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「平和島静雄って人、知ってる?」
今のみさきの台詞で、危うくシチューを吹き出しそうになったのを何とか堪えた。知っているも何も、それは正真正銘俺の名前だ。
苗字はともかく、両親が何を思って『静雄』と俺に名付けたのか――もし静かな子に育って欲しいという願いが込められていたのなら、俺はことごとくその期待を裏切っている訳だが――それは定かではない。ただ同じ名前の人間が近くにいるとは考えにくいし、やはりみさきの口にする『平和島静雄』とは、恐らく俺の事を指すのだろうと思う。
「ゲホッ、ゴホッ……!」
「だ、大丈夫?涙目だけど」
冷静かつ平然を貫き通すつもりがすっかり動揺してしまった俺。噎せて咳き込む喉の奥へとコップに注がれた冷たい水を流し込み、ようやく落ち着いてきた頃に再びみさきに向き直った。
「その名前、どこで聞いた?」
「んー、風の噂で」
「風?」
「まぁ、池袋に住む友達?みたいなのから聞いたんだけど」
で、どうなの?と念を押すように再び同じ質問を投げ掛けてくるもんだから、俺はとりあえず曖昧に答えておく事にした。こういう時のみさきの探求心は徹底的だ、ヘタな嘘はつけない。
恐らくその熱意を勉強へと注ぐ事が出来たらなら、間違いなく秀才にでもなれるだろうに――と、実際口にした事がある。親にも同じ事を言われた事がある、と不機嫌そうに言っていたから、やっぱり思う事はみんな同じなんだ、きっと。
「名前、くらいなら」
「へぇ」
テーブルに頬杖をつき、ブラブラと貧乏揺すりを始めるみさき。食べ終えたらしいシチューの皿の中はいつの間にか空っぽだ。それに対して俺の皿には未だにシチューが残っている。この話題になってから平然とした態度を取れずにいる俺は、内心緊張に押し潰されつつあり、自然と食が進まずにいた。スプーンを握り締めた右手も、皿に添えた左手も、みさきの口から『平和島静雄』の名が出てきた瞬間のまま止まっている。
暫しの沈黙。みさきは真剣な表情になったかと思うと、こんな事を話し始めた。
「なんかね、平和島静雄って人……危険なんだって」
「……は、」
「私も今日初めて聞いたんだけど、なんか、物凄く凶暴な人らしくて」
危うく頭の中がフリーズしそうになる。おいおいちょっと待て。危険?凶暴?いや、確かに今までの行いを考えたらそう思われても可笑しくないのだろうけど。
なんでみさきがその事を、
「信じられない話だけど、自販機とか重たいものも持ち上げちゃうらしいし、極限近付かない方がいいって」
「……へぇ」
――近付くもなにも、
――……"俺"、だしな。
「ほら、シズちゃん池袋で働いてるじゃん?」
「……」
「だから、心配で……さ」
みさきが俺を気に留めていてくれているのは素直に嬉しい。嬉しいのだが、果たしてこの状況下で素直に喜んでいいものなのか。
「サンキューな」
「いやいや、シズちゃんってば細身だから心配だよ」
「……そんな事ねーし」
「えー」
「えー、て何だよそれ」
きっとみさきの中の俺と『平和島静雄』は似ても似つかぬ存在なのだろう。つまり実際は『≠』。例え裏側に『=』という残酷な真実があったとしても――
だから俺は、そんなみさきの台詞を聞きたくはなかった。俺は内心怯えていたんだ。みさきに今まで隠して通してきた、本当の自分がバレてしまうのではないかと。俺はただの臆病者だ。
「世の中ほんとに物騒だよね」
「……」
「私も以後気を付けなきゃなあ」
「……」
「……シズちゃん?」
全く反応のない俺を心配して、みさきが俺の顔を覗き込む。見られたくない。今、俺、絶対変な顔してる。
「シズちゃ……」
「見んな」
言葉を強引に遮るとみさきの動きがピタリ、と止まった。様々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った、訳の分からない怒りをぶつけるように。俺はみさきの右手を掴み取り、自らの方へと引き寄せた。ガタンッ、と椅子が音をたてて倒れる。
痛い、とみさきが小さく悲鳴をあげた。どうやら掴まれた箇所が痣の残る手首だったらしく、痛むらしい。
「痛いよ、シズちゃん」
まるで懇願するように眉を寄せ、悩ましげに俺を見上げるみさきの顔は、気が狂う程に可愛く見えた。
ぞくぞく。ぞくぞく。
「(ああ、またこの感じだ)」
「……あの、」
「(なんでこんなに可愛いんだろうなあ)」
「そんなに見つめられると照れるんだけど」
「何だよ今更。昨夜は小一時間ずっとキスしまくってたんじゃ……」
「わーー!言わないで言わないで!」
ほんの少しからかってやると、両手をバタバタさせて慌て出すみさき。騒がしい口をそっと塞いでやると、みさきは耳まで真っ赤にして急に大人しくなってしまった。黙らせたい時にはこの方法が1番有効らしい。
「……キス魔」
「何とでも言え」
「変態」
「……」
「変ー態ー」
「そこまで言うか」
今まで人に恐れられる事には慣れていた。どんな暴言や仕打ちにも、耐えて生きてきたつもりだった。そしてそれはいつしか日常へと変わる。俺は誰にも愛されないのだと、自虐的になりつつもここまできたのだ。
それなのにどうしてみさきに恐れられる事を、俺はこんなにも恐れているのだろう。俺はいつまでみさきの知る『シズちゃん』を演じ続ける事が出来るのか。
「その『平和島静雄』ってヤツの事は、忘れろ」
自分の名だと感づかれぬように、他人事のように言い聞かせた。みさきはじっと俺の目を見る。何となくそらしちゃ駄目だと思った。
「大丈夫だよ。俺は」
「……なにを根拠に」
「俺、つえーし」
「嘘だ」
「嘘じゃねえよ」
みさきが恐れる俺なんて圧し殺してしまえばいい。少なくとも俺は、みさきと一緒にいる今の自分こそが本当の自分だと信じたい。
人間になれなくても構わない、他人にどう思われようと知った事か。一生バケモノでも我慢するから、だからどうかみさきの傍に――ずっといられますように。