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朝食を軽く摂ったあと、みさきが救急箱を片手にリビングへと戻って来た。
空になった食器を片付け終えるなり、みさきが俺を手招きするものだから若干照れ臭くはあったものの、素直にそれに従う。普段はファーストフード店の味濃い食事や、コンビニ弁当で簡単に済ませていた俺にとって今朝のような朝食はとてつもなく美味しく感じた。
「……うん、良かった。熱はちゃんと下がったね!」
みさきの冷たくて心地よい小さな手が、俺の額にそっと触れる。口にくわえた体温計は確かに平熱を表示していた。それなのに、やけに熱い。何って……何が?
今朝「昨日40℃近くあったんだよ」と、笑いながら話すみさきの言葉が、ふいに脳裏に浮かぶ。一瞬冗談にも取れたのだが、どこか気だるい身体の感覚が、それを事実なのだと証明していた。どんなに頑丈な身体でも、内側から攻められれば人並みに風邪だってひく。特にそれがウイルスだったり、そういった類のものなら尚更だ。ただ、40℃という高熱はそう滅多に出るものではない。正直、かなり驚いた。
「(身体は頑丈でも、風邪ばかりはなあ……)」「(……そんなに気が滅入ってたのか、俺)」
心当たりなら、たくさんある。いずれも全てがノミ蟲のせいである事が、昨夜の件ではっきりと分かった。
「(だから、あんな夢)」
「(もう思い出す事なんかねぇと思ってたのによ……)」
浅い浅い眠りの中で、短いようで長い夢をずっと見ていたような気がする。よく覚えてねえが多分、俺が小学生のガキだった頃の――とても懐かしい夢だった。
学校帰りの通学路にある踏切近くの小さなパン屋。いつも怪我ばかりをしていた俺に牛乳をくれた年上の女性。所謂、初恋の相手とも言うべき懐かしい存在だ。
「君、大丈夫?」
周りに恐れられていたにも関わらず、そう言って俺に優しく微笑みかけてくれた彼女の笑顔が今は胸にチクチクと刺さって痛い。あの笑顔を思い出す度に、同時に責められるような感覚に陥るのだ。随分と昔の事なのにその夢はやけに鮮明で、苦い苦い過去の思い出は長い間俺を苦しめ続けた。
分かってる、それは全て自分のせいなのだと。それは自分への戒めなのだと。俺は好きな人を守る為に、好きな人をも傷付けてしまった。守りたかった、ただそれだけの事なのに。だから俺は小学生なりに考えて考えて考えて――「誰も愛さなければ良いんだ」、と。
愛する人を傷付けぬように。
自分が二度と傷付かぬように。
誰よりもこの力を恐れていたのは、もしかしたら俺自身だったのかもしれない。本当に守りたい大切なものを、俺は幾度も傷付けてきた。その度にズキズキと痛み出す心臓が憎くて堪らない。いっそのこと心なんていらないんじゃないか、そうしたらこんなに傷付く事などないのに。人を傷付けることしか脳のない化け物に心なんて必要ないのに。
みさきの身体は小さくて俺なんかが触れてしまったらすぐに壊れてしまいそうな華奢な身体。だからこそ触れることなど決して許されないはずなのに、俺は堪らずみさきの腕をぐいっとこちらへ引き寄せると、触れるか触れないくらいの間合いで、それでも力強く抱き締めた。間近に感じる人間のぬくもりを味わいつつ。
「……シズちゃん?」
不安げに俺の顔を覗き込もうとするみさき。しかし今の俺は自分の表情を悟られなくなくて、優しい香りのするみさきの肩へと顔を埋めた。何の抵抗もなしに大人しく抱かれるみさきの身体は、俺が想像していたよりも小さくて……儚くて。
「悪ぃ、ほんの少しだけでいいから」
「……」
「だから、今はこのまま」
ーーああ。俺は化物、なのに。
今この胸に沸き上がる感情を、どう表現すればいいのだろう。俺の事を知って欲しい、だけどずっと知らないでいて欲しい。矛盾したこの思いを俺は知らない。
例えどんな犠牲を払おうとこの手だけは手放したくないと思った。今まで生きてきた人生の中で、これほど他人に優しくされる事など俺にはなかったのだから。