>19
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「……〜、〜〜ッ!」
とうとう肺の酸素が底を尽きたらしい。みさきにグイグイと両肩を力いっぱい押し返され、名残惜しくもあったがようやく俺はみさきの舌を解放してやった。酸欠でほんの少し赤く火照った頬が堪らなく色っぽい。
時刻は9時、みさきを浴室から救出してから軽く2時間は経過している。時間の流れを忘れてしまう程に俺はみさきとのキスに夢中になっていたということだ。
「ぷはッ! ……ハァ」
「あ、……悪ぃ」
「私を殺すつもりですか」
どうやら俺は人一倍肺活量があるようだ。確かに銃で撃たれても死なないくらいに、やけに丈夫な身体だとは自覚していたが。実のところ俺自身、自分のことをよく知らない。どこまでが己の限界なのだろう、ふとそんなことを考えてみる。
今までに何度も数々の刺客を送られて来た俺だが、それでも喧嘩に負けたことは1度もない。そんな当時の俺を知る一部の人間は、口を揃えて皆こう語る――喧嘩無敗伝説と。こうして今に至る訳だが、その伝説は今でも根強く此処に残る。
「くしゅんッ」
「あーほらほら、シャツ1枚じゃあ風邪ひくだろ」
「じ、じゃあ着替えて来る」
「いーよ。こうすれば温かくなる」
「ぇ、だ、だって着替え洗面所だし…… ッ!」
この時期にシャツ一枚は流石に寒かったらしい。着替えを取りに立ち上がりかけたみさきの腕を俺は自身へと引き寄せると、毛布にくるんで抱き締めてやった。
「な……ッ!い、いいって!第一シズちゃん、上に何にも着てないじゃん!」
「大丈夫、こうすれば寒くないし」
「……!」
「ほら、温かいだろ?」
懸命に、まるで小動物のようにジタバタと暴れてみせるみさきだけれど、当然俺が易々と逃がす訳がない。
次第に力では敵うはずがないと悟ったのだろう、みさきは渋々と抵抗することを諦めた。遠慮がちにチラリと俺の身体を見る。そしてそっと右手で肌に触れ、心底心配そうにこう呟いた。
「……シズちゃんの身体、傷だらけだね」
そういえば、と改めて自らの身体に視線を向けてみると、そこには確かに無数の傷跡があちこちに刻み込まれていた。まず目を引くのは、胸元の辺りにうっすらと残る大きな切り傷。銃で撃たれた腹部の傷跡はもう少し時間を置けば消えてしまうだろうけれど、高校時代、初対面時に臨也に斬り付けられた時のこの傷が癒える事はずっと無かった。
多分この先もずっと、この傷跡が癒えることなんてないのだろう。例え肉眼で見えることがなくなろうと。
「舐めときゃ治る」
「(犬じゃないんだから)」
「……気になるのか?」
「うん」
「………」
「でもいいや」
「いいのかよ」
「うん。だって……シズちゃんが聞いて欲しくなさそうな顔してるし」
「え、」
ドキリ、とした。
思わず頬に手をやる、無意識のうちに俺は感情を顔に出していたらしい。下を向いたままみさきが続ける。
「駄目だよシズちゃん、1人で抱え込んじゃあ」
「……」
「無理に聞きたいとは言わないけど……正直気にはなるんだけど……でも、話を聞いてあげることくらいなら、私にも出来るから」
「……ッ」
多分、今の俺にはその言葉だけで充分だったんだと思う。自然と涙が溢れ落ちそうになるのを何とか必死に耐えてみせた。きっと物凄く嬉しかったのだ。それは他の何よりも今までで1番嬉しかった言葉だったのかもしれない。みさきの表情は見えなかった。だけど今はそれでも良い、俺の顔を見られずに済むのだから。
沸き上がるのはみさきを愛しいと感じる気持ちと、本当のことを打ち明けることが出来ない、ただひたすらな罪悪感。どんなに心の優しいみさきでも、俺を化け物だと知った日にはそれを拒絶するだろう。今までの人生の経験が、それを決めつける確かな動機になる。
「ごめん」
何に対する謝罪なのか、もはや俺には分からない。ただその声はやけに弱々しくて、自分でも驚いてしまう程だった。
「……次いきなりこんなことしたら、怒るからね」
「うん」
「夕飯も作らない」
「うん」
「プリンも……没収」
「……うん」
「めちゃくちゃ苦い砂糖抜きコーヒー飲ませてやる」
「う……うん!?」
ああ、これが幸せってヤツなのか、と人間臭い思考に囚われて。みさきの手首の赤い痣は暫く消えそうにないけれど、初めて大嫌いなこの力を大切な人を守る為に使いたいと、心の底から強く願った。だからこそ今気付くことが出来なかったのかもしれない。自分のせいで、無関係なみさきが狙われることになろうとは。
ただ今この瞬間だけは、つかの間の幸福を、温もりを感じていたかった。――あまりにも今が幸せ過ぎた。