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「ああ、平和島君。ちょっといいかな」



ある程度仕事が終わり、休憩がてらに近くのファーストフード店で購入したバニラ味のシェイクを飲んでいると、マスターにちょいちょいと手招きされた。駅の近くに位置するこのバーでは、働いているヤツは俺みたいな若い男ばかりだけれど、バーの主人であるマスターはほんの少し歳のいった、気のいい優しい人だ。

短く返事を返し、残り少ないシェイクを一気に飲み干す。紙コップを握り潰しつつ急いで向かうと、マスターは何やら分厚いものをバックの中から取り出し――



「これ、1ヶ月分ね」



そう言って手渡された茶色い封筒は、俺が待ちに待っていた給料その物だった。



「なんか、いつもより多くないすか……?」

「ちょっとしたボーナスさ。平和島君、何だかここ最近頑張ってたからねぇ」

「! ありがとう御座います!」



いつもより増した封筒の重量感に、内心心を踊らせながら深々と頭を下げる。なにかいい事でもあったのかい?とマスターに肘でつつかれ、俺は思わずにやついてしまうと同時に、マスターの勘の鋭さに驚いた。なるべく顔には出さぬよう極限控えていた筈なのだが。

俺はこの人に何度も助けられている。バイトを転々としていた俺がまともに働く事ができたのも、多分、この人のお陰だ。いつもありがとう、なんてこの人は言ってくれるけど、本来ならば俺の方こそが御礼を言うべき立場なのだ。だから俺はせめて期待には応えようと、日々の感謝の気持ちを込めて、与えられた仕事を自分なりにこなしている。



「初めはグラスを何度も割ったりと、色々大変だったけどねぇ」

「う、……すんません」

「いやいや、気にしなくていいよ。慣れないうちは皆そうだから」



そうなのか?と一瞬疑問が頭を過ったが、今は喜びの方が遥かに上回っていた。

給料の入った茶色い封筒を丁寧にしまい、もう一度マスターに向かって深々と頭を下げる。こんなにも給料日を嬉しく感じた事はない。それはきっと、家で待つ愛しい女の存在がでかい。



「それじゃあ、俺はこれで」

「うん。これからもよろしくね」

「うす……!」



足取りは自然と軽かった。

仕事は正直大変だけど、給料日に味わえるこの達成感が堪らない。


「……、と」

「!」



そのままバーの出口へと向かう際、何やら黒いスーツを着込んだ男の肩が俺の肩にぶつかった。反射的に謝るとお互い軽く会釈を交わし、そして相手の男は何事もなかったかのように、悠然とした態度でバーの奥へと歩いて行ってしまった。

ここに来る客は基本二十代の若い男女が多いといったところか。だからこそピッチリと身なりを整えた客が来るのは随分と珍しいなぁと思い、暫くその背を見送っていたが、やがて俺もその場を後にする。きっと仕事帰りなのだろう。扉を開けるとチャリン、と心地よい聞き慣れた鈴の音が小さく鳴り響いた。気が付くと外はもう既に暗かった。その後交わされる2人の会話なんて知る由もなく、俺は軽い足取りで夜道を歩く。





「すみません。貴方がここの責任者でしょうか」

「はぁ、まあ」

「実は『平和島静雄』という男を探しています。彼は今、ここで働いていると聞きましたが……」

「平和島君なら、あの、今さっき出て行きましたが。彼がなにか?」

「申し遅れました。私、警察の者です。実はですねぇ……」



♂♀



「ただいま」

「おかえりなさい」


俺が帰ると、みさきは真っ先に玄関へと迎えに来てくれる。夕飯の支度の最中だったのだろう、花柄のエプロン姿。ヤバい、可愛い。



「機嫌、いいでしょ?」

「分かるのか?」

「んー」



みさきは考え込むように首を傾げる。そして「なんか嬉しそうだから」と言って笑った。いつもと変わりないみさきの姿に内心胸を撫で下ろす、安心したら無性に腹が減ってきた。今日は朝といい、ろくな食事をしていない気がする。昼の時間中も結局セルティとの会話に没頭してしまい、大したものも食べずに今日1日を過ごしてしまったのだ。

腹が減ったと自覚すると共に腹の虫が鳴った。それを聞いてみさきはクスクス笑っていたけれど。



「……腹減った」

「ご飯できてるよ。食べる?」

「ん、でもその前に着替えて来るわ」

「今夜こそプリン、食べようね」

「食後にな」

「うん」



ああ、やっぱり俺は何かが変わってしまったのだろうか。みさきの腕に残る痣を見て、それがまるで俺の所有物であるかのようで、束縛を意味する証のようで。

物凄くぞくぞくする。これで一体何度目?ぎゅっと拳を握り締め、小さく息を吐く。こうでもしないと自分を抑えられそうにない俺の身体は、きっと何処かが狂ってる。そんな胸の内の葛藤を知らないみさきは、優しく俺に微笑み掛けた。俺はこの笑顔が好きだ、だからこそ失うのが怖い。もし俺が本性を剥き出しにしたとして、みさきは変わらずこの笑顔を見せてくれるのだろうか?



「ほら、ご飯冷めちゃうから運ぶの手伝って。今夜はシチューなんだよ」

「お、うまそう」

「でしょでしょ?」



何よりも大事なみさき。自分の今の平穏を守る為だったら、俺は何だってするだろう。だから、例えこの部屋からシチューのかおりに混じって"アイツな匂い"を感じようとも、例え腹の奥でどす黒い感情が渦巻こうとも――俺は敢えて気付かないフリをするんだ。全ては幸せな日常を守る為に。

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