきの靴。俺の靴と並べると彼女の足の小ささがやけに目立つ。いや、単に俺がデカいだけなのかもしれない。
そんなどうでもいい事に気が行ってしまうのは、きっと心の底から緊張しているから。こうもやけに緊張するのはどうしてだろうか。
「意外に綺麗なんだね」
「必要最低限のものしか置いてないからだろ、多分」
周りをキョロキョロと見回すみさき。同時に見つかってはいけないようなものが出し放しでないか咄嗟に確認するものの、今のところそれらしきものは見当たらなかった。内心安堵し、ほっと胸を撫で下ろす。
「あ、そうそう。私からのプレゼントだけどね」
「!」
「……あの、そこまで喜ばれると……あんなに高いもの頂いた手前、かなり渡しにくいんですが……」
単純な奴だと笑われてしまうかもしれないが、好きな女から貰うものはどんなものでも嬉しい。両の手の平にそっと乗せられたのは洒落た香りのする赤い小瓶。
「……香水?」
「そ、香水。私、匂いに弱くてね。すぐ酔っちゃうんだ」
だからシズちゃんには私の好きな香りをつけて欲しくて、と気恥ずかしそうに話すみさきを俺は無性に抱き締めたくなった。ヤバいヤバいヤバい、ひたすらヤバい。相手を愛しいと感じる想いがどんどんと膨れ上がってゆく。ただでさえプレゼントを貰えたってだけでも嬉しいのに、そんな可愛い事を言われてしまえば気持ちの抑えようがないではないか。ただ今の気持ちを表現する為のなかなかいい言葉が見付からず、棟腐なフレーズしか思い浮かばないのが何だかもどかしい。
言葉に出来ないくらい嬉しい――なんて、まるで中学生が作文に書くような使い古された表現を今の気持ちに当て嵌めたくなかった。
「すげぇ、嬉しい」
「ほんと?良かった」
「一生大事にする……!」
「あはは、大袈裟だなあ」
俺はみさきから貰ったこの香水を無駄に使う事は決してないだろう。一瞬パン屋のお姉さんから牛乳を貰った時の事を思い出した。それは幼き頃に経験した未だに続くトラウマの1つであり忘れる事を許されない失態の1つ。だけど今回はきっと大丈夫だ、俺は2度と同じ過ちを繰り返さない。
「あのね、香水のパッケージ見て決めたの」
「パッケージ?」
「うん。【抗うことのできない魅力溢れる爽やかスパイシーな香り】って書いてあった。……ほら、これ」
「うお、まじだ」
「なんだかシズちゃんぽいなあって」
「……どこらへんが?」
「全体的に」
よく分からないけれど誉め言葉として受け取っておこう。笑いながらなんだよそれと言ってみさきの頭を軽く小突く。多分今みたいな一時を幸せな時間だと言えるのだろう。好きな女と他愛のない会話を交わし、聖なる夜に互いのプレゼントを交換し合う――そんな当たり前のような非日常を。
俺にとっての日常は一般人の日常と大きくかけ離れており、一般的な感性からすれば日常とは言い難いものだった。それは高校生時代から引きずるように今も引き継がれている。柄の悪い野郎に喧嘩を売られ、イラついたから殴り飛ばし、そしてまた俺の噂を聞きつけたチンピラ共が俺の元にやってくる、そんな悪循環。
「なぁ、みさき」
「ん?」
「あのネックレス貸して」
「どうして?」
「つけてやるから」
だからこそみさきといる時間は本当に幸せだった。俺を化物としてではなく人間として見てくれるその温かな目が好きだった。一般人にとっての当たり前がかけがえのないものに思えた。
ネックレスを片手にみさきの背後へと回る。みさきの長い髪を持ち上げようとして首筋に指先がほんの少し触れた。ビクリ、と肩が震えると同時にみさきの可愛い声が洩れる。改めて「本当に敏感だよな」と思うも口にはせず、色々と思う所があったもののとりあえずチェーンを掛けてやった。
「(つーか、今の声、声)」
「あ、ありがとう……」
「お、おう(声……)」
きっと本人は自覚ないんだろうけど、みさきの声は物凄く可愛い。もっと色々な声が聞きたいと思ってしまう。自分のロリコン疑惑を疑ってしまう瞬間だ。俺は無言のままみさきの肩に顔を埋めると、そのまま背後から抱き着いた。
「……シズちゃん?」
「(あー……なんか、いいにおいする)」
こんなにも近くにいるのに手に入らない苦しみはこんなにも大きい。俺はみさきの小さな身体を抱き締めたまま、そのままベッドに倒れ込んだ。無造作に掛け布団を掴み取りみさきの身体ごと包み込む。今の気持ちを何らかの言葉にしてしまいたかった、物凄く唐突に。そうでもしないとみさきを好きだという感情が堪えきれずに溢れ出て、いつしか感情のままに自分すら思いもがけない行動を引き起こしてしまいそうだから。
「俺……」
だけどそれを躊躇ってしまうのは、きっと俺が化物だからだろう。俺、こんなにみさきが好きなのに。好きで好きで、堪らないのに。
「……シズちゃ……」
「(……駄目だ)」
言える訳がない。ここでその一言を言ってしまったら今まで積み上げて来たもの全てが無駄になってしまうんじゃないかって、今までの非日常が消えてしまう事を俺は酷く恐れた。今や俺は、みさき無しではもう生きていく事さえ出来ない。
もしクリスマスの奇跡なんてものがあるとしたら――どうかどうか、俺を、